母親
教育とは国家が行う投資だと、子供のころにアナスタシアが話していた。子供という存在にどれだけ教育――投資したかで大人になったときの還元率が決まる。何のことかさっぱり分かっていない顔をしたぼくにアナスタシアは税金のことだと教えてくれた。
大人になった子供たちは教育で培った知識でお金を稼ぎ、国は税金として回収して国庫に納める。時に教育を受けた中から天才が出てきて、多くの外貨を稼いできてくれるのだと。
「まるで収容所だ」
中学校の外周を囲む高い壁を見て、ぼくは改めてそう思った。外からは決して中の様子が見えないようになっている。
長期的な少子化と第三次世界大戦を経て、この国はやっと子供が大切な社会リソースであることに気が付いた。教育に力をかけるようになり、与える情報にも制限を重ねて綺麗でクリーンなろ過された情報しか目に入らないようにした。血の流れない戦争映画で戦争の悲惨さを学んでいるし、ダビデ像は男性器が映っている卑猥な彫刻だと美術の教科書から姿を消した。そういった意味でいうと、刑務所より無菌室だ。
だから、この国に社会からあぶれた未成年娼婦のような存在がいることは決して教えられない。助けを請う可哀想な子どもたちは海外にいるのだと教えられる。
「府馬ヒミコのことを知っている人はいなかったでありますな」
室長との会議から四日目。
日が暮れて夜の時間が始まろうとするころ、ぼくらは学校周辺での生徒への訊きこみ調査を終了することにした。目的を達成したからだ。
――府馬ヒミコが着ていた制服がどの学校のものなのか調べることは容易だった。
新東京アイランドの北区に位置する公立中学だ。女子生徒はリボンの、男子生徒はネクタイの色を学年毎に分けているため、ヒミコが中学二年生で十四歳ということも分かった。黄色が一年生、赤色が二年生、青色が三年生だ。
なので、声をかけるのも赤い色のネクタイとリボンをしている生徒を対象にした。もちろん、大人であるぼくや少女兵器として認知されているヘレンに任せるのはリスクが大きい。そのため、懇意にしているストリートチルドレンに依頼して代行してもらった。
今まで考えたこともなかったが、ぼくはお金を使って子供を働かせていたのだと思い知らされた。目を背けていたわけでも瞑っていたわけでもなく、それが普通だという常識に染まっていたのだ。とはいえ、お金がないとストリートチルドレンの子は生きていくのに困るだろう。今はそう思うことにした。
「二年生の学級数は三つ。一クラス辺り三十人と考えてもヒミコの同年代は多くて九十人だ。誰も知らないということは全く学校には来ていないんだろうね」
「なんだか悲しいでありますな。クラスメイトというのは友達関係という情報を含んだ言葉だと思っていたであります」
「籍はあっても、誰も会ったことがないなら、知らなくても仕方ないさ」
「それが悲しいと思うであります。存在するのに、存在しないものとして扱われているのが……」
「ぼくらが考えてもどうしようもないことだ。それに籍が残っていてくれたおかげで、とりあえずはヒミコの住所も分かった」
ぼくは授業参観と記された一枚の用紙を持ち上げる。プリントの余白にストリートチルドレンが府馬ヒミコの住所を書いてくれた。学内に知人がいるらしく、そいつに頼んだと言っていた。
「それにしても未だに紙で情報を伝えるとは古臭いでありますな。機密情報というわけでもないですし」
「拡張チップもアームフォンも持っていない人がいるかもしれないからね。結局、アナログで情報を伝えるのが楽で確実なんだろうさ。規格の統一はコストもかかるし」
学校から離れていく毎に街灯の明るさも減っていき、部活帰りの生徒たちも見かけなくなってくる。
夜の住宅街は不気味だ。
少ない島の面積を活かそうと建てられた高層マンション群は夜になると聳え立つコンクリートの塊でしかない。一軒屋が主流だった時代には夜になると一家団欒の和気あいあいとした声が路地へと漏れていたそうだ。
想像がつかない。
今は窓にプライバシーフィルムが貼られて、防音性も抜群だから声が外に漏れることはない。かつて家の玄関に鍵をかけなかった時代もあった。個人の情報が安く扱われていた時代だ。
諜報の世界でこういう冗談がある。
隣室の住民と合衆国大統領の個人情報を盗むなら、合衆国大統領の方が簡単であるというものだ。合衆国大統領の個人情報は検索すれば出てくるけど、隣室の住民は出てこないという理由からだ。
冗談ではあるが、間違っていない部分もあるのが面白い。合衆国大統領の名前は検索すれば分かるが、隣室の部屋番号を検索したところで名前は出てこない。出自や経歴も有名人になればなるほど公共情報になっていくが、一般人の個人情報ほど強固に守られている。
実際、府馬ヒミコの情報なんて検索では出てこない。
住宅街が終わると歓楽街が現れ始めた。子供は消え、酒と女を求める大人たちが現れ始める。鬱陶しいほどのネオンの光が夜の街に明かりと活気を与えている。
大通りから外れて路地裏へと歩みを進めた。しばらく歩いていると路上に座って酒を呑む無精ひげの男たちが目立ち始める。小汚い服装の老婆が手招きしてくる。移民の不法滞在者たちだろうか。
以前ロシア連邦保安庁のニコライとミハイルが隠れていた薄汚れたマンションを通り過ぎ、十五分ほど歩いているところに目的地はあった。
「さて、ここが府馬ヒミコの住んでいたマンションか」
「マンション……でありますか。こういったのは集合住宅や団地といった名称がふさわしいと思います」
長方形の立方体に窓が張り付けられている、という印象だ。左右には人が通れるか通れないかくらいの隙間をあけて同じような造りの長方形の箱が建てられていた。貴重なスペースを有効活用したいのか、マンションの隙間には配管が蔓のように絡み合っている。窓にはプライバシーフィルムも貼られておらず、しわくちゃのカーテンが揺れていた。
周囲には街灯が少ない。拡張チップで視力の輝度を調整して、世界を少しばかり見やすくした。
階段をのぼる。食品や飲料のゴミ袋が散らかっているのはまだ良い方で、酒瓶や煙草の吸い殻が目に付く。それから、錠剤を入れるのに使うPTP梱包シートや注射器が転がっている。
「ひどい場所だ」
「全く。人間が住む場所ではないであります」
四階に辿り着く。部屋番号と共に府馬姓の表札が掲げられている。それ以外は普通だ。別の部屋には大量にチラシや封筒が突っ込まれていたり、玄関周辺の壁にスプレーで呪いの言葉をかきつけられていたりしたので、ほっとする。
「府馬さん、いらっしゃいますか」
インターホンが見当たらないのでドアを軽く叩く。
しばらくすると、ゆっくりと玄関が開き、中から女性が現れた。
「なんなん、あんたら……」
髪の毛はヒミコよりも傷んで乾いており、頬は痩せこけて、口元に見えた歯は黄色く、数本が抜けていた。オフショルダーのトップスで肩と胸元を大胆に見せているが、肌には染みがところどころあってセクシーさのかけらもない。
訝しい目線でぼくを見つめてきている。
あまり友好的な関係は築けそうにない。今すぐにでも扉を閉められてしまいそうだ。
〈ヘレン、見える範囲で構わないから、部屋の中の様子を探ってほしい。脅しのための材料が必要になるかもしれない〉
無音声通話で横にいるヘレンに声を出さずに頼み込む。
「娘さんについて聞きたいことがありまして」
「あいつのことなんて知らん知らん。なんなんや、あんた。子供連れて。学校の先生か」
ヘレンのことを知らないらしい。ネオ・スカイツリー占領事件の映像を見ていないのか、軍の情報統制が上手く機能してくれたのか。どちらにせよ好都合だ。
「娘さん、しばらく家に帰ってきてないでしょう。それについて、ちょっとお話がありましてね」
「そんなんどうでもええ。あたしに関係ない」
「……あなたは府馬ヒミコの母親でしょう」
「それはそれ。これはこれ。別の話や」
もし、母親として帰ってこない娘のことを心配していたら、ぼくに何か知っているかことがあるのかと尋ねていただろう。
それすらせずに、関係ないとまで言う。
ヒミコがどうして未成年娼婦なんかをやっていたのか垣間見えた気がした。
〈ミィル、部屋の中に電子ドラッグがあります。絆創膏に偽装したアクセラです〉
頭の中にヘレンの声が届く。
ちょうどそのタイミングでヒミコの母親は苛立ちそうに髪の毛をかいた。頭からぼろぼろとフケが落ちる。
無言で玄関のドアを閉めようとしたので、ぼくは革靴を間に挟み込んだ。
苛立たしく舌を鳴らしたヒミコの母親が何かを言う前に、ぼくは派手に玄関のドアを殴った。拳が暴力的な音を響かせる。
「あなたのところの娘さんがおれたちの組織から電子ドラッグを購入しましてね。お金はあとで払うから、と半分だけは頂いているんです。ですが、そのまま期日が過ぎてしましましてね。こうしてわざわざお家まで伺ったんですよ」
「な、なんや。ヒミコは最近ずっと帰ってこんから家にもおらん。それにあたしに関係ないやん」
「仰る通り。親子といっても他人ではあるでしょう。だけど、おれたちもと取りっぱぐれたまま、舐められたままではいかなくてねえ。娘さんのことについて知っていることを話してくれるだけでいいんです」
それともお母さんが責任とってくれますかね、と言ってわざとらしく見せつけるようにナポレオンコートの内側からCz75を取り出した。玄関の扉を優しく叩いて静かに音を鳴らす。
雑な交渉の仕方だと、心の中で反省する。
スマートじゃない。暴力や力で従わせるのは、諜報の世界でも下手くそのすることだ。信頼を得られていない相手からは嘘を言われる恐れがあるし、反発される可能性もある。
そんな手法でも、ヒミコの母親相手では十分だったようで、室内でゆっくりと話を聞かせてくれることになった。
◇ ◇ ◇
部屋に足を踏み入れると異臭に気付いた。生ごみや煙草、水回りのカビ臭、それらが混ざり合ったような、不快な臭いだ。
これなら外で話してもらった方が良かった、と後悔した。悪臭は苦手だ。幸いなことにヒミコの母親は靴を脱がずに部屋に上がったので、ぼくも靴を脱がなかった。汚い床の上を靴下で歩きたくはない。
〈ミィル、部屋に子供用のものがありません〉
〈良い観察眼だ。他にも何か気付いたら教えてね〉
室内はワンルームで部屋は一つだけだった。床にはたんまり押し込められたゴミ袋が数個とプラスチックの弁当箱、空になったペットボトルが転がっていた。中学二年生の女の子が住んでいた痕跡はどこにもない。通学用バッグも教科書すらない。窓際にかけられた下着に子供用のものがあるので住んではいたようだ。
「娘さんが帰ってこなくて心配じゃなかったんですか」
ヒミコの母親は窓を開けて、干してある下着や服の傍で、煙草に火をつけた。銘柄は女性にしては重いハイライトだ。ヤニの臭いがぼくまで届く。
「心配になった。見てみい、あいつが帰ってこんからゴミも散らかったまま。飯も買って来ないかん。遊ぶ金もない」
「それは大変ですね」
「ほんとや。あいつは親をなんだと思っとるん」
「あなたは何のお仕事を……」
「カジノで稼いどる。オンラインの方やけど」
短い会話でヒミコがどういう生活を送っているのか、想像がついた。ヒミコが未成年娼婦をしている理由も。
ヒミコは疑問に思うと言っていた。大人は肉体と時間を会社のために使ってお金をもらっているし、自分は男の人のために肉体と時間を使ってお金をもらっている。そこに違いがあるのか、と。
生きていくためにお金が必要だった。単純で簡潔な理由、未成年娼婦はその方法だったにすぎない。
ぼくも孤児だ。普通の家庭とやらが分からない。
一般的な家庭や親子関係というものを話すのはちょっと難しい。
それでも、自分は電子ドラッグをやったりとオンライン・カジノで金を転がしたりして、娘を未成年娼婦として働かせる親が正しいとは思えない。
本人がそうだと言ったわけではないので、ぼくの推測が間違っているかもしれない。けれど、ヒミコの母親ともっと会話を重ねて答え合わせをする気にもなれなかった。
「府馬殿は娘を愛してはいないのですか……」
「金を持ってきて、掃除をしてくれるうちは愛してる」
「どうして、娘を産んだでありますか……」
「ヤったら産まれた。それ以外に子供が産まれる理由があんの」
ヘレンの問いにヒミコの母親は鼻を鳴らして答える。
本当に理由なんてないのだろう。
ヒミコの母親世代は徴兵逃れのための妊娠が横行したが、目の前の女性にはそんな理由もない。
精子と卵子が結合し、細胞分裂の結果として産まれただけ。そこに愛なんて陳腐な言葉が口出しするスペースはない。
「ヒミコが人魚姫の本を持っていた理由を知っていますか……」
「知らん」
「父親からもらったと言っていました。ヒミコの父親は……あなたの夫はどんな人ですか」
なんでそんなことばかり訊くんや、とぼやきながら、ちょいと待て、と吸い終わりかけていたハイライトを窓の桟に押し付けた。吸殻を外に投げ捨て、新しく口にくわえる。
「確認や。話してもええけど、話したらあたしはヒミコが買った電子ドラッグの肩代わりはせんからな。あんたがヒミコをどうしようとどうでもええ」
「ええ、大丈夫です。こちらもお金を回収させてもらうだけです」
「なら良かったわ。ほんま、あの子を産んだのはあたしの人生で最大の失敗や」
「頭の悪い子を持つと親も大変ですね」
ぼくは思ってもいないことをご機嫌取りのために言う。
「まず、あたしは結婚してへん。父親はあたしが妊娠していると分かるとどこかに行った。産んだらあの人の心も変わって帰って来るかとヒミコと思って会いに行ったら、おれは反対した、どうせ違う男の子供だとかと言われたんや。そん時に本はもらったんやろ。本人は小さくて覚えてないようやけど」
「父親の居場所を知っているんですか」
「ヒミコが産まれた当時はな。戦争が始まって軍に徴兵されてからは、どこに住んでるか分からん。生きていることは知っとるが、もうあいつに会おうとも思わん」
「ヒミコの父親はどんな人なのですか……名前は……」
名前を訊いたのは軍に徴兵された、と言っていたからだ。どこの兵科に割り当てられたのだとか、どんな戦場を経験したのか、調べたら分かることがあるかもしれない。
「――蘇我フヒト。なんかテレビでも騒いどるし、名前は聞いたことあるかもしれんね」
だから、最近聞いたテロリストの名前が出てくるのは想像できなかった。