第一章 検死役の娘 第十一話
燈華国の灯りは夜でも消えない。
通りには巡回灯が置かれ、路地には常夜灯が吊るされ、窓には紙灯籠が揺れている。
闇は追い払われているはずなのに、私の部屋は暗かった。
灯りをつけていないわけではない。
ただ、心の奥に沈んだ影は、灯火では消えないだけだ。
机の上には、母の文献の写し。
そして、昼間に見た告知文の文言が頭から離れなかった。
_____事故性要因の可能性あり。
「.....嘘」
小さく呟く。
事故では人はあんな顔をしない。
首にあんな痕は残らない。
準備された死の匂いは、もっと静かで、もっと整っている。
私は、布袋から細い縄と古い布を取り出した。
それは、検死室の備品の余り。
父の許可なく持ち出したものだった。
さらに机の引き出しから木製の人形を出す。
幼い頃に父さんがくれた、簡素な人体模型。
骨格と関節の構造がわかる教育用のもの。
「.....確認するだけ」
誰に言うでもなく、そう言った。
人形の首に布を巻く。
圧迫点を意識しながら、少しずつ力をかける。
昨日の紫斑の形を思い出す。
点が連なり、曲線を描いていた。
指でも布でもない、局所的な圧迫。
「鉤.....」
母の文献にあった図。
金属製の曲がった器具。
頸動脈を正確に潰す形状。
私は机の横に置いてあった、曲がった金属フックを手に取った。
古いランプの部品。
用途は違うが、形状は似ている。
人形の首に当てる。
角度を調整する。
力点を一点に集中させる。
「.....ここ」
呟きながら、さらに押す。
理屈は理解できた。
この形なら、抵抗の少ない角度で、短時間で意識を失わせられる。
苦痛はある。だが、暴れる余裕はほとんどない。
「効率的.....」
言葉にした瞬間、背筋が冷えた。
効率的。
それは、殺しの言葉だ。
私は、ふと自分の手を見た。
細くて、白くて、まだ子どもの手。
なのに、考えていることは大人よりもずっと冷たい。
「.....知りたいだけなのに.....」
そう言い訳する。
だが、知りたいという欲求は、善でも悪でもない。
ただの衝動だ。
その時、廊下で床板が鳴った。
私の手は止まる。
扉が静かに開いた。
「.....何をしている」
低い声。
父さんだった。
父さんは、灯りに照らされた部屋の中央を見て、動きを止めた。
机の上の人形。首に巻かれた布。金属フック。
沈黙が落ちる。
「.....再現していたのか」
私は何も言えなかった。
嘘はつけない。
誤魔化す気もない。
ただ、見つかったという事実だけが胸に落ちた。
父さんは部屋に入り、ゆっくりと人形を手に取った。
布を外し、フックを机に置く。
「.....誰に教わった」
「教わってない。文献と、検死記録だけ」
「そうか」
声に感情は少なかった。
だが、その静けさがかえって恐ろしい。
父さんは椅子に腰を下ろし、しばらく黙ったまま床を見つめていた。
「.....やめろ」
短く言う。
「なんで」
私は即座に聞き返した。
自分でも驚くほど、声が強かった。
「知りたいだけ。死因を理解したいだけ。検死役なら、当たり前でしょ」
「お前は検死役じゃない」
「なるつもり」
父さんの視線が上がる。
「.....ならなくていい」
私は眉を顰めた。
「またそれ」
「それでいい」
「よくない」
言葉がぶつかる。
父さんは人形の首を指でなぞった。
ちょうど、紫斑があった位置。
「理解する、というのはな」
静かに言う。
「踏み込むことだ」
「踏み込まないとわからないでしょ」
「わからなくていいこともある」
私は唇を噛んだ。
「母さんのことも?」
父さんの指が止まった。
部屋の空気が凍る。
「.....誰に聞いた」
「誰にも。母さんの文献、異常だった。普通の薬師の研究じゃない」
沈黙。
「母さんもこうやって.....人の死を再現してたの?」
父さんは答えなかった。
ただ、机のフックを手に取り、掌に収める。
「.....お前は、母さんに似ている」
低い声。
「優しくて、理解したがる。理解のためなら、痛みにも踏み込む」
私は黙った。
「だから、検死役になって欲しくはない」
父さんはフックを机に置いた。
「理解しすぎる人間は、この国では長く生きられない」
私はその言葉の意味を、まだ知らない。
だが、父さんの声が初めて震えていた。
「.....でも、もう止められないんだろうな」
父さんはそう言って、静かに立ち上がった。
「やめろとは言わない。ただ、覚えておけ」
扉の前で振り返る。
「真実を知りたいと思った瞬間から、お前はこの国の敵になる」
扉が閉じた。
私はしばらく動けなかった。
人形の首。
布。
金属フック。
それらを見つめながら、静かに思う。
_____それでも、知りたい。
この国が隠すものを。
人が沈黙する理由を。
死体が語らない言葉を。
灯りの下で、私の影は一つだけ、異様に濃かった。




