1話 飛び込んだ先はまだ冷たい
目が覚めると、いつのまにか“今の私”になっていた。
ここが本来収まるべき配役だったのか、それとも、尊い幸福の国を犯した大罪を贖うために押し込められたのか、その真意は神のみぞ知るところだろうか。
往々にして、幸福の裏側には不幸がある。
天秤のようなもので、一方が高い時、もう一方は低くなる。これが、神様が作った世界の仕組み。
鏡を隔てた向こう側、あの幸福の国が、一片の翳りもなく幸福であるために、鏡のこちら側は、どこまでも冷たく、不幸にできている。
なぜそんなことがわかるのか? と問われれば、なんとなく。けれど、そう言わざるを得ないほどに、この世界はあの幸福の国と酷似していて、しかし仕様もないほどに不幸せな国だった。
自らの罪を理解していても、痛いものは痛いし、苦しい時は苦しい。
弱い私が、不幸の国で生まれながらに疎まれる日々に耐えられるはずもない。
だから自然と、次を求めた。
過去の回想に区切りをつけて自嘲する。
「走馬灯……なんて言えば、綺麗には聞こえるね」
私がいるのは、断崖絶壁。
下には海が広がっている。
青い、青い、前回とは逆の色。
「ああ、そうだ、言い忘れてた。はっぴーばーすでい、私、それと……くろちゃん」
他愛のない独り言。
今日は二月十四日。
私と、あの幸福を約束された子の誕生日。
私は今から、この灰色な世界で二度目の自殺をするのだ。
これが歪めた世界への精算となるかはわからないけれど、少なくとも、私の気は済むことに間違いない。
「ごめんね、やっぱり私は耐えられないよ。キミの世界は優しいのだろうけど、鏡を隔てたこちら側は……冷たくて、どこまでも灰色の世界だ」
上着を脱いで、荷物を置いて、立ち上がる。
さすがは二月。まだシャツ一枚では寒い。
けれど、今から下に飛び込むのだから、そんなことは最早どうでも良いことだ。
「だからもう、さようなら」
目を閉じることもせず、私は冷たい海へ飛び込んだ。
……やばい……思ったより、冷たい。
沈んでからそう思った。
普通ならもっと違うことを考えるのかもしれない。
思ったより苦しいだとか、やっぱり死にたくないとか。
でも、本当に思ったより冷たくて……死んじゃいそうだ……。
死ににきたから良いんだけどさ。
波は穏やかで、気を抜いたら体が浮き上がり水底に至れそうにない。
溺死よりは凍死の方が可能性が高いかもしれないなと、思考が過る。
ああ、嫌だな。痕跡も残さず、海の藻屑と消えたいのに……。
それがどれだけ難しいかわかっていても、願わずにはいられなかった。
仰向けになろう。
天を見上げていた方が、幾らか気が紛れそうだ。
その時だった。
私に続くように、それは飛び込んできた。
私を探すように、それは伸ばされた。
私を救うように、それは私を引き上げた。
(この手は……)
そこで私の意識は途絶えた。
*
「あ、目が覚めた?」
気がつけば、青年の腕に抱かれていた。
白い肌と髪や端正な顔立ちは、“前の私”がよく知る彼にそっくりで、唯一違う点と言えば、空のように青かった瞳が、真っ赤に染まっているところだろうか。
私は今度こそ本物の走馬灯でも見ているのだろうか?
いや、だけど、私の記憶にある彼は年下で、こんなに大きくなかった。
ひょっとして、夢を見ているのかもしれない。夢ならすぐに覚めて欲しい。とても気まずい。
否定される現実を願って、私は記憶の中の彼の名で呼んでみた。
「えんじゅ、くん? 七志乃、縁樹くん?」
「……僕のこと知ってるんだ?」
「え……どうして?」
思わず疑問がこぼれたけれど、すぐに思い至る。
彼は“鏡のこちら側”の縁樹くんに間違いない。
縁樹くんは私の疑問をどう受け取ったのか、そもそもが聞いていなかったのかもしれない。
どこか、弾むような声色で「それにしても」と。
「びっくりしたよ、いきなり海に飛び込むんだもん。あ、体調の方は大丈夫? どこか怪我とかしてない?」
問われて気づく。すこぶる寒い。
まだここは屋外、浜辺で、水分を含んだままに外気にさらされているから、震えでろくに立ち上がれない。
おおよそ自業自得なので、敢えて伝えずに「だい、じょうぶ……」と歯をカチカチと鳴らしながら答えた。
「そ、それより!」
「?」
「どうして、助けた?」
私は死ぬところだったのに。
そう言おうとした言葉に被せて、彼は悦を含んだ笑みを浮かべて告げた。
「助けたいっていう、僕のエゴだよ」
ぞくりとして、息が止まる。
抱かれている腕の力が強くなり、体が先ほどより密着すれば、上気した熱っぽい吐息が冷えた肌を掠めた。
「キミが飛び込むところ、見てたよ。ずっとあの崖の上で、なんだか、この世に別れを告げてるみたいに見えて……声を掛けようか迷ってたんだけど、本当に飛び込んじゃったから、慌てて僕も後を追ったんだよ」
詰められて、えも言われぬ恐ろしさから逃げ出したかったけれど、私を抱く腕の力は強く、震える体では振り払えそうにない。
この人、私の知っている縁樹くんとは全く違う!
胸中の叫びに、しかしどこか冷静な思考は、それはそうだとツッコミを加える。
私だってあの可愛い子の鏡面対なのに、全くの別人なのだ。縁樹くんだってあちらとこちらで違って当然だ。
「キミ、自殺しようとしていたんでしょう? ごめんね、キミの気持ちを尊重するなら、助けない方がよかったんだろうけど、僕は、キミに死んでほしくないんだ」
「……なんできみが、初対面の私にそんなことを思うのさ? 変だよ、おかしいよ……私に、優しくしないで……」
「変でもおかしくてもいいよ」
抱きしめられれば、彼の顔が肩に埋まり、体がピッタリとくっつく。
二人の間には水気を含んだ衣服だけが挟まり、その薄い布越しに、わずかに残された体温が伝染して、このまま融けあってしまうんじゃないかとさえ感じられる。
首筋や耳元に息がかかり、緊張から心臓が脈打つのを自覚して、今更、まだ生きていることをぼんやりと実感した。
「けどね」と、低い声が耳腔に注がれる。
「これは優しさなんかじゃないんだ。全部僕の勝手な都合で、僕のためにしたことだから、キミが気負うことはない」
甘い囁きは毒蜜のようで、もっと嘯いてほしいと思う反面、もうやめてくれと叫びたくなる。
言葉に困って黙っている様を、縁樹くんはどう受け止めたのか。
ただ彼は、当たり障りのない話題へ切り替えるだけだった。
「このままじゃ寒いよね。移動しようか。ちょうど、僕が泊まってる宿がこの近くにあるから、まずはそこへ連れて行くね」
「置いていっていいのに……」
呟いた声に、私を抱く手の力が増す。
少し痛いような気もしたけれど、冷えすぎて感覚が鈍くなっているから、それが正しい加減なのかわからない。
縁樹くんは私を抱いたままに立ち上がり、自分もまた凍え始めているのだろう、よろけながらも歩き出した。
あまりごね続けて、彼も一緒に凍死なんてことになるのは申し訳ないので、私は諦めて身体を預けた。
「そういえば、まだキミの名前を教えてもらってなかった。聞いても良い?」
「小森、蜜柑」
「蜜柑ちゃん、か。……僕のこと知ってたみたいだけど、改めまして、僕は七志乃縁樹。よろしくね」
なぜ知っていたのか? と問われることを身構えたものの、その言葉がついぞ降り注ぐことはなかった。
却ってそれが居心地悪く、こちらから「気にならないの?」と聞こうと思った矢先に、宿に着いてしまう。
びしょ濡れの二人を見て、宿の人たちが真っ青になって、医者を呼んだり、あれこれと暖を取る支度が始まり、それどころではなくなってしまった。
縁樹くんは「海沿いの手摺りが壊れて女の子が海に転落した」などと平気で嘘を宣って、私の自殺未遂を有耶無耶にしてしまう。
怖かっただろう、と労りや慰めの言葉をかけられて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
他人に迷惑をかけずに死ぬことは実に難しいと実感しながら、次はもっと上手くやろうと画策する。
とりあえず今は、流れに任せてやり過ごして、解放されたら別の場所で入水しよう。
けれど、私の思惑を察知しているみたいに、じっと、赤い目が私を見張り続けている。
着替えの時こそ、別室だったが、それ以外は、気がつけばどこからか、彼の視線を感じた。
私が視線に気づくたび、彼は赤い目を微かに細め、蕩けたように微笑する。
そんな不器用なアプローチは、記憶の中の幼い彼……鏡の向こう側の縁樹くんを想起させて、いじらしい。
だから、ほんの少しだけ、欲が湧いた。
(もう一度、もう少しだけ、縁樹くんのそばで過ごしたいな……)
どのみち、私たちはただ居合わせただけの赤の他人で、この宿を出れば二度と会うことはないのだから、ほんの少しだけ、欲張ってもいいでしょう?
……私のその選択で、二月の海より冷たい場所へ飛び込むことになるとは、この時の私には知る由もなかった。
メイン二人の出会いですね。
更新曜日に悩んだ末、水辺に関連する話なので水曜日更新に決めました。
次話も来週更新予定です。
そんな次回第二話「「安心しなよ、きみのことは大嫌いだからさ」」は、ハイスピード監禁生活突入編です。
よろしくお願いします。