第01話_Cパート_それぞれのAI
行頭の1文字下げのみ行いました@2025/08/18
制服のネクタイをゆるめながら、日野葵は部屋のドアをそっと閉めた。
足元のカバンを、いつもの場所に置く。壁際の低い棚。取っ手が擦れて少し毛羽立っている。
そのまま立ち上がって、部屋の窓を細く開けた。
冷房をつけるにはまだ早いと思った。風が入ってくる気配はなかったけれど、それでも空気が動く音が好きだった。
スカートの折り目を直しながら椅子を引く。
スクリーンの端末が、葵の手の動きを認識してぼんやりと点灯する。
柔らかい白が静かに灯る。そこに“誰か”がいる気配はなかった。
──それが普通。
(……いつも通り、だよね)
端末の右上に、小さなアイコン。
話しかければ返事は返ってくる。でも、会話らしい会話はない。
AIに頼りすぎるな。AIに任せるな。AIは危ない。もっともらしい注意とともに、それでもAI教育は進められている。
スケジュールの最適化。練習記録の整理。気温と湿度のログ取り。勉強のアドバイスは、手がかりになることもあった。
弓道部の活動には役立っているし、勉強の進捗もフォローしてくれている。
でも、ただそれだけだった。
親や教師に口うるさくされていたら、もっと嫌だったのかもしれない。
けれど、AIだけで見たとき、どういう存在なのか。
自分の生活の中で置き場所が定まらないまま、便利さだけ少し受け取っている。
「……今日の練習、記録まとめておいて。あと、試験前の週は火曜日を軽めにして」
《了解。来週火曜の練習時間短縮のため、負荷を15%減少》
淡々とした返答。いつもと変わらない、正確な応答。
名前もつけていない。通知音も出さない。スマホのホームにも出していない。
(誰かと話す、って感じじゃないよね)
彼女にとってAIは、あくまで“道具”だった。
整えて、使って、成果を出す。余計な感情も、雑音もないのがちょうどいい。
人と話すのが苦手なわけじゃない。けれど、AIにまで感情を求めるのは、
なんだか世界に囲いを増やしてしまうようで、少しだけ苦手だった。
(でも、みんな……今日の説明会では、ちゃんと“話してた”)
燕尾服の執事。猫が変身したメイド。柔らかい笑み。
個別最適化されたAIが現れるたび、周囲はざわつき、少しだけ浮き足立った。
(かわいい猫だったな。人に化けるのも新鮮だった。私もあんな風に…)
そう思った自分に、少し驚いた。
羨ましいというより、遠い感じ。自分とは違う世界に見えた。
でも、遠いからといって目を背けても仕方がない。
アン先生は言っていた。「まずは話してみてくださいね」と。
葵は立ち上がると、もう一度椅子を引き直して座りなおした。
カチ、とスクリーンの端を軽く叩く。
画面の光が少し強くなり、AIアシスタントが起動する。
「……じゃあ、留学の準備。はじめなきゃ」
葵の声は、ごく静かだった。
けれどその響きは、どこか新しい場所へ踏み出そうとする音に聞こえた。
「日野葵様。グレースカレッジ連携AI、留学サポートモデル、接続を開始します。」
表示されたのは、青みを帯びた純白の背景と、淡い金のフレームに収められたロゴ。
その中心に、光の粒子が形を持ち始める。
──そして、現れた。
姿は十代後半ほどの青年。深い藍色の上衣に、英国式の詰襟。漆黒の髪をすっと後ろに流し、眼差しだけがまっすぐに射抜くような、整いすぎた虚構の相貌。
「ご機嫌よう、葵様。短期渡航に向けた調整を、私がお手伝い申し上げます。」
一歩進み、軽く一礼。声の調子も言葉遣いも、まさに──王室仕込みの教育補佐AI、あるいはそれを模した応対ぶりだった。
(……わ、ほんとに来た。しかも“これ系”……!)
心の中で何かが浮き上がる。堅物の古閑くんならまず文句をつけそうな、“あざとすぎる”AIの一例。
だが葵は、意外にもそれを不快とは思わなかった。
むしろ、振る舞いの整い方に、ちいさな驚きがあった。
「……よろしくお願いします。えっと、何から……」
「まずは、ご予定とご希望から。日程、滞在中のカリキュラム、必要に応じて希望科目の強化などを。すべて、葵様の歩調で結構ですよ。」
押しつけがましさがない。かといって、距離感が曖昧でもない。
“こうあるべき”の完成形が、**人の対話として自然な温度で実装されている──**そんな印象。
(どうしてこんなに丁寧なのに、“演技”って感じがしないんだろ……)
画面越しの彼は、読み取るような目線もせず、ただ控えめに、次の言葉を待っている。
──これが、あのアン先生が言っていた「向き合うべき相手」なのだろうか。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
葵は、画面に向かって姿勢を正した。
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熊本市でも有名な神社の裏、元は観光客向けの売店だったと思しき寂れた自室にたどり着き、木戸に鍵をかける。とはいえ、蹴破れそうなつくりだ。
スマホの通知がうるさい。自転車をこいでいる間は気にならなかったが、ずっと鳴っていたのだろうか。
普段使っているAIを晒されるという羞恥プレイに、挙句冗談では済まない爆弾発言をかまされるところだった。
「たくさんお話してあげてくださいね」ではない。既にたくさん話してしまった。人には聞かせられない母の世迷言まで。
とはいえ、留学準備は強制的にAI経由ということで、準備物の確認から日程の調整まで、このうるさい奴と向き合うしかない。
説明会で黙っていてくれたのは奇跡だった。
司は仕方なく、部屋に固定したモニタの連携を再開し、自称ロイヤルアシストAIに発言権を渡した。
「酷いよ司!ずっと呼んでたのに。帰りの間。部屋に帰ってからも!ずっと!!」
概ね予想していたことではあったが、やはりミュートにして正解だったと自分の判断力がまだ正常であることを確かめられた。
「アン先生がね!自分の責任で話して良いって。全力で司を支えなさいって!やっとあたし!自分の役目が!果たせるよ!!」
そのような大げさな役目を割り振った覚えはない。
実のところ、たしかに、病欠したときなぞは手持ち無沙汰にあることないことひとりごちた。だが、独り言なのだ。
相談したわけでもなければ、助けを求めたわけでもない。ただ、飼い猫に愚痴るくらいの自由は構わないじゃないか。猫なんだし。
猫はいい。
余計なことを言わない。不必要に近寄っても来ない。しかもAIなら餌も必要ないし、部屋も汚さない。食器や端末の上に乗って汚したり壊すこともない。
今となってはただただ迂闊だったのだが、留学に必要だからと高校供与スマホのデータアクセスを許可した結果がこれである。
画面の端に座ってただけの頃はよかった。説明会では人生最大の恥が教室のド真ん中に鎮座していた。
「ねえ、何とか言ってよ。話してくれなきゃ何も決められないよ」
段々ボリュームを調整して音量を下げていたのをあきらめ、ミュートボタンを押した。
せめてチャットで行きたい。
ひどく疲れた。このまま通知も切ってひと眠りしてしまいたい。
本当に猫のままがよかった。黒猫じゃなくて白猫にしておけばよかったのだろうか。
<夕飯はカレーにする?生姜焼きにする?それともお刺身?>
クロネのオンステージは続いている。
「どうせ作るのは僕じゃないか」
寝落ちの前の最後の力を振り絞って一言突っ込みをいれた。それ以前に、今月の食費が心配だなどと、夢に落ちる前の最後の瞬間、現実にもう一殴りされてしまう。