第一章 検死役の娘 第十五話
提出の翌日、検死室はいつもと変わらぬ匂いに包まれていた。
薬草と、石灰と、乾いた血の匂い。
だが空気だけが、わずかに張りつめている。
昼前、重い足音が階段を降りてきた。
扉が開く。
入ってきたのは、見慣れぬ男だった。
衣は質素だが、布地が違う。
胸元には小さな金属章。中央の紋。
父さんが立ち上がる。
「……中央より参りました」
男は淡々と告げる。
「昨日提出された案件の、原本を回収します」
それだけだった。
叱責も賞賛もない。
父さんは無言で帳簿を取り出し、封緘された書類を差し出す。
男はそれを受け取り、封印を確かめる。
「適切な判断でした」
抑揚のない声。
斑が壁にもたれ、腕を組んだまま小さく笑う。
「ずいぶん早いですね」
男の目が細くなる。
「管理は迅速でなければならないのでね」
男と斑の視線がぶつかる。
火花のような、短い沈黙。
その一瞬、私は理解する。
_____この二人は、互いを知っている。
だが、どういう関係かは分からない。
男は室内を一瞥する。
祭壇。
台。
道具。
そして_____止まる。
私に。
「……見ない顔だな」
その言葉は、軽い。
だが視線は軽くない。
値踏みするように、静かに観察している。
「娘です。 補助として、室に入れております」
沈黙。
使者の視線が、改めて私を測る。
「名は」
「紗詠です」
「見習いか」
「まだ正式ではありません」
父さんが言う。
男はうなずき、ほんの少しだけ口元を上げた。
「詠真は優秀だ」
男はその名をあえて呼ぶ。
「よく仕上がった検死役だ。……父に、たくさん教わりなさい」
胸の奥がざわつく。
“仕上がった”。
まるで、道具のような響き。
声は穏やかだ。
だがその響きは、命令に近く、含みのある言い方。
“正しく育てろ”という。
“中央に使える形に”という。
私は問い返す。
「中央では、すべての検死結果を確認しているのですか」
父さんが一瞬、私を見る。
だが止めない。
男は視線を外さずに答えた。
「必要なものだけを」
「必要、とは?」
沈黙。
斑が、靴先で床を軽く叩く。
男はわずかに目を細めた。
「君は、よく喋る」
冷たくもなく、怒りもない。
ただ観察する者の目。
「検死役は、書く側だ。問う側ではない」
私は口を閉じた。
男は原本を懐に収める。
「控えは不要だ。中央記録庫で管理する」
「こちらに残す記録は」
私が言う。
父さんではなく、私が。
「ない」
即答だった。
「記録は一つでいい。複数あると、解釈が生まれる」
その言葉に、背筋が冷える。
解釈が生まれると、困るのだ。
男は踵を返す。
だが扉の前で、ふと立ち止まった。
「紗詠」
名を呼ばれる。
「優秀な父を持つ者は、道を誤りやすい」
振り返らないまま、続ける。
「教わることと、考えることは違う」
それだけ言って、去った。
扉が閉まる。
しばらく、誰も動かなかった。
斑が小さく息を吐く。
「……中央が娘を認識したな」
軽い調子だが、目は笑っていない。
「どういう意味?」
私が問う。
斑は肩をすくめる。
「回収だけなら、わざわざ顔を見る必要はない」
父さんは何も言わない。
机に戻り、帳簿を閉じる。
「中央記録庫は、どこにあるの?」
私は今度ははっきりと聞いた。
父さんは答えない。
代わりに斑が言う。
「知りたいのか?」
「うん」
即答だった。
斑は笑う。
「なら、正式になれ。それでも辿り着ける保証はないがな」
その言い方は、冗談に聞こえない。
私は提出箱を見る。
昨日、溺死とされた死は、もうここにはない。
中央へ送られた。
回収された。
管理される。
死は、消えない。
ただ、上へ吸い上げられていく。
私は理解した。
検死室は終点ではない。
ここは、入口だ。
国家へと続く、入口。
そして_____
私はもう、ただの見習いではいられない。




