第03話_Aパート_最初の質問
石畳を渡る風が、曇り空の明るさを斜めに運んでくる。
グレースカレッジの中庭には、朝の講義を終えた生徒たちの小さな会話が、霧のように漂っていた。
どこかに朝食の残り香。校舎の奥で音楽科の調律が響き始める。
控えめな喧騒のなか、セオはいつのまにか王子の傍に立ち、滑るような所作で何事かを耳打ちしていた。
エドワード王子は微笑みだけを残し、手元の端末を閉じる。
アイシャは一人、まだ席に着いたまま。
講義の余韻が残っているのか、指先で静かにタブレットを操作し続けていた。
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熊鷹高校の視聴覚室では、短期留学予定の生徒たちをカーテンの隙間から茜色の光が差していた。
夕暮れが静かに侵入してくる。大きな時差のあるこの会議に、ようやく終わりが近づいた。
「セオからの言及通り、今日のディスカッションはここまでとします。
グレースカレッジ側はこのあと移動に入りますが、今後も必要に応じて意見交換の場を設けていきます。質問のある方は……」
「アン先生!」
鈴音の声が、空気を一瞬だけ跳ねさせた。
言葉に迷いがない。誰より早く、誰より強く手を挙げていた。
初回の説明会では丁寧に“ミズ・ルーエル”と呼んでいたはずの彼女も、今はまるで内輪のように呼びかけている。
他の短期留学生たちは慣れたように反応しない。**熊鷹では、それが鈴音の“普通”なのだ。**
「直接的な発表もディスカッションもすごく分かりやすくて、全部面白かったんですけど……
熊本に住んでて、しかも普通の中学・高校を通ってると、イスラム教の人と出会うことも話す機会もなくて。
今日のアイシャさんや、もし差し支えなければルビーさんにも、**その生活の実際について教えてもらえたら**と思って」
(日本で同じことを言ってしまえば、"普通"というマイノリティに対する暴力も、国際交流の場で"多数派"が不明であれば"多様性"を隠れ蓑に知的好奇心を満たせる。けれど…)
秋月エリナはそれが打算なのか、天然のバランス感覚なのか、ただの命知らずなのか、判断がつかなかった。
日英の空間距離を超えてを貫く静寂。
その一拍で空気の色が変わったのを、葵は感じた。
遼が、思わずスクリーンの隙間から差し込む夕陽に目をやりながら、小さくつぶやく。
「……おいおい」
聞こえたのは、葵だけだったようだ。
綾は何も言わないが、指先が組み変わる。
その動きだけが、彼女の心の動揺を伝えていた。
エリナは、眉間にかすかなしわを寄せたまま、鈴音の横顔を見ている。
話を遮るべきか迷っていた──だが、鈴音は止まらない。
「もちろん、もしリスクとかあったら無理しなくて大丈夫です!匿名でも、なんか工夫しても……!」
葵の胸に去来するのは、重たい焦燥だった。
(……信仰を語れるだけの経験や語彙もないのに、一方的に問うのは、どうなんだろう)
だが、誰も彼女を制しなかった。
誰かが正しさを持ち出す前に、その問いは相手に届いてしまった。
アイシャが、ふっとタブレットから顔を上げた。
その表情は怒りでも困惑でもなかった。**沈黙を保留する者の、それだった。**
返答を引き取ったのはアン先生だった。
「ありがとうございます、鈴音さん。
本プログラムの一部として、こうした文化や信仰への関心が芽生えることは貴重な成果です」
「お時間の関係で、今日はここまでになりますが、可能であれば英国側の生徒と自由に交流する機会を設けることで、
理解を深める機会としていきましょう」
セオが、スッと王子の隣から前へ進み出た。
目線だけで一礼し、自然な所作で発言に入る。
「アン先生、もしよろしければ、**滞在中の交流のなかで彼女たちの語る機会を確保して**、
改めてディスカッションの場を設けるのはいかがでしょうか」
一拍、王子がそれを聞きながら頬を緩める。
まるで、自分の玩具が上手く動いてくれたことを楽しむような笑みだった。
アン先生もまた、ゆるやかに頷いた。
「ありがとうございます、セオ。それでは午後の空いていた枠で調整を入れましょう。
有意義なセッションになると、私も楽しみにしています」
鈴音が再び、鈴を鳴らすように礼を述べた。
「ありがとうございます!ほんとに嬉しいです!」
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その明るさが、室内の空気に染み込むまで、しばらく時間がかかった。
熊鷹側の引率教員は、苦笑を浮かべたまま端末に走り書きを始めている。
何人かの生徒はすでに、次の問いを飲み込むように唇を結んでいた。
**だが、ここまで一人を除いて誰も声を上げなかった。**
沢渡鈴音――彼女だけは、正面から世界を見つめていた。
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**普段そうした習慣を隠蔽している日本では、自らの宗教観や年中行事を説明することが特に難しいことだとわかる教養を、この場のメンバーは揃えているはずだった。
実際、例年では選抜を乗り越えてきた短期留学メンバーの学生が、そういった爆弾を投げ込むことはなかった。
教師たちは、油断していた。常識を、信じていたのだ。**




