第02話_Cパート_アドマ・セクター
レヴは、気密スーツのフード越しに視界の端で何かを見つけた。
「……あれ」
乾いた高原を切り裂くような谷の、その先に突き出した鉄塔の上端。赤茶けた地平を背景に、鈍く反射する何本かのアンテナ群。
エクソディーンの本拠地、「アドマ・セクター」の電波塔だった。
「届いたな」
レヴが小さく言うと、隣の双子の片割れ――マヌがグローブ越しに親指を立てた。
「サバイブ! 到着おめでとうだ、レヴ兄弟!」
「オレたちの重機が“へそ曲げずに”来たのが奇跡だよ」
カレイも笑いながら言う。その声はマイク越しでも朗らかで、数日ぶりの「到着」に皆の顔がほどけていく。
「それにしても、案外ちゃんと経路が残ってたな……地図どおりだ」
ギデオンが呟き、ラビ・シュロモが胸元の小さなメズーザを親指で押して一礼した。
「信仰が届くには、まず電波が必要だからね」
ユダヤ教では生活空間に置くことが義務化されている聖句の刻まれた羊皮紙。
移動に際してか、火星なりの現地仕様なのだろうか、彼の胸元にはメズーザと思われる筒上のアクセサリーが輝いている。
気密スーツ越しでも分かる笑いが、クルーザーの内気循環に乗ってさざ波のように広がった。
だがそのとき、レヴは視線の端に、妙な“異物”を見つけた。
谷に沿って立つ、一本の支柱の影。その根元に、人がいた。
真っ黒なローブ、軽く屈んだまま、何かを指先で地面に触れて確かめている。
顔はフードの陰に隠れているが、姿勢は祈るようにも、測定するようにも見えた。
「……誰?」
レヴの声に、ミロが軽く首を傾けて応じた。
「あー……詩の連中。環境分析官って名乗ってたけど、宗派か趣味かは……って、外に出られる格好じゃないね。よく見ると壁画だ。紛らわしいね」
それ以上は語らず、ミロはリュックを背負い直すと、双子の兄弟に声をかけた。
「じゃ、ボクは補給行ってくる。カーペンターズは整備だな。レヴくん、案内はあの人だ」
ミロが顎をしゃくった先、前方に立っていたのは、くたびれた再生布の作業服を着た男。肩口には擦れたままの識別パッチ。髭が伸び、姿勢に威圧感はないが、どこか地面に根差したような存在感を持っていた。
「……よく来たな。まずは家まで案内する。行こう」
レヴは、思わず息を呑んだ。
声が、驚くほど静かだった。何の装飾も感情もなかったが、何かが深く届いた。
ギデオンが歩み寄り、その男――レヴの父に軽く敬礼する。
「お久しぶりです、主任。無事に連れてきました」
「ああ、ありがとう。変わらず電装を頼む」
ラビ・シュロモもまた、父に一礼する。ラビ特有の一歩引いた敬意をにじませつつ、旧知の同胞としての笑みを見せた。
「ここは相変わらず、沈黙の国だな」
「それでも維持はしている。君たちが来てくれるだけで、充分だ」
短く言葉を交わす男たち。その間、レヴは父の背中越しに遠くのドーム状の構造体を見ていた。
枯れ川をなぞるように配置された屋根。一部は鈍く光を反射し、他は薄い膜のように太陽光を受けている。
その下を人々が行き交い、資材や水耕栽培のパレットを運び、低く唸る送風音が微かに聞こえてくる。
それは、確かに「拠点」だった。
そして、祖父の名を想起させる、世界の一端だった。
「レヴ、行くぞ」
父の言葉に小さくうなずき、レヴはその背を追った。
回廊は静かで、壁沿いに並ぶ立体栽培プラントがわずかに灯っている。葉の緑が人工光に照らされて浮かび上がるその風景に、レヴはどこか懐かしさと違和感を覚えた。
やがて、一枚の扉が開く。
エクソディーン、居住ブロックC-1の一角。
照明は抑えられており、壁の照り返しも淡い。気密構造の内側に吸い込まれるような静寂がある。
「……アブラム・ナヘルだ。ようこそ」
それが、祖父だった。
レヴはうなずくより先に、身体がわずかに前屈みになった。挨拶か、畏れか、緊張か。
そのまま座るよう促され、二人は向かい合う。
テーブルに置かれているのは、灰色がかった粘度の高い糧食と、わずかな刻み野菜。
温かい湯気をわずかに立てながら、それは不思議と“料理”というより“提案”のようにそこに在った。
「ここも……火星の“飯”か」
「文句は言うな。これは“効率”の味だ」
アブラムはフォークを取りながら、わずかに目を細めた。
レヴは、それでもスプーンを持った。彼にとって“火星の飯”は初めてではない。
だが、彼の知るそれはLISA圏の施設内で出てきた、清潔で予測可能なバランス食だった。
今、目の前にあるのは――それよりも無骨で、直接的だ。
アブラムがテーブルの端を指す。そこには、板状に乾燥された緑褐色の藻が置かれていた。
「詩のドームから来た板藻だ。砕いて混ぜると、多少マシになる。
そのままだと泥の味がするからな」
「……詩のドーム?」
アブラムは短く笑った。
「詩人たちが暮らす、火星でいちばん遠回りな場所だ。技術でも軍でもなく、記憶で生きてる連中さ」
「火星にも、詩があったんだ」
「……いや、詩しかない場所もある。そういう生き方も、ここでは選べるということだ」
食事は、言葉少なに進んだ。だが、レヴは“沈黙が会話を邪魔していない”という感覚を、はじめて味わった。
たったひと皿の糧食が、すこしずつ“食卓”に変わっていく。
祖父は最後に、カップの底を傾けながらつぶやいた。
「お前の母は、ようしゃべった。頭がいい。だが、ここには、そういうのを忘れに来た奴が多い」
レヴは、言葉を飲み込んだ。
それが、今の火星に来た自分への言葉だと、どこかで感じながら。
カップを置いた音が、室内に静かに響いた。
そしてようやく、彼はこの場所に“腰を下ろした”という実感を得た。