最初の異物
感情のない男が、死者の声を“視る”ようになった。これはその最初の記録。
静かに始まりますが、霊が見えてきます。
高城廉は、合理だけを信じて生きている。
感情や善意は、判断を狂わせる。
善悪なんて、主観の延長でしかない。
この世界は「得か損か」、それだけでできている。
他人がどう思おうと、彼はその考えを一度も疑ったことがなかった。
午前五時。
窓の外はまだ真っ暗で、室内にあるのはノートPCの光と、ブラックコーヒーの湯気だけ。
静かだった。いや、いつも通り、静かで完璧だった――そのときまでは。
「……たすけて」
聞こえた声は、思ったよりもはっきりしていた。
高城はすぐに顔を上げた。
TVもスマホも消えている。自分以外、この部屋には誰もいない。
なのに、どこかから少女の声が、微かに、湿ったように響いていた。
換気口の方だろうか?
でも、あそこから声なんて届くわけがない。
「空耳か……?」
そう思いたかった。
だがその声は、音というより、どこか脳に直接響いてくるような質感を持っていた。
まるで、自分の意志とは無関係に“誰かの記憶”を再生させられているような。
その夜、高城は違和感を引きずったまま帰宅した。
部屋に入ってドアを閉めたとき、空気が一変したのを感じた。
冷たい――が、冬の冷気ではない。
空気が濁っている。壁も床も、自分自身すら、何かに薄く覆われたような奇妙な感覚。
ソファの脇に目をやったとき、そこに“いた”。
小さな少女がしゃがみ込んでいた。
ランドセルを背負い、セーラー服を着て。
だがその姿は、今どきの子どもにしてはあまりに古く、少し“浮いて”見えた。
「なんだ、あれ……」
目を細めても、消えない。
幻覚か? あるいは残像?
だがその子は、確かにこちらを見ていた。
正確には、“見ているように見えた”。
息遣いも、動きも、ない。
ただそこに、ぼんやりと立体的に存在しているだけ。
少女の唇が、ゆっくりと動いた。
『私、落とされたの。あのマンションの、非常階段から』
声がした。口の動きと一致していた。
次の瞬間、視界の端がぼやけていく。
頭の中に、異物が押し込まれるような、圧迫感。
気づけば、全く別の光景が“見えて”いた。
鉄の階段。暗い夜。誰かの怒鳴り声。
少女の小さな身体が、誰かに突き飛ばされ、弧を描いて空を落ちていく。
(やめろ)
自分の身体が反応する。胸がざわつき、手のひらがじんわりと汗ばむ。
終わった後、視界が自室に戻るまで、数秒かかった。
深く、息をつく。
「……なんだ、今のは」
幻覚にしてはリアルすぎた。
五感のどれもが、あの場にいたとしか思えないほど、鮮明だった。
翌日。
高城は“そこ”へ向かった。少女が言っていたマンション。
頭の中に、なぜか地図のようにその場所が浮かんでいた。
初めて行く場所のはずなのに、迷いもなかった。
古びた集合住宅。
非常階段を見上げると、三階の手すりが歪んでいる。
下には、枯れかけた白い花が一本だけ置かれていた。
偶然? いや、もうそういう言い訳はきかない。
現実と非現実の境界が曖昧になっていくのが、自分でもわかる。
試しに、近くにいた管理人に尋ねた。
「……ああ、女の子が亡くなったよ。先月だったかな。階段から転落してね」
事故だったという。
だが、あの子は“落とされた”と言っていた。
情報が合致しすぎている。
偶然としては、あまりに不自然だった。
その夜、また彼女は現れた。
昨日よりも輪郭がはっきりしていた。
体温も気配も、依然として皆無だったが、そこに“存在”していることに疑いはなかった。
『お願い、お兄ちゃん。伝えて……』
「……誰に」
口に出した言葉は、自分でも予想していなかった。
彼女は小さな紙を差し出した。
メモのような紙には、名前が一つだけ書かれていた。
“山中 克己”
文字を見た瞬間、また映像が流れ込む。
少女と男。
乱暴に手を引かれ、階段へ押し出される。
拒絶の声。抵抗。強く払われ、バランスを崩し――
(クソ……)
高城は目を閉じた。
それは幻でも、作り話でもない。
自分の頭に、他人の死が“流れ込んできている”。
もう否定するのが面倒だった。
数日後、ニュース速報が流れた。
「少女転落事件に新展開。目撃証言から、知人の男が事情聴取――」
画面に映るのは、“山中克己”という名の男。
彼女が言ったそのままだった。
コーヒーが冷めていたが、飲む気にはなれなかった。
高城は黙ってリモコンを手に取り、テレビを切った。
部屋は、静かだった。
やっと終わった。
いや、終わった“はず”だった。
換気口の奥から、また声がした。
「……ねえ、お兄ちゃん……次は、あたし……」
今度は、前より幼い声だった。
高城は黙ったまま、換気口を見つめた。
これは終わりではない。
ただの始まりだと、そう理解した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
静かな導入ですが、少しずつ“視える世界”が広がっていきます。
よろしければ次話も覗いてみてください。