第一章 検死役の娘 第十四話
昼の鐘が鳴る頃、検死室は一段と静まり返っていた。
地下に差し込む光は細く、白い壁に淡い線を落とすだけだ。
父さんは机に向かい、帳簿を開いていた。
筆先が紙の上で止まり、また動く。
その繰り返し。
私は壁際に立ったまま、父さんの背中を見ていた。
斑は椅子に腰掛け、靴の先で床を軽く叩いている。
「もうすぐ提出時間です。上から催促が来ています」
「.....わかっている」
父さんは低く答え、筆を走らせた。
紙に記される文字は、淡々と、正確で、感情の入り込む余地がない。
《溺死、事故性高し。外傷は転倒時のものと判断_____》
死因は溺死。
その二文字を、私ははっきりと見た。
「父さん」
声が、思ったよりも震えていなかった。
「溺死じゃない」
父さんの手が止まる。
「.....可能性はある」
「でも、あの刺し傷」
「統計上、溺死で処理して問題はない」
「でも_____」
言葉が、喉の奥で引っかかる。
私は拳を握りしめた。
「でも、あの男の指先、爪の下.....泥じゃなかった。掴んだ痕も、抵抗の傷も、自然じゃなかった。誰かに沈められた可能性だって.....」
斑が肩をすくめる。
「上は”問題がない”案件を好むんだよ」
「でも!」
「紗詠」
父さんはゆっくりと振り返った。
その目は、父というより、「検死役」のものだった。
「お前の気持ちはわかる」
低い声で、淡々と言う。
「検死役は、真実を書く職じゃない」
その言葉は、刃物のように静かだった。
「.....じゃあ、何のためにあるの」
「死を分類するためだ」
「分類?」
「国家にとって必要な形に、死を整える」
斑が苦笑する。
「難しく言い過ぎです。要するに、”都合のいい死因を書く仕事”ってこと」
「.....」
私は何も言えなかった。
父の言葉は、嘘ではない。だが、正義でもなかった。
「この案件は、溺死で通る。上は余計な波風を嫌う」
「.....真実は?」
父さんは視線を落とした。
「真実は、ここにある」
自分の胸を指す。
「だが、紙には書かない」
「.....」
私は、父さんの横顔を見つめた。
いつも通りの、冷静で、穏やかな顔。
ただ一ついつもと違うのは、人を救うでも、裁くでもなく、ただ記録する男の顔。
「父さんは.....それでいいの?」
「いいかどうかは問題じゃない」
父さんは筆を置き、深く息を吐いた。
「この国では、正しさは選べない。選べるのは、どこまで嘘を書くかだけだ」
私の指先が、わずかに震えた。
「私は、嘘を書きたくない」
「だから検死役にしたくない」
父さんははっきりと言った。
「.....」
「お前は、優しすぎる。母さんに似ている」
その名を出された瞬間、胸が強く締め付けられた。
「優しい人間は、この仕事には向かない」
「優しさが悪いの?」
「悪い」
父さんは即答した。
「優しさは、この国では死因になる」
沈黙が落ちる。
「.....でも、私は」
「だから、お前には継がせたくない。そして、お前はまだ正式な検死役ではない」
その一言が、刃のように胸に落ちた。
「この立場では何もできない。決めるのは俺だ。あるいは、斑だ」
斑が無言で頷く。
「お前は記録を見る権利を得たに過ぎない。判断を下す権限は持っていない」
「.....でも」
私の声がわずかに震えた。
自分でも驚くほどだった。
「このまま提出したら、あの男は”ただ溺れた人”になる。もし殺されたのなら.....」
「制度は可能性では動かない」
父さんは即座に言い切った。
「確証のない疑念で社会を動かせば、秩序は崩れる。検死は真実を暴く仕事ではない。秩序を保つための、”基準”を示す仕事だ」
私は唇を噛んだ。
父さんは立ち上がり、提出箱の前に立つ。
薄い紙束を、箱の中に滑り込ませた。
溺死。
それが公式記録となる。
ガタン、と木箱の蓋が閉まる音がした。
その音はやけに大きく響いた。
私は、見ることしかできなかった。
足元が冷たくなるのを感じた。
「父さんは.....」
「俺は、検死役だ」
父さんは背を向けたまま言った。
「そして、お前の父親だ」
「.....」
「父親としては嘘をつきたくない。検死役としては、真実を書けない」
しばらくして、低い声で続けた。
「だから、何も言わない」
私はその言葉を聞いて、俯くことしかできなかった。
「紗詠」
父さんが私の名前を呼ぶ。
「お前は感情で検死をするな」
静かだが、決定的な声だった。
「感情で疑えば、いずれ世界を疑うことになる。それは革命家のやることだ。検死役の仕事ではない」
私は返事をしなかった。
代わりに提出箱を見つめる。
そこには、溺死という言葉が収められている。
真実は、どこにもない。
_____紙に書かれなかった真実は、この国では存在しない。
その事実が、はっきりと理解できてしまった。
「.....私は、書く」
小さな声で、そう言った。
父さんは振り返らなかった。
「いつか、全部」
検死室の灯りが、遺体台の白布を淡く照らしている。
光は真実を照らすためにあるはずなのに、この国では真実を隠すために使われていた。
私は、その光の下で初めて知った。
父が、国家側に立つ人間であることを。
そして、
自分が、そこから外れてしまうことを。




