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9.ヒマラヤトレッキング

 土曜日。

 千尋はいつものように迎えに来た。けれど毎回、玄関の呼び鈴は鳴らさない。

 時間になって、アプリに連絡がきて。窓の外を見ると、門柱の陰に千尋の金色の髪が見え隠れするのだ。それで到着を知る。

 鳴らせば母や兄律が対応することになっただろう。母奏子も兄律もそれぞれ夜勤や、夜間営業の店の為、帰って来ると昼近くまで寝ていることもある。

 それを起こすのは躊躇われるのだろう。気遣ってくれているのだ。

「おはよ」

 玄関を出て声をかければ、千尋がふっと表情を緩ませて振り返る。

「はよ」

 普段、連絡は取りあっていても、やはり直接会う方が何倍も嬉しい。胸にくすぶっていたもやもやも吹っ飛ぶ勢いだ。

 俺は千尋の傍らに立つと。

「昨日、送ってくれたイスの画像、凄いね。あれ作ったんだ」

「そ。初めて一人で作った奴。結構頑張った」

 昨晩、『完成』というタイトルで送られてきた画像には、長めの背もたれのある、一人がけの椅子があった。

 全て木製で、背もたれは何本も棒が渡され、緩くカーヴを描いていた。座面も座り心地が良さそうで。

「いいなぁ。千尋の椅子、座ってみたい…」

「ふふ。今度、工房に来ればいい。拓人に座って欲しい」

「本当、家具職人って意外。千尋は器用なんだね?」

「どうだろ。でも、ああいう作業は嫌いじゃない。何にも考えずに没頭できるし」

「へぇ」

 作業中の千尋も見てみたかった。

「今度、お邪魔させてもらうね」

「ん」

 歩き出そうとした矢先、それを引き留めるように千尋が腕を引いてきた。

「なに──」

 振り向いたところにキスが落ちてくる。

 きちんと唇に落ちたそれは、合わせただけだけれど、少し長い。確かな弾力と温もりと。

「…会いたかった」

 ひそめた、少しかすれた声に、千尋の思いを知るようで、ドキリとする。会うのは五日ぶり。俺は額をその肩に擦り付けると。

「俺も…やり取りする度、会いたいなって、思ってた…」

 他愛もないやり取りも楽しいけれど、やはり直接会いたいと思った。

 突然の雨のあと虹を見つけた。

 雲の出る中、綺麗な朝焼けを見た。少し肌寒い朝、玄関先で猫が団子になっていた。何時もの巣にツバメが今年も帰って来た。排水口の間につゆ草が咲き始めた──。

 本当に何でもない風景を切り取って送る。

 けれど、今見たものを直接、傍らの千尋に語りかけたかった。一緒の時間を共有したいのだ。

「拓人…。かわいい。好き。大好きだ!」

「ちょ、千尋っ!」

 その場でぎゅっと抱きしめられる。

 微かに香る甘い匂い。これは一番最初、訪れた場所でした匂いと同じだった。

 南国の香り。

 千尋に抱きしめられるのは心地良い。しばらく味わったあと、軽く着ていたシャツの背を引き。

「千尋、そろそろ…」

 いくら朝、早めとは言え、時折散歩の人やジョギングしている人々とすれ違うのだ。千尋は抱きしめたまま。

「…なんか、ヤバい。拓人が卒業するまで保つか分かんない」

「もたせてよ。その約束。って千尋、とりあえず、ここ往来だから。な?」

 今の所、目撃はされていないが時間の問題だ。嬉しいけど、見られるのは恥ずかしい。

 すると千尋は渋々身体を離し、

「今日は家でトレッキングの予習にすれば良かった…。そしたら、ずっと抱きしめてたのに…」

 向かい合った千尋はかなりがっかりした顔をしている。

「それ、予習じゃないし。てか、今日はヒマラヤトレッキングでしょ? 何処行くの?」

「こっち…」

 気落ちした様に歩き出す千尋が可愛く思える。それでも、俺の手をしっかり握って歩き出した。


 向かった先は、丘陵にある公園。

 でもただ舗装された車道を行くのではなく、畑の中を行く小道を通ったり、川沿いを歩いたり、小川をまたぐ丸太の橋を渡ったり。かなり回り道をしてジグザグ登って行く。

 確かにトレッキングっぽい。

 公園に近づくにつれ、景色も良くなる。歩いてきた方向には街が広がりを見せていた。

「わっ、眺めいい…」

 木陰まで来た所で振り返ると、釣られる様に千尋も振り返る。

 所々、こんもり緑が茂る景色が低山の下に広がって見えた。走る車の屋根に日の光が反射して、キラキラ光る。

 千尋は俺の肩を背後から抱くようにして指差す。

「眼下に広がるのは首都カトマンズの街並み。あれは寺院の屋根。隣はストゥーパ…」

 そう言って指さした先には、ずらりと並ぶ民家の屋根や、お寺の仏塔、高いビルの上にドーム型の屋根が見える。たぶんそれは町はずれにあるプラネタリウムの屋根だろう。

「そうだね…」

 千尋に言われると、そう見えてくる。

 遠くに見える山並みは、ネパールの山──少し低いけど──広がる町はカトマンズの街並み。


 うん。そう見えてくる──。


 要は気持ちだ。そう思えば、そうなる。

 木陰でそんな景色を眺めていれば、不意に肩に置かれていた手が滑り腰に回る。

 千尋は俺の肩に頭を乗せると。

「拓人。しばらくこのまま…」

「うん」

 直接身体に響く声。

 了解の合図に、俺は腰に回った腕を軽くぽんぽんと叩いて見せた。


 その後、公園で一番見晴らしのいい、反対側の見える場所に出た。

 そこからも街が一望できる。眼下には川が流れキラキラと瓦屋根が午前中の光に輝いて見えた。遠くには煙る山が見える。

 意外に緑が多く、それは山裾に近づくほど広がりを見せていた。

「ネパール、カトマンズ…」

 俺が呪文のように唱えると、傍らの千尋がくすりと笑う。

「…ツムリンタール、チチラ、ヌム、セドア、タシガオン、カウマ、ドバテ、ヤングレ・カルカ、ランマレ・カルカ…」

「何? それ。呪文?」

 俺は笑いながら隣を振り仰げば千尋は口元に笑みを浮かべたまま。

「最後はマカルーベースキャンプ。マカル―までの道のり」

「それって…」

「いつか、ベースキャンプまで行ってみたいって、思ってる。登るのはちょっと厳しいけど」

「そっか…」

 それは千尋の父親が通った道なのだろう。

「それ。体力つけたら…俺も行きたいって言ったら駄目?」

 千尋が息を僅かに飲んだ気配がした。それから、満面の笑みを浮かべ。

「もちろん。一緒に行こう」

「やった!」

 一気に未来が開けた気がした。けれど、千尋はいたずらっぽく笑うと。

「でも、シャワーは毎日浴びれないし、水洗トイレなんてないし、夜は零下になって恐ろしく寒いし、一日岩場を歩き通しで、空気が薄くて頭痛に悩まされるかもしれないし、食べ物は多分毎日同じ。それでもオーケー?」

 どうやらただのトレッキングではないらしい。なかなかハードな気配がする。これは下準備がかなり必要だろう。主に心の。

 言われた事をぐるぐると想像してみたが。

「ん、多分、オーケー…」

 そんな俺の様子を察したように千尋は笑うと。

「ふふ。まあでも、今からお金も身体も心も、全部準備しておけば、きっとダイジョブ。一緒に行こう」

「うん!」

 千尋は広がる景色に目を向ける。

 俺も同じように視線をそちらに向けた。眼下にはのんびりとした景色が広がっていた。


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