8話 あとはただ堕ちるだけ
一度だけ考えて、すぐに蓋をしたこと。
そんな兆しはなかったし、この生活がなんや感やとずっと続いていくんだと思っていた。
でも、終わりはいつだって、誰にとっても唐突にやってくる。
そんなわかりきったことを、私は今まで考えないようにしていたのだ。
*
ノストラダムスの予言だって外れたんだ。私の思いつきの予言だって外れて当然だ。
世界の終わりなんてものはその実やってこなくて、今もこの灰色な世界は続いている。
それはそうと。
縁樹くんと繋がってからと言うもの、彼からのスキンシップが異様に増えた。
首輪は相変わらずで、外にも出してもらえないし、生活習慣はいつも通り。そこに加えて、性的な要求が目立つようになった。
一回した手前、怖いと言うのはもう言い訳にはできない。
ある時、さすがに体力的にも参って「この下手くそ童貞! 加減をしれ!」と罵ったら引くほど焦らされまくった。あれは本当に恐ろしい責苦だった。
しかしこれで屈しては彼の思う壺だ。
身を挺した抗議の末、エロ同人みたいなアプローチの数々は控えてもらうことを約束させた。そのせいであちこち開発されてしまった気もするが、結果的に私の言い分が通ったのだから私の勝ちである。馬鹿らしい勝利だ。
それでどうにか、いつも通りと言っていい落ち着いた生活が戻ってきた。
「蜜柑ちゃん、好きだよ」
「なん度も言うけど、そう言うの嫌いなんだってば」
訂正。行動は以前と遜色ないけれど、前よりやたら直球に言葉を伝えてくる。なんの脈絡もなく。
手持ち無沙汰な縁樹くんは、尻尾のように長い私の髪の毛をくるくると指に絡めた。
後ろから抱きついてきていて、動こうと思えばくっついたまま着いてくる。重いし邪魔。
そして極め付けに耳元で愛を囁いてくる。もう許してほしい。限界だ。
しかし、悪態をつきながらも私は甘んじて受け入れるほかない。
それが過剰な性的接触を回避するための条件の一つだからだ。
縁樹くんの言葉を拒絶しないこと。
彼の想いに私の感想を返すのはいいけれど、やめて欲しいとは言わないこと。
なんでも、身体で繋がれない分、言葉で愛を注ぎたいとかなんとか言っていたような気がするけれど、約束を取り付けた時は意識が飛びかけてたので、実はよく覚えていない。
「蜜柑ちゃん、キスしていい?」
「勝手に、っ」
まだ返事の途中なのに。
性急な縁樹くんは、私の口内を蹂躙しながら器用に私の体を抱き上げる。
そのままベッドに移動して、私の服のボタンに手をかけた。
「シたいの?」
「シたい」
「ちょ、お、がっつきすぎ。何? どうしたの?」
はだけて顕になった肩を食まれ、舌が肌を這う。
手は脱がしながら身体中を愛撫してもどかしい。
一旦止めたくて、両手で縁樹くんの顔を引き剥がそうと、口を塞ぐように手を突き出すも、撫でるのを止めた彼の手が私の手首を掴んで固定した。
私はやばいと思うも、もう遅い。
縁樹くんは私の反応を余さず見届けようと、じっと私の顔へ視線を向けながら、捕まえている私の掌を舐めた。
そのまま舐め上げて、指の間を一つ一つ丁寧に、手の皺や指の関節をくすぐるみたいちろちろと、一本ずつ指先をしゃぶり、爪を柔く食んでいく。
「う、ぁああぁぁぁ……やめろぉぉ……」
「ふふ、照れて可愛い」
「照れじゃない。引いてる」
細められた目はまるで、全て見透かされてる気分になって度し難い。
初めてこの部屋に来た時みたいに、縁樹くんは器用に私の両手を片手で拘束して、ベッドに縫い付けた。
「今のうちに蜜柑ちゃんにたくさん触れておきたくて」
「……? 今のうちって何?」
「仕事の会食で、ちょっと遠くにね。数日戻れなさそうだから」
「なんだって」
この性欲に塗れ爛れた日々からしばらく解放されるということに、頭の中で歓喜のパレードが始まった。
縁樹くんは嫌そうだけど私は嬉しい。
でもそれをそのまま出したら縁樹くんは拗ねちゃうだろうから、しおしおとした演技を見せる。
「ご飯は……?」
「後で一ヶ月分くらいの保存食を持ってくるよ。水とかお茶もね」
「お、至れり尽くせり。やったね」
さすがに以前放置した反省がよく出ている。
念の為多めに用意するところも高得点だ。
思わず漏れ出た楽しげな声に、縁樹くんは「ふーん?」と。
「蜜柑ちゃんは僕がいなくても平気そうだね? 僕は気が気じゃないのに」
「か、感性の違いなんだから、そう拗ねないでよ」
以前も似たような会話をした気がするな。
縁樹くんも同じことを思ったのか、ふっ、と笑みをこぼした。
「んー、じゃあ、まあ、これから仕事に向かう縁樹くんにサービスしないとね」
「サービス?」
ニンマリと私は笑って、上体を上げようと身を捩った。
縁樹くんは両手を解放して、私の動きを補助するように抱き寄せる。
自由になった両手を彼の頭に回して、耳元に口を寄せた私は、甘ったるく囁いた。
「思う存分、滅茶苦茶にしていいよ」
*
結局、ギリギリまでしていたために、先ほど縁樹くんはバタバタと山のような段ボール箱を往復で部屋に運び込んでいた。
元気だなあ。私なんて足が立たないのでベッドに埋もれてるのに。
「それじゃあ蜜柑ちゃん、帰ったら続き、しようね」
「知るか、バァーカ、早く行け変態」
本当に滅茶苦茶に潰されてしまって、可愛らしく送り出すエネルギーもない。
縁樹くんはボロ雑巾のような私のそばに寄ると、私の鼻頭にキスをした。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
なんてことのない、ありふれた別れの言葉。
妙に恥ずかしいのは、まだ先ほどの熱が残っているからだ。
数回だけ彼の手が私を優しく撫でて、離れていく。
私は呑気に、疲労回復のために一旦眠ろうと目を閉じた。
真っ暗な闇に沈み込んで、意識がふわふわしてくると、唐突に、言葉が浮上するように響き渡る。
「きみは不幸でなければいけない!」
随分とはっきりした声が、私を断じた。
ああ、これは夢だ。
灰色の空間で蠢く黒い影が、私を指さして責め立てる。
わかりきった自戒の糾弾が鬱陶しくて、逃げるように背を向けたけれど、そこにもまた黒い化物が佇んでいた。
囲まれている。逃げ場はない。
「きみ達は不幸でなければいけない!」
息苦しい。
言葉が紡げない。
この感覚を私は知っている。
あの冷たい、二月の海の中で沈んでいた時と似ている。
それを思い出したら、不思議と胸の奥がじんわりあたたかくなって、呼吸が少しだけ楽になる。
だって、知っているのだ。
あの時、彼が手を掴んでくれたことを。
「私は二度と報われなくていいから、あの場所にいることだけは許してほしい。これ以上幸せを望まないから、不幸を押し付けられても構わないから、どうか、こんな私を見逃して……」
気付いたこの想いを打ち明けることはしません。
彼の想いにも決して応えません。
ただ生ぬるい今を維持したいだけなのです。
だから、どうか、共に在り戯れることだけは許してください。
初めて神様に祈りを捧げた。
だがこれは、所詮夢だ。
神の介在などではなく、私の深層心理が現れているだけ。
そう、私を苛む黒い化物の正体は、全て私。
私が私の愚かを、そう簡単に許すわけがない。
取り囲む影は高く伸び、周囲を全て覆い尽くす。
灰色は全て埋め尽くされ、暗闇の中に、私は独り閉じ込められた。
「きみは彼と出会って救われたんだね」
「可哀想に」
「今が幸せなんだね」
「可哀想に」
責め立てられると思っていると、闇は甘い声色で私を憐れんだ。
それが恐ろしくて、おぞましくて、夢の中で目を閉じて耳を塞いで、拒絶を示した。
それでも声は、笑いながら頭の中に響いてくる。
「ならもう堕ちていくだけだね」
黒い波に飲まれて、沈む、沈む。
私の思考が、絶望に染まっていく。
もう、堕ちていくだけ。
嫌な胸騒ぎがした。
弾けるように悪夢から目覚める。
枕元に持ち出していたペットボトルの水を飲み、勢いが余って飲み込みすぎて吐き気を催す。
「あんなの、ただの夢だ……大丈夫……大丈夫……」
言い聞かせるように呟いて、日々を凌いだ。
あまり動かなかったし、食欲もわかなかったので、食料にはさほど手をつけていない。
……だと言うのに、運び込まれた保存食が底をつきかけて、その時初めて、違和感を覚えた。
何日、経ったんだろう?
時計がないのはやはり良くなかった。
今が何月何日かはともかく、あれから何日過ぎたのかくらいは、頭に留めておくべきだった。
嫌な夢を見て、それを忘れようと、何も考えないようにしていたのが仇となった。
「縁樹くん」
のそり、と立ち上がって、ゆったりと歩く。
縁樹くんが出ていった、外へつながる扉へ向かうけれど、あと一歩ドアに届きそうなところで、首輪の鎖が私を引きとどめた。
「くっ……」
首が締まるのを耐えて、千切れんばかりに手を伸ばす。
虫の知らせとでもいうのだろうか、冷静さはなく、ただ外へ出なければと一心不乱に。
行儀が悪いけれど、足の方が届くかもしれないと思いつき、つま先を伸ばした。
足がノブに触れる。
ガチャ、とつかえる音がした。
鍵がかかっている。
それはそうだ、縁樹くんはいつだって、鍵を使って出入りしていた。
今更思い出すなんて。
無力さを痛感して倒れ込む。
「あぁぁあぁぁぁ……」
辛うじて涙は出てきてないが、嘆息の声を漏らした。
「あ、悪趣味だ。どうせ、まだ食料に余裕があるから、縁樹くんはこれを見て楽しんでるんだ。それで、私がまた縁樹くんのことを心配するのを待ってるんだ。くそ! もう! 腹立つ! 絶対心配なんかしてやんない! このままここでのたれ死んでやる!」
それが嫌なら、いい加減早く戻ってこい!
その言葉を飲み込む。
まるで戻ってくるのを待ってるみたいじゃないか。
いや、ご飯のこととかあるから待ってるのは確かなんだけど、それを聞いたら縁樹くんのことだから、私に求められてるとか都合よく解釈されそうだから……。
「ぐすん」
僅かに涙が滲んだのは、惨めだからで、彼のことが心配だからではない。断じて。
そう、思わなければ、不安で心が折れてしまいそうだった。
かちゃり、と鍵の音がする。
なんだ、やっぱりこの状況を見てたんだ。
私の嘆きに、慌てて御機嫌取りに来たんだな。
まだちょっと腹が立つので、このままそっぽを向いて無視してやろう。
ドアがゆっくり開く音がして、すぐに悲鳴が上がった。
「ひっ」
「え?」
見知らぬ女性がそこに立っていた。
金髪だが、その薄い色合いと面差し、何より光を反射する青い目は、縁樹くんとよく似ている。
「あ、あなたは、一体……? 猫ちゃんは……!?」
青ざめて震える女性は、そこまで言うとくらりと倒れてしまう。
隣に控えていた付き添いの女性が、それを慌てて支えた。
*
結論。
縁樹くんは死んだらしい。
実にあっけない。無様な死に方だ。
もらい事故。
車での移動中、急カーブの多い山沿いの道で対向車から追突されて、衝撃で車ごと崖下の海へ落下。
運転手は重傷で発見されるも、他の乗員の消息は不明。
幸せになろうとしたから、この始末だ。
様はない。
……そんなふうに、笑う気は起きなかった。
私が縁樹くんと別れてから一ヶ月はゆうに経っていたらしい。
まあ、一ヶ月分で用意されていた食料が無くなりそうだったわけだから、そのくらいになるよね。
二週間は捜索が続き、三週間目には諦めから葬儀の準備、つい先日、身内だけの葬式を終えたところだとか。
縁樹くんは生前、自身の母親と時折メールでやり取りをしていたらしく、「猫を拾って、部屋でお世話してる」などと送信していたとか。
人を猫扱いしていたことに物申したいが、相手はもういないのだ。畜生め。
それで、縁樹くんのお母さんは、猫が長らく放置されているのではと心配して、遺品整理もかねて様子を見に来てくれたのだ。
開けてびっくり、十七歳の少女を部屋に監禁していたことが発覚したのだから、青ざめて失神するのも無理はない。私のせいではないけれど、なんだか申し訳ない。
「夫と愚息が、ご迷惑をかけてごめんなさい」
あ、旦那さんの方は縁樹くんとグルだったのか。
そりゃあそうか、誘拐される時、組織的な人数いたし、ヘリまで使ってたもんな。
ん? それならなんで私一ヶ月以上放置されたんだ? 死んだらどうするつもりだったんだ?
縁樹くんのお父さんがどんな人か、会ったこともないからその真意はわからない。考えるのはやめよう。
「いえ、迷惑だなんて。むしろ息子さんには、散々よくしてもらって……」
私がうろたえている様を怯えていると思ったのか、縁樹くんのお母さんは申し訳なさそうに顔の皺を一層濃くした。
私と縁樹くんの関係を勘違いされている気がして、ほんの少し不快に感じる。
私たちは被害者と加害者ではない。
共に死のうとしてできなかった、失敗の共感者にして、この馬鹿げた監禁生活の共犯者だ。
だから、壊れ物に触れるみたいに気遣うのはやめてほしい。
口を開いて、でもすぐにその言葉を飲み込んだ。
この線の細い儚げな女性は今、大事な息子の死を悼んでいて、まだきっと、気持ちの整理もできてないだろうに、息子が犯罪行為をしていたと突きつけられて、それでもこちらを気遣おうと、気丈に振る舞っているのだから、私から追い立てて混乱を招いてはいけない。
私がぎゅっと拳を握り込んで耐えている様をどう思ったのか、彼女は淡々とした言葉を紡いだ。
繊細な話題を、あえて感情を隠して語る様は、少し縁樹くんと似ている。
「夫はおそらく、縁樹のあなたに対する不祥事を大事にしないために、示談金を用意すると思います。でももし、あなたが自分の受けた不幸を、お金でうやむやにしたくないと訴えるなら、私がその後ろ盾になりましょう」
「あなたになんのメリットが?」
「縁樹の偏愛には、育てた私にも責任の一端がありますからね」
縁樹くん、愛されてるな。
いい親御さんだな。
「……お気持ちだけ、いただきます。まだ、ちょっと私も混乱していて、どうしたい、とか、何も浮かばなくて」
「……そう。では、私の名刺だけでも、受け取ってください。何かあれば、必ず助けになりますから」
「あ、なら、その、一つだけ、お願いしてもいいですか?」
突発的に浮かんだアイデアが、とても良いものに思えて、はやる気持ちで口にした。
「ええ、勿論」
「旅行の手配とかって、してもらえますか?」
「大丈夫だけど……ご実家に戻らなくて良いのですか?」
縁樹くんのお母さんからの控えめな疑問に、実家の存在を思い出す。
不仲ではないけど仲が良いとはいい難い、冷めた家族だ。ほどほどに心配しているだろうけど、私が無事だからといって泣いて喜ぶような人たちではない。
むしろ、もっと上手く立ち回れと責められる気さえする。
責められる想像に気持ちが沈んだものの、本当に今浮かんだアイデアが良いものなのか、落ち着いて考える時間が必要だ。
実家はそう言う点では、適度に身内に興味がない人たちの集まりだから、冷たさがちょうど良く、落ち着いて過ごせる気がした。
「ん、じゃあ、そうですね……一旦、家に戻ろうかな……なら、落ち着いた頃に、改めて連絡させてもらいます」
「わかりました。お待ちしてます」
柔らかい笑みを受けながら、私は無意識に、軽くなった首に触れた。
お別れというものはいつも唐突に訪れますね。
かくいう私も、このリメイク版更新中に親戚が亡くなりました。みなさんも、熱い日中のお出かけには気をつけてくださいね。
さてはて物語は斯くして結末へと至ります。
次回はエピローグ「海は命を清算する」最期までお付き合いいただけたら嬉しいです。