n話 回想録3
熱にのぼせていたあの時は、まるでまどろみの夢の様に甘やかで、けれど、何もかも夢ではなく、この心を絶えず締め付ける愛しさは、全て真実で、実在を持っていると確信できる。
過去の空想という呪縛から脱した今、純粋にキミをもっと深く知りたいと思えば、抑えの効かない情動が、獣みたいに貪りたがる。
調理中にだって十分味見を済ませていたはずなのに、蜜柑ちゃんの口内でどんな味をしているのか気になって、食後に甘く口づける。
それを蜜柑ちゃんは仕方ないみたいに受け入れてくれるから、止められるまで堪能した。
受け入れてくれるのならば、もっと長く、深く触れたい。
性急すぎたアプローチは、蜜柑ちゃんに止められてしまう。
こちらの追求に、ぽっと頬を紅潮させたのは、熱がまだ残っているせい? それとも、満更でもないって思ってくれてる?
後者だったら良いな。
とはいえ、蜜柑ちゃんの言うことも一理ある。病み上がりに無理をさせるのは気が引けたから、今は素直に諦めよう。
これほど深くキミに触れたいと焦がれているのに、止められても不思議と嫌な気持ちにはならなくて、なんだかくすぐったい。
誰かを心から愛する多幸感に溺れているのかもしれない。
甘えて見たくなって、勝手に蜜柑ちゃんの膝を枕がわりに寝転がる。
いつも見下ろしている顔を見上げてみるのも、たまには良いものだ。
当たり前だけれど、角度を変えれば見え方も変わる。
小動物みたいに愛らしいと思っていた蜜柑ちゃんは、見上げてみるとキリリとしていて、美人さが際立つ様に思う。中性的でミステリアスな雰囲気は、じっと見つめれば成熟した様な色気を感じ取れる気がする。
ファム・ファタール、という言葉が浮かんだ。
しかし、この魔性を知り溺れるのは僕だけで良い。
キミのことをもっと知りたい。
正直な質問に、蜜柑ちゃんは不思議そうに目を丸める。
聡いキミはきっと、少し前の僕がキミ自身にさほど興味を抱いていなかったことに気づいているのだろうね。
だから、今更、キミに関心を示していることが不思議でならないのかも。
思った通り「どうでも良くない?」なんて聞くから、「すごく大事なことだよ」と答えた。
蜜柑ちゃんはたっぷり考えてから、「どう言う話を求めてるのかわからないんだけど」と。
僕はどんな些細なことでも知りたかったから、何を話してくれてもよかったんだけど、でも、そう返してくれるなら、もっと踏み込んだことを聞いても良いだろうか?
「どうして死のうと思ったの?」
「幸せになりたいから」
「死んだら幸せも何もないよ」
あっけらかんとした回答は、悩む間もなく告げられて、本心から、死が救済になると信じていることがわかった。
僕は、ありふれた言葉しか出てこなくて、そんな不器用な僕を、蜜柑ちゃんは鼻で笑う。
「はっ! 知ったようなこと言わないでくれよ」
今もなお、死にたがりの蜜柑ちゃんは、一体、何に傷ついているのだろう。
その痛みに思い至れないことが悔しくて、未だ蜜柑ちゃんから頼ってもらえない事実が悲しかった。
「蜜柑ちゃんは知ってるみたいに言うんだね」
「私は博識だからね」
「自信家だ」
胸を張って自慢げに言うから可愛い。
思わず頬が綻んだが、それが気に入らなかったらしい蜜柑ちゃんの両手が、ペチリと僕の顔を軽く叩き覆った。
この小さな掌に舌を滑らせたい。
イタズラをしたい欲望に耐えていると蜜柑ちゃんが僕の心配をしてくれる。棘のある言葉でも、気にかけてくれるだけで嬉しい。
掌から伝わる温度を感じるだけで、興奮してくることは事実だ。
そのままそれを伝えれば、蜜柑ちゃんは呆れてぼやく。
それきり何も言わないので、そろそろ落ち着いたかと思い、蜜柑ちゃんの手を引き剥がした。
「どうしても死にたいなら、僕も一緒に殺して欲しいな」
「なんで私が……」
「キミが死んだら僕が生きてる意味なんてないからね。僕はキミが生きてる限りその責任をとってあげるんだから、キミだって、死ぬって言うなら責任をとってくれないと」
「嫌だよ。死ぬなら勝手に死んでくれ。私も勝手に死ぬんだから」
ずるい言い方をした僕を、蜜柑ちゃんは他人事のようにバッサリと切り捨てる。
自分から突き放す言葉を言い放っておきながら、チラリとこちらを伺う視線は、まるで言いすぎたことを気にしている様に感じられた。
体を起こせば、僕が蜜柑ちゃんを見下ろす側になる。
びくりと身構える蜜柑ちゃんを、強引に膝の上に寝かせて、目を逸らしてほしくないから、顔を両手で掴み固定した。
「忘れないで。キミが死んだら、僕は傷つくってこと」
「嘘つき」
「信じて」
「嫌だ」
「なんで、信じてくれないの?」
「どうして、信じられると思うの?」
思案する。
僕は素直に、蜜柑ちゃんに想いを伝えて来たつもりだ。
目を合わせるのは、圧を与えたいわけじゃない。ただ、僅かでも誠実な気持ちが伝わって欲しいから。
それでも、信じたくないと、キミの方から拒絶するんだとしたら、僕はどうすれば良いのだろう。
無理やりわからせるために押し付けてしまっては、今までと変わらない。
僕は、これからは、心からキミを大切にしたいから……。
ならば、待つことしかできないのだろうか?
「ならせめて、僕が信じて欲しいって言ったことを憶えていて」
「慎ましいお願いだね。縁樹くんらしくないな」
「蜜柑ちゃんは僕がどう返すと思ったの?」
「えっ!? いや、うーんと、具体的には浮かばないけど、なんかさっきからちょっとらしくないなあ〜って思っただけで!」
この慌てぶり、何か浮かんでたんだろうな。
蜜柑ちゃんは演技は得意なのに、予想外のアドリブは苦手なことを僕は知っている。
その想像を何もかも暴いて期待に応えてあげたいけれど、そのまま話がそれて、結局本題が有耶無耶になってしまう様な気がして思い留まった。
「もし僕が前と違うように思うなら、それはきっと……」
キミ自身を愛したいと思ったから。
そんな心境の変化を自覚しているから、ポツリと漏れ出た独り言に、蜜柑ちゃんが「きっと?」と食いつく。
興味を持ってもらえたようで嬉しい。
「続き、気になる?」
「全然全くこれっぽっちも気にならない」
好奇心旺盛で天邪鬼な蜜柑ちゃん。本当は気になっているくせに、意地を張っているんだろうな。
でも、言い訳とはいえ、僕に興味がないと言われるのはちょっと不服だ。
イタズラに顔を近づければ、何をされるのか身構えた蜜柑ちゃんの視線が僕へと釘付けになる。
頬に触れている手が熱い。
この温度はキミのものなのか、僕のものなのかよくわからないけれど、どちらでも構わない。
僕の昂りが、キミに少しでも伝わってくれたら良い。
「手を取ったのが、キミでよかった」
「は?」
夢のあの子だったら、きっとまた大事にできなくて壊していた。
キミだから、大事にしたいと思えたし、キミだから、もっと触れたいと願えるんだ。
他の誰でもなく、あの日出逢えたのがキミでよかった。
「好きだよ、蜜柑ちゃん。大好き。愛してる」
「急に、意味わかんない……」
「キスしてもいい?」
「い、いつも勝手にしてるくせに、なんなんだよいったい」
「勝手にしてもいいんだ?」
「……いいよ。勝手にすれば?」
「うーん、どうしようかな」
「そこは普段ならするとこじゃん、気持ち悪いよ、そう言う焦らすみたいなの」
今はなんとなく、行為を押し付けるのではなく、気持ちを言葉で伝えたかった。
思い返せば、そう言ったコミュニケーションが、これまで欠如していた様に思う。
「ちゃんと言葉にして、話を聞いてもらうことって、大事だなと思って」
「自分の後ろめたい昔話を暴露したから開き直ってんの?」
「そう? うーん、あながち間違いじゃないのかも? ずっと痞えていたわだかまりが、なくなったのは確かだから」
「自分ばっかりスッキリしやがって……」
蜜柑ちゃんは悪態をつきながら僕の手を叩き退けた。
不愉快そうだったので触れるのは我慢する。
「だからさ、蜜柑ちゃんも僕に話してくれて良いんだよ。教えてよ、キミが抱える不安や痛みを」
「……私の今一番の悩みは、どうすれば縁樹くんから離れられるかなんだけど?」
「ふーん。そうなんだ」
しかし僕には忍耐が足りないらしい。目の前で好きな子が無防備に寝転がっていたら、触れたくて仕方がない。
首輪に触れるふりをして、隙間から首筋を指でなぞった。
「ねえちょっと。だから、離れたいんだけど? 触んないでよ」
「話は聞きたいけど、要望を呑む気は無いよ」
「なにそれ、言うだけで無駄じゃん」
「そんなことない。僕みたいに開き直れるかも」
「私はきみと違って繊細だから、言ったら言ったで色々後悔するね」
「なら、言わせた僕のせいにしていいから、言って?」
傍若無人のふりをして、話しやすい様にお膳立てをしてあげる。
顎を少し強めに掴んで、目を逸らせない様に固定すると、蜜柑ちゃんは訝しみの目を向ける。僕がわざとやっていることに気付いた様だけど、その真意がわからないと言ったところだろうか。
観念したように、蜜柑ちゃんは目を閉じて深く息を吐いた。
つうっ、と緩やかに瞼が持ち上がると、深淵を宿した暗い瞳が、揺らぐことなく泰然と虚空を見据えた。
人形のような空虚な眼は、僕を写しながらも僕を見ていないのだと気づき、ぞくりとする。
「私もきみと大差なんてない。きみに別の誰かの面影を重ねて、勝手に傷ついているだけ。それは、きみのせいではない、単なる私の都合だから、きみが悪い訳じゃないのは安心してね。……でも、だからこそ、どうしたって、きみじゃあ私を幸せにできない。これだけは確かで、間違いないんだよ」
いつも通りの声音で、なんてことない風に言って見せても、それが紛れもない本心だと理解する。
同時に、僕の気持ちに決して応えてこなかった意味もまた、鮮明に。
その空隙はきっと、どれだけ足掻いても僕では埋められないのだと、深い闇を内包した目が静かに物語っていた。
それでも、悪あがきに僕は言葉を捻出する。
「別人だと理解しているのに、僕では駄目なの?」
僕がそうしたように、過去ではなく今目の前にいる僕を選んで欲しい。
そのために僕に変化を求めるなら、なんだって努力する。キミ自身が変わりたいなら、その協力だって厭わない。
けれど僕の足掻きを、蜜柑ちゃんは嘲るみたいに嗤った。
「こんなの理不尽だって頭では理解していても、気持ちを抑えられない、そんな経験、きみには無いかな?」
何も言い返せない。
僕もまた、キミにあの子を重ねていたから、どうしようもなく焦がれ焼かれる想いがわかってしまうのだ。
けれど蜜柑ちゃんは、僕が恋慕を抱いたのとは違って、僕と共にあることで、ずっと傷つき続けている。
許せなくて、震える手で強く鎖を握り込んだ。
一体どこの誰が、この子をここまで追い詰める傷を与えたのだろう?
ただ似ているだけの他人へ心を開けなくなるくらい、どんな酷いことをされたのか?
なによりも、キミに悪意を注いだ存在がいたことに、底知れぬ憎悪を抱いた。
「そいつはどんな奴? キミにどんな酷いことをしたの?」
僕を信じて欲しい。
キミの傷が癒えるまで、寄り添うから。
それでキミに触れることが一生叶わないとしても、それが僕の愛の証明になるのなら、いつまでも耐えてみせる。
でも、すぐに僕は勘違いしていたのだと悟る。
「私のこと好きだって言った」
今までで一番、愛らしい笑みを浮かべて、蜜柑ちゃんは告げた。
続けて紡ぐ「彼は私を愛していたの」という言葉は、まるで幸福を語るように柔らかで、キミもまた、その相手を想っていたのだと、嫌でもわかる。
相思相愛だったのだろう。
でも、相手に応えなかったのは、何かしら理由があったからに違いなくて……。
今でも、そいつのことが好きなの?
臆病で卑怯な僕は、事実を確認することが怖くて、本当に聞きたい言葉を引っ込めた。
今でもそいつを想っているなんて言葉、僕は聞きたくない。
「……蜜柑ちゃん、好かれて迷惑だった?」
どちらからとも取れる曖昧な問いに、僕のよく知る困ったような……諦観したような笑みを蜜柑ちゃんは浮かべる。
「……そうだね。なんで、出会っちゃったんだろうね」
蜜柑ちゃんもまた、どちらとも取れる言葉を返した。
それは、過去の男へ向けて?
それとも……。
……ひょっとしたら、その両方かもしれない。
「ね、どうしようもないでしょ? だから黙ってたのに、聞きたがったのはきみだよ、縁樹くん」
蜜柑ちゃんは、僕が望んだ通りに僕に責任を押し付けた。
キミが自分を責めるくらいなら、僕を責めてくれたほうがずっといい。でも、きっとキミは今頃、話してしまった自分を責めてる。
そんなキミを優しく慰めたいのに、さっきの答えが喉を塞いだ。
起き上がって顔を寄せた蜜柑ちゃんの頬を包む。
滑らかな肌に触れるだけでも愛おしく、けれど、さっきの今でチクリと胸が痛くなる。
ただ、手を添えただけ。でも、キミは今、それだけで傷ついたのかもしれない。
僕の不安を悟ってか、蜜柑ちゃんがわざとらしく頬擦りをする。
愛らしい所作。少し色っぽくて、手のひらから伝わる温度と柔らかな頬の感触。
もっと触れたいという我欲を、表に出さないように押さえつけた。
「僕から好かれたくないのに、甘えたみたいなことをするんだね」
「最低な女だと思って捨ててくれていいよ」
「……捨てないよ」
蜜柑ちゃんは、僕の想いを試すみたいに甘えてくるから、食べてしまいたくなる前に抱きしめて大人しくさせた。
この暗い気持ちのまま、あざとく煽られ続けたらきっと、縋りたくなって耐えられそうになかった。
僕は、蜜柑ちゃんが好きだから、大事にしたい。
腕を上げた蜜柑ちゃんは、抱き返してくれなくて、ただ宙に手を伸ばしているだけのようだった。
ほどなく、か細い呟きが耳に届く。
「きみ達のいない世界に行きたい」
僕はキミを繋ぎ止めるために、抱く腕を強めることしかできなかった。
*
いかに離れがたくとも、放り出せない予定があった。
もとよりこの生活を続けるために、父の仕事を手伝うということは約束だったのだから仕方がない。無視をして蜜柑ちゃんを取り上げられてしまうのは御免だ。
しかし今回ばかりは、自分から離れる選択肢など浮かばない僕にとっては、却ってちょうど良かったかもしれない。
あの部屋にいても、気の利いた言葉の一つ捻り出せないだろうから、時が来るまで結局、ただ黙って蜜柑ちゃんの温度を感じることしかできなかったと思う。
本気でキミを傷つけたく無いと思うのに、今になって、好かれたく無いと明かされて、僕は、どうすれば良かったんだろう?
この身勝手な想いを押し付けたくなんてないのに、思い浮かぶのは、キミの気持ちを無視した方法ばかりだ。
最善がわからないまま、仕事を終えて家へ戻るも、蜜柑ちゃんのいる部屋の前で立ち止まる。
その扉を開けることがどうしてもできなかった。
「……意気地なし」
自分で自分を貶しながら、背を向けて乱暴に頭を掻く。それでもむしゃくしゃとした感情は収まらない。
隣室に留まったっまま、散らかったデスクの上の書類を腕で薙ぎ落とした。空いたその場所に項垂れると、思いの外勢いがついてしまい、鼻先と額を強く打つけて痛む。
きっと、蜜柑ちゃんは気にしていない。
違う。本当は気にしてるけど、気にしないように努めることができる子だから、扉を開ければいつもの通り、ケロッと出迎えてくれる。
何もかも僕の勝手な杞憂だといってくれるに違いなくて、だけど、その今まで通りに戻ることを、今の僕は心から望むことができないから……だから思案する。
「…………仕事……」
ほんの気分転換に、急ぎではない要件を先に済ませることにして、パソコンの電源を点けた。
無数のディスプレイのいくつかには、常に部屋の中の様子が表示されるようになっていて、地面を転がる蜜柑ちゃんが映し出される。
その姿を指で撫でる。
つるりとした画面の手触りしか感じられなくてもどかしい。
「好き」
直接伝えたらきっと、嫌がるだろう言葉を吐き出して、一つ呟けば、呼応して止めどなく想いが溢れてくる。
ここでなら、キミに聞こえることはないだろうから、これくらいは許してほしい。
「蜜柑ちゃん、愛してる。大好き。触りたい。抱きたい。僕のこと、好きになってほしい。僕を見てほしい。信じてほしい。はあ……どうしたら、蜜柑ちゃんは僕に応えてくれるんだろう?」
堪えきれず画面にキスをして、途端に虚しくなる。
画面の中のキミは避けるみたいにゴロンと床を転がった。
煮え切らない自身に苛立ち、物へ当たり散らしたくなる。衝動は指先を伝って強い力でキーボードへと叩きつけた。
無言のまま、カタカタと文字を打ち込む音だけが響き、けれどそれも、そう長くは続かずに静まる。舌打ちをして全文を消し去った。
仕事の書類制作をしていたはずなのに、どうしてか途中から私事が混ざってしまうのだ。
ここまで気持ちを切り替えられないことは初めてで、諦めからデスクへ突っ伏した。
目を伏せて逸らしていても、頭の中は蜜柑ちゃんのことでいっぱいで、答えを急かすみたいに、現実的な問題ばかり思い浮かべた。
食事を用意して持っていかないといけないとか、体を綺麗に洗って清潔な服に変えてあげたいとか。
でも、この場を離れること、そして、何事もないふうに顔を合わせることが、まるで問題から逃げ出すみたいに思えて、動けなかった。
「縁樹くん遅いなあ」
スピーカーから、蜜柑ちゃんの声がする。
まるで、僕が部屋の前に居ることに気づいてるみたいにわざとらしく、でも気づくはずがないのだから、全て僕の気のせいだ。
扉は厚く、こちらの騒音が壁越しに聞こえるなんてことはないのだから。
でも、今ここに僕が居ることに気づいてないとしても、蜜柑ちゃんは僕が聴いていることを確信して、わざと煽動しようとしているに違いない。そういうところは小賢しい子だから、すぐにわかる。
蜜柑ちゃんが、僕を待ってる。
早く、早くしなくちゃ。
そう、乗せられていると分かっていても、はやる気持ちは止まらない。
焦るほど、頭の中が真っ白になって、動けなくなっていった。
何の打開策も浮かばないまま、度々聞こえてくる蜜柑ちゃんの独り言に、僕は追い立てられる。
一睡もできず、時間だけが残酷に流れていった。
「このまま、死ぬのかな」
「……あ」
蜜柑ちゃんのか細い呟きに、タイムリミットが近いことに気づく。
まともな睡眠もせずぼんやりした思考がようやくパソコンの日時を見れば、いつのまにか、別れてから五日が経過していることに気がついた。
思わず立ち上がると、立ちくらみを起こしデスクに手をつく。
視界の端に映った蜜柑ちゃんは、前に見た時より明らかに脱力し、なぜか鎖を舐めていた。
「……可愛い。はは、なんでそんな、可愛いことするの? 可愛い。可愛い」
「嫌だなあ。こんな所で、こんな風に死にたくないなぁ……縁樹くん来ないかなぁ」
「死にたがりのくせに、生きようと必死だね、蜜柑ちゃん……」
寝不足の浮ついた頭はただ、条件反射で蜜柑ちゃんの言動に反応して言葉が漏れ出てくる。
小さな舌の動き、鎖を湿らせる唾液、それを啜るように食いつく唇、鎖を口にする蜜柑ちゃんをじっと凝視していると劣情でクラクラしてきた。
舐めることに飽きたのか、放り出した蜜柑ちゃんは鈍い動きで身を縮ませて、こちらへ視線を向けた。
ドキリとする。
真っ黒な瞳が、レンズ越しに、確かに僕を見ている。
責められる予感がした。
僕を責め立てるような強い視線は、どうしてだろう、徐々に、徐々に、その力を失って、泣き出しそうに細められ、ついに瞼を閉じた。
「縁樹くん、怪我とかしてないといいな」
……?
ぴくりとも動かなくなった蜜柑ちゃんを見つめて、ぼんやりと「どうして?」と。
その真意を知りたくて、悩みも迷いも最初からなかったみたいに、呆気なく扉を開ける。
駆け寄って抱き上げた蜜柑ちゃんの体は、地面に転がっていたからか冷たく、死んでいるように思えて、やっと状況が悪いことに思い至った。
かろうじて脈はある。
ベッドへ移し、隣室に保管していた栄養剤を注射した。続けて、すぐに目覚めなかった時のために点滴も用意する。
点滴を付け終えて、ベッドの横に膝をつき蜜柑ちゃんの空いた手を掴んだ。
肘を付いて、小さな手を僕の額に祈るように押し当てる。
「キミは、何もかも捨て去りたがるのに、どうして僕の心配なんてするの?」
好意を向けられたくないくせに、大切にされたくないくせに、自分ばかり他人を大切にしようとするなんて、ずるいじゃないか。
不公平だ。
僕だって、キミを大事にしたいのに。
キミが心配でたまらないのに。
キミが好きで仕方がないのに。
じわりと滲んだ涙は、こぼれ落ちるには至らない。すんと、鼻だけを微かに鳴らして、強く包んだ小さな手を、少し湿っぽい頬に擦り付けた。
疲労からぼんやりとした意識は、それでも不安で完全に落ちることはできなくて、半分だけ眠っているような感覚に支配される。
あるいは陶酔しているような。
体が重だるく、ベッドに顔を埋めた。
手は固く握ったまま。
それはほんの数分のことで、遠くで微かに咽せる音がした。
ハッとして顔を上げて、初めてその音がすぐ近くで発せられたものだと認識を改める。
「蜜柑ちゃん」
目覚めた安心感から焦燥は消え、不眠の疲労からか、紡がれた言葉は存外、素直な謝罪だった。
当の蜜柑ちゃんはいつも通りの様子で、僕をからかう。それが心地よくて、緩んだ口はありのままの想いを吐露した。
点滴を外した蜜柑ちゃんの顔色は先ほどよりも良好だったから、蜜柑ちゃんのしたいようにさせることにする。
じっとこちらを見る目は真剣で、口の横に引っかかった髪の毛が気になって指の背で払ってあげると、名前を呼ばれた。
「実は私、予言ができるんだけど」
「へえ、すごいね」
蜜柑ちゃんは不思議な子だから、案外本当のことかもしれないと思った。
それに、僕の突飛な空想話を蜜柑ちゃんは信じてくれたから、たとえそれが妄想や虚言でも、否定したくない。僕もキミを信じたいと思うのだ。
「で、どんな予言をしたの?」
「なんと、今から世界が滅ぶんだよ」
「……???」
「世界が終わっちゃうんだよ? わかんない?」
ずい、と寄りながら言う蜜柑ちゃんの話は荒唐無稽で、唐突すぎるからこそ出鱈目だとわかる。
疲れた頭が、訳の分からない幻聴を閃いてるんじゃないかと疑った。
懐疑心が伝わったらしく、蜜柑ちゃんがムッとして言い募った。
意図がよくわからないけれど、その様子が可愛いから話には乗ってあげる。
ぐいっ、と腕を引かれて蜜柑ちゃんの上に倒れ込む。
潰さないように手をつけば、僕の腕の中にすっぽりと蜜柑ちゃんが収まっているのが、見下ろせた。
「縁樹くんのしたいようにすればいい。お任せするよ」
目を細めて僕を見る。
明らかに誘われている。
少しだけ温度を取り戻した蜜柑ちゃんの手が、僕の首筋を撫でた。
煽られてぞくりとする。
すぐにでも止めさせなければ。
今こんなふうに揶揄われたら、理性が働きそうにない。
「このまま世界が終わること以上に怖いことなんてないでしょ」
欲望を何もかも見透かしたキミが、甘い猫撫で声で囁く。
耐えられず、ただ「……そうだね」と相槌だけを返して、貪るように乱暴に口づけた。
素肌に触れて、撫でるほどにもっと奥へと触れたくなる。
今まできちんと触れたことのない繊細な場所にまで手を伸ばすと、まるでおねだりするみたいに蜜柑ちゃんの腕が背に回された。
縋られて興奮すると、ぼんやりしていた頭がかつてないほどに冴えわたる。
けれど、決して止まることはない。
その時、情欲が二人を繋ぎ、それ以外の何もかもがちっぽけな些事に貶められた。
*
初めての性行為を終えてから、僕は少しずつ、行動を改めた。
蜜柑ちゃんの食事に混ぜていたピルを無くしたり、蜜柑ちゃんを外に連れ出すことを考えたり。
……特別、子供が欲しいとは思わないけれど、それができた時、邪魔だと疎ましく思うほど嫌ではなくなった。蜜柑ちゃんとの子供なら、アリかもしれない、と、思ったり……実際に見たらやっぱり不愉快な気もするけど。
目下、次の蜜柑ちゃんの誕生日には、出会った一周年記念に、僕たちの出会った土地へ旅行へ行きたい。
美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、ただ純粋に、楽しむための旅行だ。
それを目標に立てて、少しずつ、不安の糸を解くように、生活を改めて行っている所である。
とはいえ、今のところ本当に微々たる変化しかないけれど。
結局のところ、蜜柑ちゃんが嫌がっても、僕には好きだと言う気持ちを伝え続けることしかできなくて、だから、ただ、待つことにした。
いつか、望む形になれたらいい。
それまでは、歪でも構わない。
例えそれでキミが傷つくとしても、僕はキミの隣に居たいから。
それに、蜜柑ちゃんは愛されることを嫌がって傷ついているかもしれないけれど、それだけじゃないように僕には思えて……思い上がりだと鼻で笑われそうだから、直接は言わないけど、満更でもないと思ってくれているんじゃないかと、勝手に期待している。
だって蜜柑ちゃんはやっぱり、あれこれ悪態をつきながら、一度も本気で僕を嫌がったり、怖がったりしないのだし、何なら、受け入れてくれるその態度に、少しは夢を見ても構わないでしょう?
拒絶しないキミが悪いとまでは言わないけれど、天然で思わせぶりな態度をとるような子じゃないことは、十分わかっているつもりだ。
*
遠方での仕事は、蜜柑ちゃんと離れる時間が多くて寂しい。
でも今は不思議と、不安は無い。
今頃部屋でだらけてるのかな? とか思うと、あったかい気持ちになる。
この仕事を手伝えば、好きなタイミングでまとまった休みをとっていいと言われたから、気乗りはしなかったけど受けることにした。
蜜柑ちゃんの誕生日、一泊だけじゃなくて、いろんな場所を巡ってみるのも楽しそうだな、とか。正式に両親に紹介しに行くのもいいな、なんて。
「楽しみだな」
あと数時間耐えれば、蜜柑ちゃんのところに帰れる。
会食の席を外れ、外の空気を吸いに出た先で、星空を見上げて、思いを馳せた。
出かける時に、あまりにもひどく抱き潰してしまったから、快く見送ってくれ無いと思っていたけれど、「行ってらっしゃい」と返してくれた喜びがいまだにずっと胸に残っている。
早く、帰って続きがしたい。
ため息をついて、秋の冷たくなってきた空気が肺に入ると、気持ちが仕事に切り替わる。
そこでちょうど、僕を探していたらしい父に声をかけられた。
拍子抜けだが、先方の都合で早めに切り上げることになったらしい。
「じゃあ父さん、僕もう帰るから」
「嗚呼。……遠出につき合わせて悪かったな」
「本当だよ。はあ、早く顔が見たいな……」
早々に車に乗り込み、はやる気持ちから、荷物持ちの付き添いと運転手を急かす。
家までは空路か航路、どちらにせよ一度乗り換える必要がある。その停留所までの時間を計算して、目を閉じた。
「……少し眠ります。着いたら起こしてください」
そして彼は帰らぬ人となりました。
七志乃縁樹は、最期にどんな夢を観たのでしょね。それは彼だけが知ることではありますが。
回想録はこれにておしまい。
次回は変わったナンバリング、1+n話「【挿話】然る父の苦悩」です。
おわかりの通り然る父親視点の独白になります。
ここからは本編に登場しなかった外側の人たちから見た番外編になっていきます。
父含め3人くらいかな。もうしばらくお付き合いいただけたら嬉しいです。