5話 やあどうも、幸せな私
部屋に置かれた大きな姿見の表面を、そっと撫でる。
実は私は、以前この鏡を都内の骨董屋で見たことがあった。
ここにある物は、同じ家具職人が作った同型の別物で、偶然にも昔から縁樹くんの部屋にあったという。
特筆すべきは、そう、この鏡に貼られていた品名。
“Mirror of Magic”
なんでも、業界で魔術師と謳われた名匠が、素材選びから一人で手作りした作品で、同型の鏡はこの世に数えるほどしかないのだとか。
骨董屋のキャプションにはそんなふうに書かれていたっけ。
名は体を表す、とはよく言った物で、魔法のないはずのこの世界で、この鏡だけが特別なものを映し出すことがあった。
鏡の向こう側。
この世界の仕組みに、私が確信を持ったきっかけは、この鏡を覗き込んだから。
骨董屋の鏡が映し出したのは、私と似た姿の、けれど私より可愛くて幸せそうな女の子。
あの子もこちらに気づいて、私に愛らしく笑いかけた。
あの表情が今でも脳裏に焼きついている。
私は、あんなふうにあどけなく笑えたことは一度もないから。
彼女は自分の名前が苦手らしくて「くろ」と名乗り、私たちはほんの少しだけ、お互いのことを語り合った。
あの子は、今、幸せなのだと言った。
私は、少し、惨めになった。
でも、可愛いあの子のことを、私は嫌いになれなかった。
何より、先にあの子達の仲を乱した私には、拭えない罪悪感があった。
心から幸せになって欲しいと願い、あの子の幸せのための犠牲になれるなら、それで良いとさえ思うほど。
残酷なこの世界の仕組みを知らない彼女は、私に言った。
「大丈夫だよ。こんな私でも幸せになれたんだから、あなたも幸せになれるよ」
続けて確か「あなたにも、あなたを大切に想う人が現れると思う」なんて言ってた気もする。
ある意味、それは間違ってなかったな。
鎖に繋がれるような想われ方だとは、向こうも思っていなかっただろうけどね。
不意に、指先が触れた鏡面が、水面のように波紋を刻んだ。
夢を見ているような心地になりながら、いいや、もしかしたら、退屈なあまり幻覚を見ているのかもしれない。
苦笑をこぼしながら、それでも、波が失せるまで鏡に映った自らをじっと見つめていた。
歪んだ輪郭が整う。
黒い髪に黒い瞳、尻尾のように後ろの一束だけが長い特徴的な髪型は、間違いなく私なのに……。
ぱっちりと開いた純粋そうな瞳。
愛嬌のある柔らかい雰囲気。
不思議そうな表情でこちらを覗き見る彼女は、私とは全く違うと思い知らされる。
「やあどうも、また会ったね、鏡の私」
格好つけて、私からそう声をかけたら、くろちゃんは私には到底真似できない愛らしい笑みを浮かべた。
*
苦しい。
頭がぼぅっとしてきて、顔が熱くなって、自然と涙が滲んだ。
息を求めて呻くかすかな音と、みじろぎ程度のもがきで鎖がかちゃり、と小さく擦れる音だけが耳についてうるさい。
開いた口から、唾液が頬を伝って気持ちが悪い。……違う、この気持ち悪さは、生命維持に必要な酸素だとか血の巡りだとかが不足していることが、本当の原因だ。
顔は熱くてたまらないのに、寒気がしてきて、いっそ笑いたくなってきた。
私は今、縁樹くんに首を絞められている。
理由は歴然。彼が不在の間に、鏡に向かって独りで楽しそうな談笑をしていたから。
まるで誰かと会話するみたいな言葉を、帰ってきたばかりの縁樹くんに聞かれてしまった。彼が何か勘違いするのも無理はない。
問いただされたものの、私が「独り言だ」といい加減にはぐらかしたから、というのも凶行の一端かもしれない。
……いや、仮に独り言だと分かっていても、私を現実に引き戻すために、縁樹くんは同じ手段を取るのだろうな。
最初こそ驚きで抵抗していたけれど、このまま彼の手で息の根を止めてくれるなら、それも悪くない。
縁樹くんの腕を掴んでいた手から力を抜いて、全てを委ねる態度を示せば、パッと首に絡んでいた指が離れていった。
「っかは……おえっ、ごほっ、げほっ……う……」
「ごめんね、蜜柑ちゃん、苦しかったよね……」
どうやら、抵抗をやめたことで、とうとう私が死ぬかもしれないと焦ったらしい。
殺すつもりでやっているわけじゃなかったから、縁樹くんはしおらしく謝罪を述べた。
矛盾した彼の行動に、私は皮肉を込めていう。
「なんだ、殺してくれないんだ?」
「わからない」
「……わからない、ときたか」
「キミを手にかけたら、僕だけのものにできるのかな?」
「ならないよ。二度と口も聞けないし、私は生まれ変わって別人として幸せに生きるんだ」
「それは嫌だな。どこにも行かないで、ずっと僕のそばにいて」
「やだよ」
そっぽを向いて彼の想いを突っぱねる。
でも縁樹くんは、無理やり私の顔を正面に戻して、何もかもを押し付けるようにキスをした。
私の感情などお構いなしに、愛を注いで、激しい情動から身体も徐々に密着していく。
ベッドに組み敷かれていた私は、彼の体重に潰されるんじゃないかと思い、尚も口付けを続ける縁樹くんの肩を強めに叩いた。
「重い、潰れそう」
「じゃあ、反対になろうか」
そう言って、抱きしめるように私の背に腕を回すと、ごろん、と転がり、私の方が仰向けの縁樹くんの上に乗る形になる。
絡んだ腕は相変わらず私を離そうとはしないから、諦めて彼の上に倒れ込んだ。
「重くない?」
「少し重い」
「うわ、女子に重いっていうなんてサイテー」
「もっと重くていいんだよ。キミの実存をもっと感じたいから」
「え、こわ。なにそれ」
「軽いと飛んで消えちゃいそうだしね」
頭の後ろに手を回されれば、なんとなくさっきの続きをされる予感がした。
そしてその予想は的中する。
強引に顔を下されて、何度も口の中を舐めまわされた。息苦しくなってくる。
これだけやりたい放題しているというのに、縁樹くんは無表情で、感情が抜け落ちたみたいに、うっそりと私を見つめていた。
「ねえ、蜜柑ちゃん」
「なんだい、縁樹くん」
「誰とお話ししてたの? ずいぶん楽しそうだったね? どんな話をしていたの?」
「おいおい。こんな環境で話し相手がいるわけないじゃないか。さっきも言ったけど、単なる独り言だよ」
「嘘つき」
「事実でしょ」
「……相手がキミの幻覚だったとしても、許せないんだ。誰の幻と、どんな話をしたのか、教えてよ」
「私の頭がおかしいんだとしたら、それはこんなところに閉じ込めた縁樹くんのせいだろう?」
「なら、僕が責任を取らなくちゃ。ねえ、それで? どんな夢を観ていたのか、教えてくれないの?」
見定めるような目を隠さず、探る言葉を囁く縁樹くんと顔を突き合わせるのが耐えられなくて、頭を振って回されていた手を払った。
ピッタリと彼の胸の上に顔をうずめれば、きっと私がどんな顔をしているか、気づかれることはない。
私にも彼がどんな顔をしてるのか見えなくなったけれど、今は猜疑の目から少しでも逃れたかった。
「鏡に映った自分を友達に見立てて話しかける、赤毛のアンみたいなものだよ。アンとは理由は違うけど、それでも、話しかけてしまったの」
「蜜柑ちゃんって、ニヒリストに思えて、時折妙に夢見がちになるね。あんなに楽しそうに、何を話してたの?」
振り払った手が、再び頭の上に添えられて、どきりとした。
また、無理やり顔を上げさせられるんじゃないかと、わずかな緊張で強張ったけれど、今度は予想外に、縁樹くんの手は優しく私の頭を撫でるだけだった。
時折指に髪を絡めて、梳くようになだらかに。
落ち着いた動きに、私の体も意識も、とろりと溶けだすようだった。
「鏡に向かって独り言するのも嫌なら、他の娯楽みたいにあの鏡を処分すればいいよ」
「……それは、蜜柑ちゃんがどんな独り言をしていたか、聞いてから考える」
「私が嘘をつくかもしれないよ?」
「本当に独り言なら、嘘を吐く理由はないでしょ?」
「あるよ。きみが大嫌いなんだ」
撫ぜるために髪を絡めていた手が握られて、引っ張られるような痛みが走る。
続けて、両手で耳の辺りを鷲掴みにされて、強引に顔を上げさせられれば、また深い口付けをされた。
息が足りなくなるほど深く、長く。
こうやって腕尽くで私の思考を塗り替えようとする縁樹くんはずるい。
小休止の間に、彼は吐息混じりに低く呟く。
「それこそ嘘だって言ってくれないと、今度こそキミを壊したくなっちゃう」
言い返してやりたかったけれど、酸素が足りないぼんやりとした頭と、動かしすぎてふやけた口では、まともな言葉を紡げそうにない。
こちらの回復もままならないうちに、口付けが再開される。
意識が飛んでしまいそうだった。
縁樹くんの腕から解放される頃には、意識が朦朧として呂律も回らず、かろうじて起きている、と言う状態だった。
いつのまにか、横並びに寝そべっていて、柔らかいベッドのシーツに、私は埋もれていた。
「ねえ、いつもそっけないのって、ただの照れ隠しなんでしょ?」
「ふゅ……ひゃに、ぅん?」
彼が何か、私に言葉をかけているのは分かったが、その内容がまるで頭に入ってこない。
何を言ってるのかわからない、と伝えたくて口を開いたけれど、潰れてくしゃくしゃの、言葉とは言えない呻きしか溢れなかったような気がする。
でも、私の声を聞いた縁樹くんは、嬉しそうに微笑んだ。
よくわからないけど、満足したらしい縁樹くんは、ふやけきった顔をしてるだろう私の頬を、指の背で撫でて、幸福そうに私を見つめ続けていた。
私は呼吸を整えることで精一杯で、意識がはっきりするまで、私を見つめる彼をぼぅっと見ていることしかできなかった。
縁樹くんも、呼吸、少し荒くなってるな。
そのことに気づいた頃には、だいぶ思考がまとまってきていて、しかし、口はまだ緩んでいたのか、するりと思い浮かんだ言葉がそのまま漏れる。
「縁樹くんは私を壊さないよ。だって、好きなんでしょ?」
「ふふっ、ちょっと違うな。好きじゃなくて、大好きなんだ。蜜柑ちゃんもそうでしょ?」
「ちょっと違うね。大好きじゃなくて、大嫌いだ」
「素直じゃないな」
縁樹くんは呆れたように笑み、私の頬をつねった。
「痛い」
「痛くしてるんだもん」
可愛らしく言ったところで、縁樹くんは可愛くない。
ムッとして睨めば、手が離されたから、そのまま寝返りを打って縁樹くんに背を向けた。
「……鏡、処分するの?」
「しないよ」
「どうして?」
「さあ、なんでだろう。なんとなく、思い入れがあるから、かな……」
思いがけない縁樹くんの返答に、仄暗い感情が私の中で渦巻いた。
私の胸中に気付かずに、彼は後ろから私を抱き寄せて、耳元で囁く。
「鏡に嫉妬なんて馬鹿げてるからね」
プツリ、と、私の中で何かが切れた。
どろどろした悪意が、内側から押し寄せてきて、助けを求めるように、声を振り絞った。
「散々物に嫉妬して、娯楽を遠ざけたくせに、今更何を言ってるんだい?」
棘のある言葉しか吐き出せない自らに落胆して、ただ、気づいてほしいと祈る。
それなのに……。
「反省してる。あの時はキミの全部が欲しくて、余裕がなかったんだ」
じゃあ、今は全部を求めてくれないの?
「蜜柑ちゃん?」
のそり、と彼の腕から逃れでて立ち上がった私へ、彼は怪訝そうに言葉を投げた。
引き止めるように、縁樹くんの手が私の指を絡めとるけれど、無意識にそれを振り払う。
ゆらゆら、ふらふらと、おぼつかない足取りで私は歩く。
大きな姿見の前に立ち、映り込む自分の酷い顔を見て笑いが込み上げた。
醜い化物の形相。
凶暴な貌に相応しく、絡む鎖を手に、固く握った拳を振り上げて、化物は鏡面を強打し続ける。
映り込む化物に亀裂が走り、ひび割れていく様を見るのは、自虐的な快感があった。
ぐらりと割れた世界が揺れる。
倒壊する世界は報復の如く、私に覆い被さるみたいに押し寄せてきた。
破片が落ちて、肌を裂く。
このまま下敷きになって潰されて、割れた世界の欠片で刺し殺してくれたならいいのに。
それは、世界を歪めた私には、最上の贖いに思えた。
そう、覚悟を決めるほど、簡単には終わらない。
長い鎖を強く引かれて、地面に倒れ込んでも尚、引き摺られ続けた。
わずかな破片が床と擦れて、服が破けたり、血が滲んだりする。
ガシャンッ。
床と衝突した鏡の衝撃音を聞いて、下敷きになることは免れたのだと悟る。
飛び散った欠片が少し、パラパラと私の体に降りかかった。
駆け寄った縁樹くんが私を抱き上げて、肩を揺すって何かを言っている。
彼から心配されているのだと思ったら、ほんの少しだけ、嬉しくなって、その安堵からか、強い眠気に襲われる。
擦り切れた肌の痛みがじわじわと広がってきて、痛みから逃れたい私は、自然と意識を手放した。
*
これは夢だ。
そう実感できたのは、触れられるはずもないくろちゃんが目の前にいて、私の手を取っていたから。
私と違って、可愛くて、優しくて、素直で……。
こう言う子が幸せになるべきなんだと、私も思う。
神様が愛することも、幸せを願う理由も、全部納得がいくし、私だってわかっているのだ。
でも、私の中には恐ろしい化物がいることを自覚してしまったから、そいつが勝手に、手を動かして、あの子に、くろちゃんに、掴みかかる。
自分が彼からされたことを思い出しながら、あの子の首に指を絡めて、きつく縛る。
首を絞められる苦しみを、キミは知ってる?
言ってやりたかったけど、声は出てこなかった。
私はずっと泣いていて、嗚咽しかこぼせなかったから。
夢の中のくろちゃんの顔は見えない。
これは私の夢だから、きっと無意識に、キミの苦しむ顔を見たくないと思ったからに違いない。
そうしてそのまま、彼女は一向に抵抗を見せないから、私はどうしていいかわからなくなって、手を離した。
両手で自分の顔を覆って項垂れる。
その場に崩れ落ちて、誰にともなく叫んだ。
「私だって幸せになりたかったのに!」
ねえ、くろちゃん。
私の幸せが、キミを不幸にするのだとしても……。
私は、幸せを求めていいのだろうか?
蜜柑ちゃんご乱心を経て、次回第6話「ある少年の空想」では満を持して縁樹くんの過去に迫ります。
来週もよろしくお願いします。
ところでこの作品は、ふんわりファンタジー色を含みますが、私の作品は広い括りでの世界観が繋がっていることが多く、神様とか魔法使いとか鏡の向こう側も他作品がメイン活躍スポットだったりします。
他作品の影響を受けて、灰色世界という物語が繰り広げられているわけですね。
一応本作に関連してくる外側の話はメインエピソード公開後独白形式の番外編を用意していますので、なんかわかんない設定はスルーして読んでってくださいね。
作品リストもまとめてるので、よかったら他の作品も見てってくださいませ。
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※pixivFAN BOXで灰色世界本編全文の先行公開を行っています。
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