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第02話_Dパート_祈りと記録のあいだで

石畳の廊下に、乾いた足音が二重に重なる。

エドワード王子は淡く微笑みながら、礼拝から戻るアイシャと並んで歩いていた。


「おはよう、アイシャ。急がなくてもいいのに」


「後片付けが少し長引いて。王子こそ、校長室からの戻りですか?」


「うん、火星プログラムの支援公約に顔を出しただけ。“象徴”も効率が大事だからね」


「象徴とは……言葉が強すぎます」


王子は苦笑した。

「でも、こうして配慮を受けられるのも象徴の特典だ。君のように礼拝で出られなかった分の補講支援、AI側がもう手配してくれてるよ。制度上は補助対象だし、みんな無料化でもいいくらい——」


アイシャは立ち止まった。

「王子、それを公に言えば、国教会も文部局もおそらく黙ってはいません」


王子も足を止めた。

「でも、英国は“開かれた振る舞い”の実験を火星で行うべきだと、僕は思ってる。

宗教を抑圧せずに規律と存続を両立する——その設計自体が、英国から火星への輸出品だよ」


「……論理としては正しいです。でも王子、それを声にするには、もう少し時代が追いついてからの方が安全です」


アイシャの声音には敬意と共に、一抹の熱があった。

王子は微かに笑みを残し、先に歩き出した。

「君が語る時は、ちゃんと記録されるから大丈夫だよ。僕は黙っているだけでいい」


アイシャが入室するのを見とめてアン先生が教壇から柔らかく頷く。

「ここまでで6人ね。ありがとう、皆さん。

ちょうど良いタイミングで来てくれました。アイシャ、よろしければ次をお願いします」

半円状に教壇を囲む座席配置の一番手前、入り口の傍がアイシャ用に空けてあった。

イスラム教における男女隔てられた生活に対する配慮で教室のレイアウトやパーティションがムスリム女性の講義参加を可能にすべく全力で工夫された配置となっている。



アイシャ・ナシームは自席で立ち上がり、語り始める。

「先生、ご配慮ありがとうございます。

遅れての参加となりましたが、こうして意見の場に加われるのは、英国がまだ“余白”を保っている証だと思います」


「火星で暮らす人々の中には、自分の意思で“祈る場所”を作った者がいると聞いています。

宗派も看板もなく、ただ“語りかける空間”として」


「火星には資源もあるでしょう。技術も進みます。

でも、人が“語りかける”自由そのものが存在しうる場所であること——それを維持することは、国家や企業の都合とは異なる意義を持つと、私は考えます」


アイシャは一瞬息を詰めると、ほかの全員に目を走らせた。パーティション越しの影ではあるが、心なしか、王子がうなずいたようにも思えた。


「技術や思想が、火星に“定義”を持ち込むなら、沈黙や信仰もまた、その定義の中に組み込まれるべきです。

それが、火星に送る同胞を送る者にとっての責任だと、私は思います」

静かな余韻と共に、彼女は席に着く。


2,3の信仰と生活に係る質問を挟み、アン先生に促されたセオが扇の要にあたる席に立つ。抑制された調子で淡々と話し始める。


「……火星は、2100年の世界の“周縁”です。

米国・中国・インド、そしてアフリカ新興圏が地球の中枢を構成するなかで、火星社会は正式な定義を持たない地帯として残されている」


「国家が機能しない分、企業が制度を設計し、その制度に思想が付随していく。

火星における宗教や文化の温存は、単なる残存ではなく、“統合のための緩衝帯”として利用される構造でもあります」


「英国は、この環境下で資源やハードの競争の先頭争いには加わりません。

代わりに、“振る舞いの形式”と“語彙の標準化”を通じて、火星の社会構造に間接的な影響を及ぼすポジションを取っています」


(このあたりで、王子に目を向ける。無言の中心としてそこにいる象徴へ、無言の尊重)


「私はグレースカレッジ代表として、“教育的な記録の設計”に関わっています。

それはつまり、将来的に火星で再利用される発話の“構文単位”を試験的に積み上げているということです」


「今日のこの講義も、将来の教育モデルや外交交渉の訓練データとして記録対象になるでしょう」


(終盤、アン先生に視線をやり、体制内の合意形成のコードとして視線を重ねる)


「……以上です。今日は時間の都合上、質疑を控えますが、

発言の多くは処理・記録される見込みですので、今後の使用に備えてご確認ください」


やや張り詰めた静寂が一瞬場を支配したが、アン=ルーエルの立ち上がった音で自然に途切れた。

「ありがとうございました。

今日の議論は、それぞれの視点から火星という“未定義の場所”を照らしていたと感じます」


「科学技術の応用、身体と文化の接続、情報環境の運用、宗教の居場所——

それらの話題を、思索ではなく振る舞いとして持ち込んでくれたのが、とても良かったと思います」


「火星はまだ、制度としての国家を持たず、中央を定めない社会です。

だからこそ、“誰が何を語ったか”がそのまま空間の規範に近づきます」


「英国には軍事も資源もありませんが、“語りの仕様”と“記録の流儀”には歴史的蓄積があります。

その延長線上にあるのが、皆さんのこの講義です」


「どの発言が残され、どれが失われるのか——その取捨選択すら、未来の火星社会に影響を及ぼします。

そういう“今の一瞬”に関わっていることを、どうか意識してみてください」


初夏の開け放たれた窓から、講義の終わりを告げる鐘の音が、やけに力強く響いた。

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