蜜壺蜜
新東京アイランド 道祖駅
二〇八五年一月十七日
AM8:12
駅の出口に向かって規則正しく歩いていくサラリーマンたちはベルトコンベアで運ばれる部品のようだ。電車を降り、改札を抜け、仁王口へと目指す。その一連の動きはどうしようもなく規則的で途切れることなく続いている。集合体となり、大波のように歩くあの群集の中に人造人間が混じっていても気付きようがない。
「――遺伝子にでも刻み込まれているのでしょうか」
生物は種の存続のために進化する。あるいは、生存に適した進化をした個体が生き延びていく。どちらにせよ生存するためにはその生きる場所に適応しなければならない。
生物界にはベルグマンの規則やアレンの法則というものがある。寒冷地に棲む動物は体温保持のために大型になりやすく、凍傷を避けるために耳などの突出部が小さくなっている。実際、北極地域に生息するホッキョクギツネの耳は小さい。
温暖な気候である場所では同種と比較すると小型になり、耳などの突出部は大きくなりやすい。アフリカ北部に生息するフェネックは自身の顔よりも大きな耳を持つ。これは放熱量を増やすためだと言われている。
動物たちは生きるために自身を環境にあわせている。
その自然界の法則は人間社会にも適用されるだろう。
人間も社会に適応していかなければならない。社会に適応できない人間は線路に飛び込んだり、ホームセンターで頑丈なロープか練炭を買ってきたり、高いビルの屋上にのぼったり、方法は様々だが、社会から淘汰されてしまう。自由の国アメリカでは、これらの方法の他に銃を口にくわえる方法も選べる。神様はわたしたちに生まれ方を選ばせてくれなかったが、死に方には様々な方法を用意してくれた。
「社会の歯車になることが、人間の生存適応なのでしょうかね」
道祖駅内の商業エリア。その渡り廊下に立つアナスタシアは窓ガラスからサラリーマンの群集を見下ろして、そんなことを考えていた。
待ち合わせに指定された十三階のチェーン喫茶店「ルナクロック」に入ると、混雑した店内の一角におでこから頭頂部にかけてハゲている五十代半ばの男性がいた。蒙古人種と白人のハーフのような容姿ではあるが、高い鼻と細長い顔立ちから一目で東洋人ではないのが分かる。アナスタシアの待ち合わせ相手だ。
席に近寄ろうとすると、男はカウンターを指差した。先に注文をしてきたら、という意味のようだ。
「いらっしゃいませ」
店員はスポーツ刈りの爽やかな男だ。少し緊張気味の様子だったが、胸元につけられた研修中というバッジで納得する。
「おすすめはありますか」
意地悪をするつもりはなく、スターバックス派なのでルナクロックは初めての来店だった。ざっとメニューを眺めても一般的な喫茶店の飲み物ばかりなので、店員の薦めるものにしようと思った。
「おすすめですか。そうですね……」
店員は困ったようにメニューを眺め始める。まだおすすめを訊かれたときのマニュアルを教えてもらっていないのだろう。
経験を経れば、こういった質問も笑顔を浮かべながら即答できるようになるはずだ。それが社会への生存適応なのだから。
「あなたの好きなもので構いません。わたしもこれといって飲みたいものが思い浮かばないだけですから」
「それでは……『ミツツボ・ミルクモカ』はどうですか」
店員の指差さしたコーヒーの写真に変なところは特にない。色も薄い茶色で可愛らしい小さなカップに入っている。
ただ成分表にはミツツボアリの蜜と書いてあるのが目に入った。
「昆虫食ですか」
半世紀前から国際保健機構《WHO》が食糧難への解決策として昆虫食を推し進めてきた結果だ。
日本政府も他国のように昆虫食開発に税金を投入した。
元々、日本には日本食だけでなく、外国の様々な食文化を受け入れる土台があった。朝はバターを塗ったトースト、昼は白ご飯と鮭とみそ汁と漬物、夜はイタリアンパスタ、と三食別々の食文化を普通に行っている。
そういった国民性があったことや、昆虫が牛や豚に比べて管理や飼育が安価なこと、昆虫食への嫌悪感をなくすための企業努力もあり、スーパーや飲食店で並ぶようになった。
一方、欧米の先進諸国でも取り入れようとした運動はあったが、見た目や昆虫ということに対する嫌悪感、地元料理への愛着という精神的な障壁、人工肉の開発といった要因から定着しなかった。スーパーマーケットの片隅にひっそりと置かれている程度だ。
ミツツボアリはですね、と若い店員は話し始めた。
生息地はオーストラリアの砂漠地帯で、働きアリは花の蜜を腹部に貯め込むという珍しい特徴的がある。巣の中にははちきれそうなほど、ぱんぱんに膨らんだアリたちがぶら下がっている。日本の食品企業はこれを輸入し、商品として出荷できるように遺伝子改良を繰り返した。
遺伝子改良は一生が短く、世代交代の早い昆虫では、比較的早く行える。
そういったことを早口で熱心に説明してくれた。
「ご年配の方は昆虫食というと毛嫌いされる方も多いですが、お姉さんのように若い人なら大丈夫かな、と」
「あら、これでも三十歳は越えていますよ」
ご冗談を、と店員は笑って続ける。
「蜂蜜もミツバチが咀嚼したものなので広義では昆虫食とも言えます。なので、蜜壷蜜も似たようなものですよ。味はぼくが保証します」
蟻自体をミキサーにかけているわけでもないし、アナスタシアは昆虫食を嫌っているわけではない。おすすめを聞いておいて、別のものを注文するというのも悪いので素直に注文することにした。
「それでは『ミツツボ・ミルクモカ』をお願いします。それとサンドウィッチを」
「ありがとうございます。えっと……二点で六百八十円です」
「支払いは現金でお願いします」
「現金、ですか」
店員は拡張チップで決済を行う指認証機器に目を移す。
「ごめんなさい。田舎出身なもので、まだここにチップを入れてないの」
アナスタシアは自分のこめかみをとんとんと叩く。拡張チップ――主に東京で普及している小さな機械。これがあれば、拡張現実《AR》の表示やパソコンで行う操作のほとんどができてしまう。店での支払いも人差し指を指認証機器におくだけで終わらせられる。
そのせいか、紙幣や硬貨、カードで支払いをする人間は東京では少ない。
「アームフォンでの電子決済も可能ですが……」
店員はアナスタシアの左手首に目を向ける。そこにはシリコン製のリストバンドが着けられていた。
Arm Phoneは小型のウェアラブル端末だ。正式名称はWristband Phoneではあるのだが、旧型のアームフォンという名称の方が市場には普及してしまっている。
「ごめんなさい。まだ銀行との提携設定が済んでいなくて。現金ではだめでしょうか」
店員はカウンター周りを探したり、仮想ウィンドウを開いたのか中空で指をスライドさせたりしていたが、円柱形の無人ロボットがミツツボ・ミルクモカを持ってきたので慌てて事務所へと駆け込んでいった。
商品を受け取るべき店員がいなくなったのでロボットはチカチカと目を点滅させて待機状態になっている。
しばらくすると、先ほどの研修中の店員と共に店長と名札をつけた人物が現れた。
「大変お待たせして申し訳ございません。現金払いをご希望でございますね」
そうです、とアナスタシアは答えて、乃木希典が描かれた千円札を渡す。
店長はテーブルの引き出しに指を当てると現金保管箱を開いた。丁寧に目の前で百円玉、十円玉を数えて、お釣りを渡してくれた。
「ありがとうございました。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
アナスタシアはテーブルに向かいながら考える。
店長の対応はどうしようもなく完璧で、どうしようもなくマニュアル的で――どうしようもなく機械的だった。
プロフェッショナルというよりも、最大限効率化した動作と最適化されたセリフだ。振り返ると、研修中の店員は店長から現金での対応を教わっていた。あの青年も数年後には効率化と最適化をされた機械的な人間へと生存適応してくのだろう。
「Добрый день,Настя」
「こんにちは、セルゲイ」
男はコップを持ち上げて、アナスタシアを愛称で呼ぶ。一見するとただの禿げた外国の観光客にしか見えないこの人物がロシア連邦保安庁のリーダーだ。
――セルゲイ・バルスコフ。
日本潜入前の幼いアナスタシアに諜報技術を授け、大戦中はアナスタシアに命令を出していた人物だ。現在はロシア連邦保安庁の対日メンバーと残留ロシア兵を基にまとめあげられた組織のリーダーとなっている。
「そちらの調子はどうかね」
「とても順調です」
「それは何よりだ。お互いヴォルゴグラードの女神に見守られているようだね」
セルゲイがコーヒーを口にしたので、アナスタシアもカップを手に取った。ミツツボ・ミルクモカは意外に美味しかった。不思議なことに最初はコーヒーの苦味しかないのに、あとからふんわりと蜜の甘さが広がっていく。蜂蜜のように粘り気もないのですーっと喉を通っていき飲みやすい。
「日本の食文化は素晴らしい。日本料理もそうだが柔軟な他食文化の受け入れをし、西洋料理、中華料理、トルコ料理、アジア料理、なんでも存在する。ただロシア料理は少ないのが不満だ。ロシア料理とうたわれる料理も気候の問題なのか、食材の問題なのか、私の知るロシア料理とは異なる」
「祖国の料理が恋しいのですか」
「時々だがね。祖国のビーフストロガノフを無性に食べたくなる。母の得意料理だった。再現しようとしているのだが、これがなかなか難しい。ナスーチャはそういった経験はないのかね」
「わたしが日本に来たのは六歳ですから、祖国の料理の味は覚えていません。それに学校では基本的に日本料理しか出してくれなかったではありませんか」
「それもそうだ。しかも、学校の日本料理はあまり美味しくなかった」
学校というのはロシア連邦保安庁のスパイ養成所のことを指す。アナスタシアの記憶はここの地下隔離所で始まっている。
コンクリートで囲まれた光の届かない空間。諜報技術ももちろんだが、日本に送り込まれる諜報員として、日本人になりすますための文化や常識を教育された。ご飯を食べる前に手を合わせるだとか、日本人なら誰でも知っているアニメのキャラクターについてだとか。
取り留めのない談笑をしていると、アナスタシアたちのいる方向へ歩いてくる親子連れが見えた。四十代の両親と五、六歳くらいの男の子だ。隣のテーブルが空いているので、そちらに座るのだろう。
子供は喫茶店が初めてなのか、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。右に、左に視線を送って、手元のトレーにのっているドリンクカップが危なげに揺れている。両親はそんな子供の様子に気付いていない。
「――あ」
悪い予感は当たった。
アナスタシアの目の前で子供は横切ろうとした椅子の後脚に躓いた。その椅子に座っているのはセルゲイだ。子供は前のめりに床へ倒れ始め、ドリンクカップはトレーから離れた。
アナスタシアからは全てが見えていたが、セルゲイは背後の死角で起こったことなので、自身の椅子が蹴られて揺れるまで分からなかったはずだ。
なのに、セルゲイは背後に左腕を伸ばして、倒れ掛かった子供を支えた。右手でくるくると宙に舞ったドリンクカップをキャッチする。
「おやおや、大丈夫かね」
セルゲイはこの一瞬のできごとに驚いた様子もなく、子供を起こしてあげながら優しく尋ねる。子供は自分の身に何が起きたのかを理解できていないようで、ぽかんと口を開いたままだ。
子供の両親がアイムソーリーとサンキューを繰り返しながらセルゲイに頭を下げた。
「気にしないでください。お子さんに怪我がなくてよかった」
日本語でセルゲイは答える。
トレーにドリンクカップを戻すと、子供はやっと自分がこけそうになったところをセルゲイに支えてもらったのを認識できたのか、頭をさげてお礼を言った。両親も日本語が通じると分かったのだろう。「ありがとうございます」と「すみませんでした」を繰り返したあとに、テーブルへと向かっていった。
「よく子供を支えられましたね。見えてなかったのでは……」
「昔から勘はいい方でね。それで日本の冬について、だったか。もう少し温かい国だという印象だったのだが、冬は随分と冷え込むね。外に出て慌ててコートを部屋に取りに戻ることがしばしばある」
何事もなかったかのようにセルゲイは会話を再開する。勘がいい、で済ませられる芸当ではない。自身の椅子が蹴られるまで、子供の存在はわからなかったはずだ。それにも関わらず、倒れる子供を支えて、中空でドリンクカップを掴んだ。
人間離れしている。
これが五十歳を超えた男ができることなのだろうか。
「――さて、場所を変えてもいいかね」
二人が朝食を終えたタイミングでセルゲイはアナスタシアに切り出した。
空になったカップをトレーにのせて返却口を置いた。そのまま喫茶店を出ていこうとするセルゲイにアナスタシアは少し待ってもらうようにお願いして、カウンターへと寄った。
先ほどの研修中の店員はアナスタシアに気付くと初々しく笑った。
「ミツツボ・ミルクモカはどうでしたか」
「とても美味しかったです。蟻なのにあんなにも甘い味になるのですね」
「気に入って頂けたようで何よりです。蜜壷蜜は運ばせる蜜も厳選しているんですよ。味自体は運ばせる蜜で決まってしまいますから」
「あら、お詳しいのですね」
「実は僕、東京農研大学に通っていて昆虫食の研究をしているんです。この分野はまだまだ発展途上で、世界のどこかで常に新しい開発や発見があるので楽しいですよ」
「研究者さんでしたか。すごいです」
「ただの学生ですよ」
店員は照れたようにはにかんだ。
「もっと話を伺いたいのですけれど、ここではご迷惑ですね。また来ますのでその時はよろしくお願いします」
「こちらこそ、また来ていただけるのを楽しみにしています」
アナスタシアがそれではまた、と笑顔を送ると店員は深々と頭を下げた。喫茶店の外でセルゲイが暇そうに待っていた。
「それでは行きましょう」
研修中の店員も、マニュアル的な店長も、元気な子供とその両親も、楽しそうに談笑をしていた店内のアベックや老夫婦も、想像すらできないだろう。
アナスタシアとセルゲイがテロリストと呼ばれるような存在だということに。