第10話_Dパート_そして君に向けて
夜の帳が静かに降りる。
エリナの部屋は熊本の丘陵地帯、秋の虫の声がかすかに窓の外に響いていた。月は半分欠けていて、星がよく見えた。
机の上には、封を開けていない海外からの封筒と、開いたままのノートパソコン。画面には「通信ログ再生中」の小さな表示と、再生バーの先で止まったレヴの映像。あの夜の中継だ。もう何度も見た。
カップに入れたハーブティーはもう冷めていた。けれど手を伸ばす前に、エリナはそっと一枚の便箋を取り出した。
──レヴへ
いま、静かな夜です。
でも、外がこんなに静かだと、かえって騒がしいものが胸の中で響くね。
あの日。あなたが画面の向こうで、「まだ、なにも起きていない」と言ったとき、私はきっと──すごく変な顔をしていたと思う。
だってそれは、「なにも起きてない」と“言うしかなかった”人の顔だったから。
思い返せば、イギリスのこと、火星のこと、たくさんのことがありすぎて、どこから振り返ったらいいのかわからないけれど……それでも、たった一つだけ、確かなことがある。
**私は、あなたの“今”に間に合わなかった。**
何が起きているのかを知らないままに、知らないふりをしていたままに、世界の隙間で言葉を選ぶあなたの傍に、いられなかった。
だけど、後悔はしてないよ。
だって、あの日々の中で私は確かに変わった。
グレースの教室で。茶会の芝の上で。ベアトリスやセオや王子と、見せかけの“儀礼”の中で、その先の本当の問いを探していた。
そして今、問いが生まれたなら、答えを待たずに動き出せる人が必要なんだと思う。
あなたは、そういう人だ。
だから、私は一人の観測者としてじゃなく、動く側に立ちたい。ここからできることが火星を語ることしかなければ、そこから始める。、
言葉は、ただの音じゃない。
**届かないと思っていた声が、誰かの“迷い”を震わせることがある。**
それは、あの日のあなたが、私に教えてくれたことだよ。
……きっと、これからの私たちは、“火星”とか”地球”という言葉だけではもう足りない場所に立つのかもしれないね。
けれど、それでも。
**遠い場所にいる“きみ”に、私は今、手紙を書いている。**
それだけで、少しだけ、迷いが薄れた。
また書くね。
そして、もしあなたがこの手紙を受け取ったら──
そのときは、少しだけでも笑ってほしい。
「エリナは、ここまで来たんだな」って。
地球、日本、熊本。
秋月エリナより。
---
ふとしたはずみで紙に書いてしまったが、火星に送るには当然、スキャンして電子化しないといけない。
それでも、今回は手書きでしたためたい気がしたのだ。
画面がスリープモードに切り替わる寸前まで悩んでから、エリナは指で一瞬止め、スキャンを取り、保存ボタンを押した。
封筒の中には、あの日のグレースカレッジの集合写真。司も、鈴音も、綾も、そして、セオと王子もいる。みんな、まっすぐにカメラを見ている。
今はまだ、その中心に自分の場所はない。
けれど、ページは確かにめくられた。
物語は、次の章へ。
第一章、完。
第二章──「火星環節域」へ、続く。




