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転生者たちに紡がれてきた日本(仮)  作者: 優紗
第一章 変革の明治(幼少期)
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第三話 大八洲を飛ぶ蜻蛉


―――――――――――<side Takeo > 1891 東京:木下邸


正一にぃが偶然二宮さんと父上の会社で出会ったそうで融資するかどうかを確認するためにうちの家でゴム動力による模型飛行器の実験をすることにした。

二宮さんが持ってきた飛行機は手で持てるほどのもので本格的な木の模型飛行機という印象をもった。


父上の前で実験は行われることになった、飛行機は3mの自力滑走の後、離陸して11mほどを飛行させて着陸した。またもう一回手投げでやると38mほどの距離を飛び仏頂面な父上が珍しく表情を出しており、驚いていた。


そして武瑠と共に作っていた…ほとんどは武瑠が作っていた飛行機を紹介してみた。

そうすると二宮さんはかなり驚いており模型を持ち、なめ回すように見ていた。俺は詳しくはわからないので、武瑠を呼んでおいて質問はあいつに押し付けておいた。


武瑠はその質問に対し意気揚々と答えており俺ら木下家を置き去りに二宮さんと会話を楽しんでいた。

そんな武瑠を正一にぃはため息を吐き呆れいていたが父上はなにか考え事をしていた。

ちょうど武瑠と二宮さんが終わったとき、父上は顔を上げ二宮さんの飛行器と武瑠の飛行機を両方持ち上げ仏頂面でみて二宮さんに声をかけた。


「資金調達の件だが二宮君がうちの愚息とその友達と共に飛行器というものを作ってみるなら出してみよう」

父上は条件付きというものだが承諾した。

そしたら二宮さんはやや食い気味に返事をする。

「こちらこそ、お願いしたいと思っておりました。ありがとうございます!」


二宮さんは上気分で俺と武瑠に話しかける。

「武瑠くんと武雄くん、これからよろしくね」

俺と武瑠も「よろしくお願いします」と返事をし、これからどうしていくかや飛行機についての雑談などすこしついていけない話もあったけど、本当に二宮さんは飛行機についての熱意がすごくそしていい人でこれから一緒にやっていけそうだ。


そして父上はもとの仏頂面に戻るが二宮さんと俺たちが話している光景をみて、少し微笑んでいたかもしれない。


それから道場や基本的な教養を教わりながらも二宮さんのところに行き手伝いをしていた。なお武瑠は両親が許したそうで週に二日ほど泊っているらしい。


二宮さんは玉虫型飛行器を制作を目指しているらしく、なんと有人飛行を前提として作っているそう。

武瑠は転生者っぽそうで妙に飛行機に対する知識がすごく、俺も説明してもらいながらなんとか飛行機について理解できて来たような気がする。俺は基本的に補佐にまわって武瑠と二宮さんが難しいのをやり、父上との調整や機体の製作の手伝いをしていた。


武瑠の成果もあり試行錯誤しながら「玉虫」の製作が進んできた。二宮さんの知識は軽くwikiを参照したぐらいしかないため、詳しいことはわからないが史実よりは進んでいると思う。


そんな順調に進んでいく「玉虫」の製作中にとある重大事件が起きた。

みんなが習ったことがある大津事件である、日本に訪問していたロシアの皇太子が斬りつけられ暗殺されかける事件だ。また司法の独立を守り三権分立を保ったということもある。


この世界では襲われはしたがなんとか警護員が守り、斬りつけられることはなく無傷とのことだ。おそらく転生・憑依者が事前に予防していたに違いない、シークレットサービスのようなものが簡易だがあったようだ。気のせいかもしれないが、前に歩いているのを見た限り日本人の要人には警護が薄いように感じた。

また、これも殺人未遂なため圧力があったそうだが司法の独立は守られたそうだ。


大津事件が起きるも、誰かによる介入により歴史が変わっているが俺達には直接的に関係はなく、そのまま開発は進行していく。エンジンをどうするかとなり、国産のエンジンなんてあるのか分からないし、また海外のエンジンも考慮されたが軽量のエンジンがないことになり助っ人で外国人を雇いエンジン開発を行うことになった。


12馬力のエンジンを開発することになり、本格的にエンジンを積んだ動力有人飛行ができる飛行機の製作に挑戦することを目指した。実験は霞ケ浦で行うことになり、本来なら琵琶湖で行いたいが東京からの利便性を考えて霞ケ浦にになった。


まず、翼の角度や大きさなどによる揚力の数値を検証した。それに基づき、再度設計を行った。何度も凧のように飛ばし試行錯誤を行う。

ついに有人飛行に挑戦を行い、成功する。危うく二宮さんが死にかけることもおきたが、結果は上々で数百メートルという距離を飛んだ。設計が正しいことが分かり、動力を積んだ状態での飛行に挑戦する。


そして、今まで名前をつけておらず、ついに命名されることになった。武瑠により「はやぶさ」と命名された。はやぶさはついに霞ヶ浦へと輸送された。


1893年 霞ケ浦


徐々に清との関係がきな臭くなってきているなか、はやぶさの飛行実験が行われた。

しかし、最初の実験は失敗。水に突っ込んでいった。

揚力が足りていないため翼を大きくし再度挑戦。数秒は飛んだが変な方向に行ってしまった。

修正や改善などをしていき次の飛行はかなり自信をもてるような仕上がりであった。


父上に頼みカメラマンを呼び、飛んだときのために撮影してもらうことにした。飛べなくても写真を見て改善に繋げれるかもしれない。


「では行きます!」

二宮さんは大きな声で俺達に伝える。エンジンがかかる。風もちょうどよく機体設計も自信がある、どうか飛んでくれ!と祈る。


はやぶさは動きだす、速度がついていき地面から浮く。そして高度も姿勢も安定し滞空時間もついに1分を超えた!


「「よっしゃ!!」」

と武瑠とともに喜ぶ!


しかし二宮さんが乗るはやぶさは未だに飛んでいた!

予想以上の滞空時間を見せて余裕の着地を行い実験は成功となった。


後日、父上を呼び再度実験を行うことになった。

無事はやぶさは飛ぶ。

「おお、ついに完成したのか」

父上も驚きと安堵を表情を浮かべる。


「これは戦争を変えるな」

となぜか父上が読んだ軍人さんもはやぶさの有用性にわかったようで考え事をしている。


父上の会社の記者たちもこの飛行機は世界初ということを伝え、もしかしたら日本中を簡単に行けるかもと言うと驚いた顔をうかべていた。


後日父上の会社の新聞に堂々と『人類初!霞ヶ浦で空を飛ぶ!』という感じに書かれたらしい。


きな臭くなっている情勢の中で喜ばしい出来事ということで大々的に取り上げられた。


1901年には父上と二宮さんの合同で木下財閥下の会社を設立することとなった。二宮=木下飛行器と名付けられた。

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