2.南国
土曜日。
本当に来るのか半信半疑だったのだが、千尋はちゃんと時間通りに家の玄関まで迎えに来た。
龍の絵柄が背中に入った黒のパーカーに白のカットソーとダメージジーンズ。唇や耳を飾るピアス達。そこへキラキラの金髪が加わり、近づきがたさを醸し出しているのだが。
「はよっ」
そう言って、ニコッと笑った顔は糸目で人懐こい。
「はよ…。朝から元気だね」
嫌味ではなく素直な感想だった。
「だって──」
千尋はそう言うと、俺の右手を取ってギュッと握りしめる。
「拓人との初デートだもん。気合、入るっしょ? 沢山楽しもっ」
「う、うん…?」
デート…。デート、なんだろうか?
まあ、一般的なそれではなく、一緒に出かけるから『デート』なのだろう。突っ込んでも仕方ない。そう思う事にした。
千尋は俺を上から下までじっと眺めると。
「てか、拓人カワイイ」
「…かわいい?」
聞き慣れない言葉に問い返す。
俺が着ているのは、オーバーサイズの薄いブルーグレーのシャツの下に白のカットソー。下は黒のジョガーパンツ。ちなみにシャツとパンツは兄律のお下がりだ。
何の変哲もない格好に思えたけれど。千尋はにこにこと笑うと。
「すっげぇカワイイ」
スッと顔が近づいて、あれよという間に頬に軽いキスが落とされる。避ける間もない。
俺はキスされた頬を押さえつつ、驚きに目を見開く。
「…千尋って、もしかして外国育ち…とか? 帰国子女?」
「何それ? 俺は生粋のE戸っ子ダヨ。長期間、日本出たことないって」
「だって…。キス…」
簡単にし過ぎると思う。我知らず頬が熱くなる。すると千尋はヘヘっと笑んで。
「キス、好きなんだ。好きな子にするの。好きって気持ちが溢れるって感じ」
「好きって…」
『好き』を連呼する千尋。その『好き』は、ラブではなくライクよりなのだと理解する。どう見ても、千尋の態度は愛玩動物に対するそれで。
けれど、冗談だとしても、どうして? なんで俺? と聞きたくなる。
きっと聞いた所でこの前と同様、はっきりとした理由は返って来ないのだろうけれど。
「さ。いこいこ。時間、勿体ないって。玄関前で一日終わっちゃうって」
「分かった。行くよっ」
千尋はひと目も気にせず、俺の右手を取るとブンブン振ってから歩き出した。
電車とバスを乗り継いで向かった先はホームセンター。土曜日とあって人出はそれなりにある。まさかと思って聞き返す。
「で、南国?」
「うん。南国直行!」
直行?
俺には全く理解出来ない。
千尋は俺の手を引いてぐんぐんと店の中を突っ切り、左端の外と続いているエリアに向かう。
途中、トイレットペーパーや洗剤、特売お菓子コーナー等が、飛ぶように背後に流れて行った。
奥まで来た所でようやく千尋は立ち止まると。
「ここ」
そう言って指し示す場所には、ガラス戸があった。
「ここ?」
千尋はにっと笑んだあと、そのガラス戸をぐぐっと押して中へと入る。
続いて中に入ると、ムッとした空気に思わず呼吸困難に陥るかと思った。
「な? 南国だろ?」
あ─…。
湿気を含んだ重い空気。天井まで覆う濃い緑の影。確かにここは。
「うん…。南国、っぽい」
すると千尋は頬を膨らまし。
「っぽい、じゃなくて『南国』なんだって。ホラ、鳥もいる。ハイビスカスも咲いてる。ここ、座って」
そう言って、庭木用のヤシが茂る中、休憩用に置かれた白いベンチに座るよう勧めて来る。
ここは観葉植物や、庭木用の大型の植物が置かれているコーナーの一画だった。全面が、ガラス張りになっている温室だ。
鳥は換気用の窓のから入り込んだものだろう。多分、スズメやセキレイだ。
ハイビスカスの他にも、ソテツやアレカヤシ、モンテスラにストレチア、ブーゲンビリア、プルメリアがあった。そこから、甘い香りが漂う。
南国…かも?
「空、見えるだろ?」
上向く千尋を真似て、頭上を見上げれば、ポッカリ空いた天井から空がよく見えた。ここだけ大きく開口部が開けている。
「見える…」
「で、目を閉じる」
うん?
言われるまま目を閉じた。千尋の大きくはないけれど、耳障りのいい伸びやかな声が耳朶に響く。
「風に揺れる木々の音。降り注ぐ太陽の光り。囀る鳥の声。甘い花の香り。眼の前には白い砂浜と遠浅の海。ここは南の島──な?」
千尋の言う通り、次々と思い浮かべ。そうすると、本当に南国にいるように思えた。
「うん…。そんな気がしてきた」
「だろ?」
千尋は嬉しそうな声を上げて、肩に寄りかかって来た。フワリと甘い香りがする。南国の香りだ。
思わず目を開けて隣を見る。
すると、目に飛び込んで来たのは、日に透けてキラキラ光る金色の髪と、じっとこちらを見つめる瞳だった。
とくんと心臓が鳴る。
瞳は思ってもみなかった、穏やかな色をたたえていた。
なんでこんな目で見つめて来るのだろう?
不思議でしかたない。俺は千尋を知らないし、千尋だって俺のことを知らない。
「千尋は、時々来るの?」
「ん。時々」
そう言うと、肩に頭を預けたままベンチについていた右手を握ってきた。
「ここ、教えたの拓人が初めてだ」
「そう、なんだ…。ありがとう。連れて来てくれて…」
「もっと秘密の場所、教えるから。また、来週出掛けよう? 土曜日、迎えに行く」
千尋は真っ直ぐ見つめて来る。俺は何だか気恥ずかしくなって、まともに千尋が見られず俯いて答えた。
「うん…」
握られた手が、とても温かく感じた。
その後、ランチに屋台で買ったホットドックとポテト、飲み物を手に、近くの海岸まで来た。
ここは椰子の木が茂る、ハワイ、オアフ島のワイキキビーチだという。
言われてみれば周囲を散歩するのは外国人観光客と日本人が半々。砂浜はないけれど海岸沿いに作られた公園の芝生に座れば、海が視線の先に広がる。
「ここ、気持ちいいね」
木陰の下になるそこは、初夏の涼やかな潮風が心地よかった。
「ん。ふぐっ」
ホットドックに齧り付いたまま、千尋は返事をする。『そうだろ?』と、目が語っていた。
思わず吹き出すと、千尋の眉間にムッとシワが寄る。軽く握られた拳がコツリと頭に当てられた。
「だって。千尋、フガフガ言うから」
頭を押さえて見せれば、ホットドックを持っていない方の手が伸びてきて、俺の肩を抱くように引き寄せた。
そのまま顔が近づいたかと思うと、口の端をペロリと舌が舐めていく。
「──!?」
「ケチャップ、ついてた」
イヤイヤ。それは口で言うか、せめて指で拭き取ってくれれば──。
「拓人、顔真っ赤」
してやったりと千尋が笑んでみせた。
そうして、今までで初めての、不思議な時間を千尋と過ごし、一日を終える。
その後、千尋は俺を家の玄関前まで送ってくれた。時刻は夕方五時過ぎ。
「駅までで良かったのに…」
「うん。なんか、そうしたかったから。それに、拓人が途中で歩けなくなったら困るだろ?」
「歩けなくなる…って、どうして?」
すると千尋はツンと指先で額をついてきた。
「な、に?」
突かれた額を押さえて千尋を見返す。
「拓人は今、頭も身体もガッチガチで動けなくなってる。久しぶりに外に出て、一人になったら急に周りが怖くなって動けなくなるかもしれない。拓人がユルユルになるまで一緒にいる」
「ユルユルって?」
呆気に取られていると、それには答えず、千尋は不意に俺の肩にヒラリと手を乗せて顔を傾け、唇にキスをした。柔らかく触れるだけ。
間近に俺の目を覗き込むと。
「…キスって、いいだろ?」
にっと笑んでポンポンと軽く頭を叩くと、手を振って帰って行った。
俺はぽかんとして、小さくなって行くその背を見つめる。
好きなだけ暴れて、後片付けもせず去って行く。まるで嵐のようでもあり。
一体、今日一日で何度キスしたんだろ。
俺は今されたばかりの唇に手を触れさせる。残された温もりは、決して嫌なものではなかった。