19.千尋
俺は四月から家を出て暮らす選択をした。
これまでずっと家族にべったり甘えていた根性を、叩きなおすためにもいい機会で。
決めた新居は築年数が四十年以上あるため、大家から幾らでもリフォームしていいと言われた古い平屋の一軒家。
キッチンと浴室、トイレ、他に四部屋ある。小さな庭もついていた。庭は以前住んでいた人が畑を作っていたらしく、綺麗に耕されている。
けれど、一人で住むには少々大きい。
何を考えてそれを選んだのか、誰にも言わなかったけれど、言わずとも皆分かっていたようで。
母奏子は、せいぜいしかっかりなさいよ、と笑顔で言っただけで、あとは背中を叩いたのみだった。何も言うつもりはないのだろう。
兄律は思い切ったなぁと言いつつ、まあ、あいつなら大丈夫かと渋々受け入れたようだった。
ここの家賃は破格の安さで。
学費は母の援助を受けたけれど、その他、生活費は自分で稼ぐつもりだ。兄の店でバイトもしつつ、学業に励む。
じきに加わるだろう相手との生活が今から楽しみで仕方なかった。
「で、今日はどちらまで?」
新居への引っ越しはもうすぐ。もう、荷物はまとめてある。
今日は最後の実家から出発のデートだ。
寝ぼけ眼の律が、朝食のトーストを噛りながら尋ねてくる。
俺はリビングの窓から玄関先に求める人物の姿を認め、急ぎ足でリビングを横切りながら。
「ん。パリのセーヌ河まで」
「そか…。いってらっしゃい…」
ややあきれ顔だが、気にしない。どうせ、律には、いや、他の人間には言っても分からないのだ。
俺たちがどんな素敵な世界を見ているかなんて。
というか、別に知ってもらおうと躍起になるつもりもない。
これは俺と千尋だけの秘密の世界。
「いってきます!」
もちろん、俺の行く先がフランス、パリのセーヌ河でないことは承知している。
今日は薄っすら曇り空。でもそれがヨーロッパらしくていいかも知れない。
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
広がる世界はきっと明るく広く、どこまでも続く。
「千尋!」
玄関先で待つ千尋が振り返る。
「おはよ。拓人」
肩越しに笑みを浮かべたその表情は、俺の好きなものの一つで。
『千尋』には、非常に長く、きわめて深い、そんな意味があるらしい。
千尋との世界はきっと千も万も続く──。
そう思っている。