エピローグ 海は命を清算する
「ねえ、縁樹くん。結局さ……一度も『好き』って言ってあげられなかったよね」
私がいるのは、断崖絶壁。
下には海が広がっている。
黒い、黒い、前回より深い色。
「ああ、そうだ、言い忘れてた。はっぴーばーすでい、私、それと……くろちゃん」
他愛のない独り言。
今日は二月十四日。
私と、あの幸福を約束された子の誕生日。
「そういえば……縁樹くんの誕生日……知らないなあ」
掠れた声で今更な疑問をこぼす。
どうせ誰も教えてはくれないし、知ったところで祝ってやれないのだから、無意味な疑問だ。
ただ、自覚して口惜しさが募るだけ。
実家に戻って、まあ、ほどほどに、それとなくみんな心配してくれた。
母は気分転換にと、私を好きなコンサートに連れ出してくれたし、兄は頻繁にケーキを買ってきてくれた。弟は一緒にテレビゲームをしてくれて、お菓子作りが趣味の仲の良い従兄弟は私の好きなお菓子を作ってくれると言った。
そんな家族からの気遣いを、気味が悪いと思う私は、ひどい娘だろう。
落ち着いて考えるはずが、日が経つほどに、焦燥感は募っていく。
早くしなければ、手が届かなくなってしまう気がして、いつも通りを演じながら、生きた心地がしなかった。
縁樹くんと出会ってから、一年の節目。
私の十八歳の誕生日。
二人が出会ったこの場所で、二人の思い出を想起する。
それは、走馬灯のように美しく、儚い幻想。
私たちは、一年さえも一緒にいられなかったんだなと、痛感した。
「ごめんね、遅くなって。すぐ、追いつくから」
荷物はない。
大事なものしか、身につけてこなかったから。
遺品整理の際にいくつかもらってきた品々。
縁樹くんが選んで着せてくれた、二人のお気に入りの服を着て、不釣り合いに無骨な首輪を巻いている。鎖は流石にないけれど、この窮屈さは、彼の想いを感じて、安心する。
一見すれば、この寒い日に、部屋着で首輪をつけている私はだいぶ変質者だ。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
ぽつり、と雨が降り出した。
すぐさま雨足は強くなり、肌を強く打ち付けてくる。
まるで、私の門出を祝うような天気だ。
歌でも歌いたい気分になってきた。
目を閉じて天を仰ぐ。
ふらりと立ち上がり、独りごつ。
「だからもう、さようなら」
瞼を閉じたままに、私は冷たい海へ飛び込んだ。
……目を開けていても、瞳に映るのはきみの居ない、不幸な灰色世界でしかないのだから。
あたたかい涙は、二月の海に溶けていく。
今度は決して仰向けにならない。
深い深い、海の底を目指して沈んでゆく。
きっとそこに、望むものがあるはずだから。
沈んで、沈んで……どこまでも沈んで逝く。
暗い海の底に混ざるように、私も消えて仕舞えばいい。
……引き戻す手は、もう伸ばされない。
知っている。
(縁樹くん、きみに会いにいくよ……)
次に会えたら、今度は私から「大好き」と言うために。
……こうして、彼女は、或いは旅人として、世を超えて愛しい白を探す永い旅へと立ったのでした。
小森蜜柑のお話はこれでおしまい。
最期まで見届けてくださり、ありがとうございました。
けれど、彼女の旅は尚続き……それはまた別のお話……。
旅人、或いは彼女のその後に関しては既創作マンガシリーズ「幕間未完劇場」より12話「げきじょうのけもの」をご覧ください。
https://www.pixiv.net/artworks/93218014
その他、作品リスト。
https://kekkan-otobako.fanbox.cc/posts/5874810
来週からは番外編、nの追想シリーズを公開していきます。
最初の追想は縁樹くん視点での本編ダイジェスト、「n話 回想録1」です。長いので回想録は3本立てです。
良かったら、引き続きご覧下さい。