右手だけの修練
第15章
翌朝。
ヒフンは早く目を覚まし、部屋を出て台所へ向かった。簡単な料理を作り、食べ終えると、家を出る。
足は自然と、ミルティ王国の領内にある森へと向かっていた。地面から伸びた太い枝に腰を下ろし、彼は包帯で覆われた左手をじっと見つめる。
(……左手じゃまだ魔法を使えない。どうすれば早く治るんだろう)
深く息を吐き、首を振った。
「仕方ない、しばらくは右手だけで練習するか」
ふと、木にもたれかかっている自分の剣に目がいった。
(剣……。今は無理に魔法を使うより、気の容量を増やす鍛錬をした方がいいかもしれない。そうすれば、上位属性の魔法だって扱えるようになるかもな)
決意を固め、ヒフンは右手だけで魔法の修練を始めた。
――そして数時間後。
太陽が真上に昇る頃、ヒフンの息は荒く、全身は汗で濡れていた。森の木々には炎の跡が残り、二本は完全に倒れている。
枝に腰を下ろして呼吸を整えていると、不意に声が響いた。
「ヒフン」
「……レイ?」
振り向くと、レイが歩み寄り、隣に腰を下ろした。
「どうしてここが分かったんだ?」
「昔、父さんによくここに連れて来られて魔法の訓練をしたんだ」
「そうか」
レイは袋から包みを取り出し、差し出した。
「ほら」
「……ん?」
「食べろ。まだ食べてないだろ」
「……ありがとう」
二人は並んで食事をとり、しばしの沈黙が流れた。
やがてヒフンが切り出す。
「なぁ、レイ。お前の“目の力”って……魔法を打ち消せるんだよな?」
「ん? ああ。基本属性の魔法で、オーラを纏っていなければな」
「そうか……」
「どうして?」
「俺と訓練してくれないか?」
レイは眉をひそめる。
「訓練? その手で?」
「右手だけでやる。大丈夫だ」
ヒフンの瞳に決意が宿る。
「“魔法を砕く目”に対抗できるか、試したい」
レイは少し迷った末、頷いた。
「分かった」
ヒフンは右手を掲げ、近くの木に狙いを定める。
「準備はいいか?」
「いつでも」
「ファイア・シュート!」
炎弾が放たれる――だが、レイの瞳が輝いた瞬間、それは霧散するように砕け散った。
「……やっぱりな」ヒフンは唇を噛む。「じゃあ、オレンジの炎ならどうだ?」
レイは腕を組む。
「それも基本属性に分類される。理屈では砕けるはずだ」
「よし……」ヒフンは構えたが、ふと手を止める。「あ、いや……オレンジの炎は普段、オーラを流してるんだった」
「オーラを纏った魔法なら、俺の目じゃ砕けない」
「じゃあ、オーラを使わずにやってみる」
「……無茶するなよ」
ヒフンは膨大な気を炎に注ぎ込む。
「ぐっ……!」
気がどんどん削られていく。それでも炎は変質し、鮮やかなオレンジへと染まった。
「レイ、いくぞ!」
「来い!」
炎弾が放たれる。レイの瞳が煌めき、力を注ぎ込む。しかし、完全には砕けない。炎は赤へと変じつつも、そのまま標的の木を焼き払った。
レイは大きく息を吐く。
「……やっぱり、目の力は気を食うな」
「大丈夫か?」
「ああ。お前こそ、あんなに気を消耗して……」
「まぁな」ヒフンは肩で息をしながら笑った。
二人はしばし休んだ。――そこへ悲鳴が聞こえる。
「助けてくれ!」
顔を見合わせた二人は立ち上がった。
「ヒフン!」
「ああ!」
声のする方へ駆けると、一人の男が追われていた。追っているのはジーデンの取り巻きたち。本人の姿はなかった。
「……レイ」
「分かってる」
ヒフンが炎を放つと、追手たちは足を止めた。
逃げていた男は二人を一瞥しただけで、そのまま走り去る。
「おいヒフン、どけ!」一人が叫ぶ。「俺たちはお前と関わる気はねぇ!」
「弱い者いじめをしておいてよく言うな」ヒフンの声は鋭かった。
「調子に乗りやがって……!」
ヒフンの炎が燃え上がる。オーラを纏い、オレンジの光を放った。
「今なら見逃す。だが、これ以上やるなら……この炎で焼き尽くす」
「……オ、オレンジの炎だと!?」
取り巻きたちは怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ふっ」ヒフンは小さく笑う。
レイも苦笑する――が、すぐにヒフンの表情が変わるのに気づいた。
「どうした?」
「魔法が……消えない」ヒフンの手にはまだ炎が残っていた。
「はぁ!?」
「どうすれば……」
「上に放て!」
「……なるほど」
ヒフンは炎を空へと打ち上げ、やっと消し去った。
「そうだ、レイ。ひとつ聞きたいことがある」
「なんだ?」
「こっちに来い」
二人は再び練習していた場所に戻り、倒木に腰を下ろす。
「昨日、本を読んだんだ。そこに――“オーラは魔法の天敵”って書いてあった」
「ふむ」
「でも、魔法にオーラを流すと強くなるんだよな?」
「……ああ。俺も王に聞いたことがある」
「で、なんて?」
「魔法の源は“気”。オーラの源は“意志”だ。気と意志が同じ強さでぶつかれば、必ず魔法が負ける」
レイは続ける。
「理由は分からない。ただそういうものらしい。外から魔法にオーラが触れれば衝突して消し合う。でも、内側に流し込めば逆に強化される」
「……なるほど」
「オーラは形を持たない。制御できるかは分からないが……とにかく不定形なんだ。分かってるのは、自分の体か、武器か、魔法にしか流せないってことだ」
「そうか……」ヒフンは小さく呟いた。
レイは真剣な表情になる。
「ヒフン、しばらく魔法の訓練はやめろ。左手が悪化するかもしれない」
「大丈夫だ。無理はしない」
「でも――」
「もう夕方だし、俺は帰る。じゃあな」
ヒフンは立ち上がり、歩き去った。
レイはその背を見送りながら心の中で呟く。
(……本当に大丈夫なのか?)
ヒフンは家に戻り、扉を開けて中に入った。
(……三年、か)
その言葉が胸を締めつける。部屋に入り、ベッドに腰を下ろし、包帯に覆われた左手を見つめる。
(三年間、この手が使えない……)
目に涙が滲み、頬を伝った。
その夜。ヒフンは台所で食事を作り、一人で食べ、再び部屋に戻る。
そしてベッドに横たわり、静かに目を閉じた。
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