第07話_Bパート_MountAndBeyond-その先へ駆れ
夏の日差しはやや穏やかになり、空は薄曇りだった。
グレースカレッジから車で少し走った丘の上――白い柵で囲まれた乗馬場に、数頭の馬が並んでいる。
「ふふ、今日はおしとやかに振る舞いますわ。貴族式のお手本として」
ベアトリス・クレイヴンが、肩の力の抜けた声音でそう宣言すると、エリナは思わずくすりと笑った。
昨日までのグレースカレッジで生徒たち、講師たちから感じた、どこか緊張感の拭えない気構えとは違う、自然な一言だった。
「馬の扱いは初めてですか?」
乗馬クラブの指導役が尋ねると、エリナは小さく頷いた。
それは日本人らしく身に染みた謙譲の姿勢という以上に、あまりに自然体で臨むセオやベアトリスに対する気後れもあった。
「少しだけ練習したことがあります。……でも、本格的なのは初めてです」
「ご心配なく。今日は“競う”のではなく“運ばれる”日ですから」
その言葉に、エリナは曖昧に笑った。――まるで、それが自分の今の心を見透かされたようで。
やがて4人は、それぞれの馬に乗り、林道へとゆっくり歩みを進めていく。
馬の蹄が草を踏み、葉が風に揺れるたび、エリナの体から少しずつ緊張が抜けていった。
「さっきの、ディスカッション」
並んで馬を歩かせながら、セオがふと口を開いた。
「一条くんの発言、とてもよかったね。あの立場からあれだけの構造を引き出すのは、そうそうできることじゃない」
「……はい」
エリナの返事は短く、どこか悔しさを滲ませていた。
「君にも、あの場での発言を少し期待していたんだけど……彼のあとでは、さすがにやりづらかったか」
買いかぶりというよりは儀礼的な決まり文句なのか解釈に迷いながらもとにかく会話は止めないよう努める。
「……正直、何を話せばいいのか分からなくなりました」
「だろうね」
セオは苦笑した。「でも、それは悪いことじゃない」
「世界を相対化できる力は、リペアー――つまり“既存構造を補強・修復する人間”ではなく、アーキテクト――“再設計する人間”にとって不可欠な素養だ。
君にはそれがある。だが……君は“今ある手の中のもので”やり遂げられないことに気づいて、立ち止まってしまっている。違うかい?」
その言葉に、エリナは小さく眉を寄せた。踏み込んで、来る。
正義感とも使命感とも違うけれど、エリナ自身に向かう好意だとか打算ではなく、セオという人物は何か大きな指針を据えていることを感じる。
日本でよく見た、形だけの優等生や形だけの良い人とは厚みが違った。
あれこれ考えていて、言葉に詰まってしまった。
「……怖いのかもしれません」
「怖い?」
「“選んでしまったら、もう戻れない気がする”……そういう怖さです」
それを聞いたベアトリスが、ふっと息を漏らした。
「……なるほど。“選ぶ”ということが、そんなに怖いものだって、今のあなたを見ていて初めて思ったわ」
彼女は馬の背でゆっくりと姿勢を正すと、澄んだ目でエリナを見た。
「私たちのように、最初から道が敷かれている者にとって、“どこへ行くか”を悩むというのは、正直、贅沢にすら見えるの。
でも、その贅沢が、思ったよりも苦しいものだと気づいた。……少し、羨ましいわね」
エリナは目を伏せたまま、何も言わなかった。
だがその頬に、一筋の風が当たり、揺れた髪がわずかにその反応を語っていた。
「彼女はまだ逃げてなどいない」
セオが断言するように言った。
「ただ、少し立ち止まっただけだ。……だろう?」
その言葉に、エリナはようやく目を上げた。
林の奥に、わずかに開けた空間が見えていた。
「でもね、エリナ」
セオは、手綱を少し緩め、馬の歩調に任せたまま静かに言った。
「君はもう、“答え”を持っているんだよ」
「……え?」
「この乗馬がそうだ。“自分だけではたどり着けない世界”へ、君は自分の意思で馬を選び、乗っている。
運ばれることを受け入れつつ、行き先を任せすぎない。それはもう、“選び直した”証拠なんだ」
その一言に、エリナは思わず、手綱を握る手に力を込めた。
馬の鼓動が、身体に伝わる。
誰かに運ばれる感覚ではない。――確かに“共に進んでいる”という感覚だった。
雲間からわずかに射した陽が、林の道を静かに照らしていた。
エリナの視線はまっすぐ前を向き、そして、何かがその瞳の奥で小さく灯っていた。




