第一章 検死役の娘 第九話
その夜、私は眠れなかった。
目を閉じると、検死室で見た女性の顔が浮かぶ。
恐怖でも苦悶でもなく、ただ静かに何かを受け入れたような表情。
_____準備された死。
父さんの声が、耳の奥で反芻される。
偶然だ。形状が似ているだけだ。
だが、あの言葉の裏にあったのは確信ではなく、否定したいという願いだった。
私は布団を抜け出し、廊下の灯りをつけずに歩いた。
屋敷は夜になると別の建物のように静まり返る。
床板が軋む音だけが、自分の存在を主張していた。
母の研究室の前で立ち止まる。
父さんは鍵をかけたはずだった。
だが、今日は違った。
ノブがわずかに回る。
鍵はかかっていなかった。
誰かが入った痕跡はない。
だが、開けられたという事実だけが、胸の奥で冷たい音を立てる。
灯りをつけると、積み上げられた文献が壁一面に並んでいた。
古い医学書、宗教史、民族学、儀式論、死生観に関する論文。
母の異常な執念がそのまま書架に凝固している。
私は、あの日見つけた文献の箱を引き寄せた。
中には、黄ばんだ紙束と手書きのノート。
そして、黒革の装丁の一冊。
タイトルは記されていない。
背表紙に刻まれているのは、見慣れない紋章だけ。
開くと、独特な古語体で書かれた文章が並んでいた。
母のメモが余白にびっしり書き込まれている。
「……人身供儀における意識誘導……」
ページをめくる。
そこには、絞殺の図解があった。
縄ではなく、金属製の鉤状器具。頸動脈の圧迫点。痛覚を最小限に抑える角度。
“抵抗反射を抑制する呼吸誘導”。
まるで解剖学の教科書のように冷静で、精密だった。
私は喉を鳴らす。
次の章に、母の赤ペンで丸がつけられていた。
_____「禁忌宗教体系の実在性」。
そこに、ひとつの名称が書かれていた。
《燈骸教団》。
燈骸。
灯りの骸。
光の死体。
不吉な字面だった。
さらに読み進める。
この教団は燈華国成立以前から地下に存在し、国家宗教から弾圧され、存在記録が抹消されたと記されている。
信仰対象は神ではなく、“死に向かう意識そのもの”。
_____死は到達点ではなく、変質の儀式である。
_____選ばれた者は自ら首を差し出し、社会の灯りとなる。
私の指先が震える。
「……社会の、灯り?」
母のメモが余白に残っていた。
“被供犠者は恐怖を抱かぬよう、事前に教育・選別される”
“死の瞬間を神聖化することで、抵抗反応は消失する”
“政治構造との接続可能性あり”
政治構造。
そこに、小さく丸で囲まれた文字があった。
_____「革命神話との関連」。
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
さらに奥のページ。
燈骸教団の紋章図が描かれていた。
鉤状の曲線が円環を描く、首を絞める形に似たシンボル。
今日、遺体の首に浮かんでいた痕と酷似していた。
私は本を閉じ、しばらく動けなかった。
母は、この教団を研究していた。
いや_____研究だけではない。
箱の底に、母の直筆の日記があった。
《彼らはまだ生きている。燈華国の上層部にも、静かに浸透している。
人々は知らないまま、選別され、差し出されている。私はそれを証明しなければならない》
ページの最後に、乱れた筆跡で書かれていた。
《もし私に何かあったら、紗詠には知らせないでほしい。あの子には普通の人生を》
私はその文字を見つめたまま、息を止めた。
普通の人生。
そのために、真実を隠したのか。
それとも_____。
本を閉じた瞬間、背後で床板が鳴った。
振り返る。
廊下の暗闇に、人影はない。
だが、研究室の扉はわずかに開いていた。
誰かが、外にいる気配。
私は、無意識に声を落とした。
「……燈骸教団」
その名を口にした瞬間、屋敷の空気が変わった気がした。
遠くで、誰かの足音が止まる。
静寂が、深く沈んでいった。




