第10話_Aパート_帰国と静かな問い
ヒースロー空港を飛び立ったのは前日の早朝だった。
熊鷹の一行は、英国の地に最後の一礼を残し、約十三時間のフライトを経て福岡空港に降り立った。
そこからは国内移動だ。乗り継ぎの時間は最小限に抑えられ、新幹線に乗り換えて熊本駅へ。
夏休みらしい陽射しの中、改札を抜けると、そこに待っていたのはエリオットの車だった。
「乗って、送るよ。君たちの荷物は先に宅配に回してある。便利になったものだね。ほんとに」
エリナの父、エリオット・秋月。
講師をしていたときより少し疲れた表情を浮かべながらも、声には娘を迎える安堵の響きがあった。
後部座席に並んで座ったエリナと鈴音は、数時間ぶりの静けさに肩を落とす。
「……疲れたね」
「ね。国境って、空気が違うだけじゃなくて、気圧まで変わってる気がする」
軽口を交わしつつも、車内の空気はどこか沈んでいた。
やがて車は鈴音の家の近くに着き、彼女が荷物の一部を受け取りながら降りる。
「また連絡するね。……それと、ありがとう。いろいろ」
「うん。こちらこそ。おつかれさま」
後部ドアが閉まる音とともに、会話は切れた。
車が再び走り出すと、エリオットがふと口を開いた。
「……火星の件、見ていたよ。中継」
エリナは静かに頷いた。
「サラさん、元気そうだった。少し、安心したかな」
「それは良かった。……が、そうも言っていられなくなった」
彼の口調には、日常を取り戻したいという願いと、叶わぬ現実への諦めが交錯していた。
「株は……まあ、大きくやられた。幸い致命傷にはならなかったが、生活は変わる。君にも、不便をかけると思う」
「……分かってる。パパが無理をしてたのも、なんとなく気づいてた」
しばし沈黙が続いた。
その後、エリナはふいに口を開く。
「パパ、ひとつ聞いてもいい?」
「なんだ?」
「もし、火星に行けるって言ったら――私は、行くべきだと思う?」
エリオットは言葉を選ぶのに少し時間を要した。
「……君が見たもの、感じたもの。それをまだ語れないなら、語れるようになるまで考えればいい。
だが、いつかは……その“わからなさ”を超えて言葉や行動にしないといけない。
そういう役割を果たさないままではどこかで滞留したままになる。
火星にせよ、ほかの何かにせよ君がその一歩を踏み出すなら、私は誇りに思うよ」
車は秋月家の前に静かに止まった。
エリナはドアを開ける前に、後部座席で軽く身を前に乗り出す。
「ありがとう。……ただいま」
「おかえり。まずは、ゆっくり休むといい」
彼女は夜風を受けながら家の玄関へと歩み出す。
後ろで車のドアが閉まる音、車がゆっくりとガレージに収まる音。玄関の取っ手をつかんだ時、家に戻るのも半月ぶりだと、ふと気づいた。




