アナスタシア
昇降機に耳を当てて外の様子を窺う。
足音はない。話し声も。
ヘレンに無音性通話で問いかける。テロリストは確認できないであります、と返事があった。
カズとは互いの幸運を祈り、ここで別れた。
廊下に続く扉を慎重に開く。左右を目視。視界の範囲ではテロリストはいない。
サーバールームへは少し距離がある。
ハチキュウ――突撃銃を構えて、前方へ歩を進める。後方はヘレンが警戒してくれている。ぼくは前だけに意識を向ける。
廊下の曲がり角付近まで進むと男と女の声が聞こえてきた。何を話しているかまでは聞き取れないけど、テロリストと捉えていいだろう。
曲がり角からそっと顔を覗かせる。
一人は坊主頭に軍帽を被った男。太い眉に鷹のように鋭い目つきをしている。身長は百九十センチほどあるだろうか。ロシア陸軍のオーバーコートを身につけている。
「――イワンか」
顔写真を見たことがあるから、まず間違いないだろう。
イワンと対面している女性はぼくに背を向けているため顔までは分からない。リーダーはアナスタシアという女性名で呼ばれていることから、彼女がその人物である可能性は高い。
「アナスタシア、日本の警察はどうにか我々を説得しようとしている」
イワンが話す。やはり女はリーダーであるアナスタシアのようだ。
アナスタシアはイワンが軍服で全身を固めているのと対照的に、一般人と変わらない服装をしていた。雪のように白いボアコートを身につけている。髪は濡れ羽色のように艶やかな黒で腰の辺りまで伸ばして揃えている。
何も知らなければ取り残された人質だと思っていたかもしれない。
「そのままボリスラフには警察とのお喋りを楽しむよう続けるよう伝えてください。あちらも説得に応じるとは思っていないでしょう。軍の動きはどうですか」
「ネオ・スカイツリー付近で待機している。以前、動きはない。突入の準備をしているとの連絡もない」
「時間ぎりぎりまで待つのでしょう。こういった重大な事件ですぐに判断を下すのは難しいものですから。今は最悪の状況でも時間が解決してくれる、と人は考えたくなるものですよ」
「では、日本が動くのは交渉期限日である明日の夜か」
アナスタシアは首を横に振る。
「そう私たちが考えていると日本軍は推測します。ですので、行動に移すとすれば、明日ではなく今日。我々の思考と警戒の隙を突くでしょう。見張りを厳重に、定期通信の間隔を短くするようにしなさい。もうすでに潜入を開始しているかもしれませんからね」
「了解。各位に通達しておく」
二人の会話を聞いているときに、ふと違和感を覚えた。
当然、ロシアのテロリストであるアナスタシアとイワンはロシア語で話をしている。
イワンはぼくがモスクワでいるころに聞いた現地人の流暢なロシア語だ。
けれど、アナスタシアのロシア語には訛りがある。
ロシアも広いので地域によってアクセントの違いや日本でいう方言も存在する。けれど、アナスタシアの訛りはそういったものではなく、第一言語を別としている者の訛りだ。ベとヴェやpとДの区別がつけられていない。酷いというほどではないが、気にして聞いてみるとはっきりとわかる。
でも、仮にもロシア連邦保安庁の残党のリーダーだ。ロシア人でない外国人をその筆頭にするのだろうか。
それに、この声、どこかで聞いたことがあるような気がする。
「私はパスティのところへ行ってきます」
アナスタシアは言った。
ヘレンはその名前を聞いて僅かに義体を揺らした。
「オレはサーバールームの警備に戻る。……アナスタシア、あの機械人形をあまり信頼しない方がいい。ヤツは大戦で我らが同志を殺していたのだぞ」
「ええ、その通りです。彼女の罪、そして我らの義憤と嘆きを忘れてはなりません。しかし、新しい世界を築くために感情よりも優先すべきことがあるはずです。我々は感情の赴くがまま暴れる動物ではありません。自らを律することが出来る人間なのです」
「……分かっている。オレは注意をしただけだ」
「ふふっ、そうですね。ご忠告、感謝致します」
そう言って、二人は別れた。イワンはサーバールームがある奥へ、アナスタシアは展望台へと繋がるドアへと向かった。
〈ミィル、アナスタシアを追うであります。そこにパスティがいます〉
〈そうだね。サーバーの破壊はカズに任せよう〉
無音声通話でカズに連絡を取った。
ぼくとヘレンは目標をパスティへと変更すること。今からアナスタシアがパスティと合流するから二人を纏めて叩くということ、サーバールームにはイワンが警備に行ったということを簡潔に伝えた。
〈カズ、相手もサーバールームを狙われることは承知みたいだ。何らかの対策はしている可能性はある。一人で、大丈夫かい〉
〈ハッ、男に心配されても嬉しかねえよ。それに今更大丈夫じゃねえって言えねえだろ〉
〈……それもそうだね〉
〈お前の方こそ大丈夫なのかよ〉
〈うん、ヘレンの単純な性能はパスティよりも上だから問題ないと思うよ。《電子操作》が厄介だけど、そこはぼくの援護でどうにか――〉
〈そうじゃねえ〉
カズはぼくの言葉を遮った。
〈お前の心の問題だ。前、自分がただの道具じゃねえかどうかって言ってたろ。パスティはまたお前をからかいにかかるぞ〉
〈ああ、そっちね。うん、それも大丈夫。同じ失敗はしないよ〉
〈……おーけー。信じよう。作戦が終わって一息ついたら呑みに行こうぜ。美味い焼鳥屋を知ってんだ。バイトの子も可愛くってな。ありゃあ、お前好みの女だぜ〉
〈ああ、楽しみにしておくよ。焼鳥の方をね〉
そこで会話を切って、ぼくらはそれぞれの目標に向かって動き始めた。
◇ ◇ ◇
アナスタシアの尾行の間、他のテロリストと出くわすことはなかった。彼女はぼくらに気付かず従業員通路を進んでいき、スロープ状の回廊へと出た。
この場所は観光客に開放されたフロアで、ぼくとヘレンは数日前にここに来ている。当然ながら、あの時のように他に客はおらず、周囲は静寂で満たされている。足音を立てずに回廊を上っていくアナスタシアの無防備な背中を追った。
回廊を上った先に神社の太鼓橋をモチーフとした廊下が現れた。
3Dホログラムで出来た桜の花弁が舞い散る中、パスティは赤い手摺に手を置いて、外の夜景を眺めていた。
「こんばんは、パスティさん。外の景色はどうでしょうか」
アナスタシアが彼女に話しかける。
今度は日本語だ。しかも、外国人特有の訛りもない。日本で育った人間の発音だ。
――日本人、なのか。
せめて顔を確認出来れば、室長へ該当する人物を探すように依頼出来るのに、彼女の背中を追っていたせいで未だに顔が見えない。
「真っ暗であまり綺麗ではないわ」
ウェーブのかかった金髪の少女が振り返える。
本来は3D広告が外に映っているのだが、それはテロリストによって止められているし、近くの人々は避難しているので高層ビルの窓から漏れる光はない。遠くにぼんやりと光がある程度だ。
「あらあら、それではどうして外を見ていたのですか」
パスティは何かを考えるように、瞼を閉じた。
それからゆっくりと開いて、再びその視界に夜の街を映す。
「――暗闇が何色かって考えていたの」
「面白いことを考えているのですね。かつて守ろうとした日本人がここにいて、今はその日本人を殺そうとしている。そんなことを考えて感傷に浸っているのかと思いました」
「あまり人種に関心はないわ。あなたたち人間はロシア人と日本人と区別しているようだけれど、わたしにとってはどちらも同じ人間。かつての戦争であなたたちの同志を殺したのも、その時はわたしが日本の兵器だったからよ。今はあなたたちロシア連邦保安庁の兵器なのだから、その敵である日本人を殺すことに罪悪感を覚えたりしないわ」
「その言葉、信じさせてもらいましょう」
ヘレンが無音声通話でいつ仕掛けるのか尋ねてきた。
ぼくはカズに連絡を取って、サーバールームにあとどれくらいで辿りつくか確認した。事を起こすのなら、出来るだけ同時のタイミングで行った方が良い。
五分後だとカズから返答があったので、ぼくらもそのタイミングで仕掛けることにした。
「それで……先ほど考えていたことの答えは出ましたか」
「何のことかしら」
「暗闇が何色か、ということです」
二人は他愛もない話をしている。
ぼくとしては何かロシア連邦保安庁やスカイツリーにいる他のテロリスト、もしくはパスティの動機などの情報を得たかったのだが、ピーピングトムのように覗き見をしているぼくは耳を傾けるしかない。
〈――ミィル、暗闇の色は黒ではないのですか〉
ヘレンが尋ねてくる。
〈黒、そうだね。それも正しい答えだと思うよ〉
〈他に色はないと思うでありますが……〉
〈まあ、二人の会話を聞いてみようじゃないか〉
ああ、ヨシカともこの話題をしたことがある。小さい頃のぼくはヘレンと同じ黒色だと答えていた。ヨシカはそれを聞いて、とても素直ね、この世の現実を屈託なく見ているわ、と言っていた。
少し小馬鹿にするような――優越感に浸るようなイントネーションだった。彼女はぼくがそう答えるだろうと期待していて、実際に黒だと答えたからだ。
ムッとしたぼくは突っかかるようにお前は何色だと思うんだと訊いた。
その時のヨシカの答えは――
「暗闇に色は存在しないわ」
パスティと同じ答えだった。
「どうしてそう思うのですか。目を閉じたら真っ暗、黒色でしょう」
アナスタシアはパスティに尋ねる。分からないから質問をした、というような口調ではなく、説明を促すような訊き方だ。
「――まず暗闇の定義をしたわ。暗闇は光の届かない空間のこと。わたしの頭の中にもそう記されているの。それから、物が見える原理。人間は網膜に入った光が視神経を通じて脳に届けられる。脳は光の情報を処理して認識をする。少女兵器も物が見える原理は似たようなものよ。
物を見るためには光が必要ということは分かったわよね。暗闇は光が無い世界。光が全くないなら知覚は出来ないわ。色の可視的な対称の否定、ということ」
「パスティさんは賢いのですね。何も見えないのなら、それは色すらないということなんですね。けれど、目を閉じたら黒く見える気がしますけれど」
「目を閉じるくらいでは完璧に光を遮断出来ないわ。それに、そうね。例えば、全盲の人。全く目が見えない人は何が見えていると思うかしら」
「全盲であれば、何も見えていないでしょう」
「その通りよ。彼らは外界から光を取り入れられない。だから、何も見えていないの。色さえも。それで、私のこのお洋服の色。これは何色かしら」
パスティは自身のロングケープを摘みあげてひらひらと揺らす。
「黒です」
「正解。あなたは私の服の色を知覚して、黒と答えたわ。けれど、光が全く届かない全盲の人に尋ねたら分からないって答えるはずよ。見えていないもの。だから、黒色と暗闇は存在そのものが違うの」
「それで、暗闇には色が存在しないってことなのですね。とても興味深いお話です」
ヘレンは感心したように頷いた。
「どうして、暗闇の色なんて考えていたのですか」
アナスタシアはぼくと同じ疑問を抱いたようで、パスティにその問いを投げかける。
「……外の暗い世界を見て、連想しただけよ」
「ふうん……。それは変です」
「何がかしら」
「パスティさん、貴女は暗闇に色はない――知覚の出来ない世界だと仰いました。そうであれば、外の明かりの消えた街並みは知覚出来るもの。色でいうと黒になります。貴女が暗闇について考えていたのは、他の理由があったからではありませんか」
パスティは訝しげにアナスタシアを見つめるだけで何も答えなかった。
「言い当ててあげましょう。貴女は――」
一息置いて、彼女は告げた。
「――『死』について考えていたのではないでしょうか。死の先に何があるのか。きっと、貴女は何もないと考えました。感覚器官は肉体の――貴女は義体ですか。その破壊により失われていることになる。そこで暗闇を想起した。暗闇は視の感覚器官の欠如。まずはそこから考えてみようと思ったのでしょう」
「随分と自信満々に言うのね。仮にそうだとして、何か問題があるかしら。わたしは無人兵器削減条約から逃げ出した脱走兵器で追われているし、いつここに特殊部隊が突入を仕掛けてもおかしくない。人間でいう『死』を考えたとしても不思議ではないと思うのだけれど」
「ええ、そうですね。何も、変ではありませんよ」
アナスタシアの声には慈愛のようなものを感じる。相手の全てを許容し、受け入れるような、子供のわがままを広い心で迎え入れる母親のような。
声には人の感情を刺激する力がある。
もちろん、話す内容、順番、文法、語彙、態度、あらゆるものが作用してのことだ。例えば、人心掌握に長けたと言われるヒトラーは演説で抑揚を意識していた。静かに語りかけるように話し始め、重要な点では声を大きくはっきりとすることで印象付けさせたのだ。
彼女の声にも似たような傾向がある。
諜報員たるもの、他人に自分のことを信頼させることは当たり前に出来なければならないものだけど、彼女の才能は突出している。
ぼくもアナスタシアがロシア連邦保安庁というテロリストではなく、ただの一般人ではないか。致し方ない事情があって、本当は善人なのではないかとも思いたくなってしまう。
〈――五分たった。ヘレン、仕掛けるよ〉
〈了解であります〉
カズに連絡を取ったが返答がなかった。最悪のことを考えてしまいたくなるが、今は自分のことを気にかけよう。
コートの内からデガード銃を取り出して、銃口をパスティへと向ける。
ヘレンにはぼくが発砲後、アナスタシアを狙うように指示をした。
彼女が魔声であろうが、善人であろうが、関係ない。ぼくは自分の仕事を果たすまでだ。
――銃声が響いた。
ぼくはまだ引き金を絞っていない。
音は背後から。
「くそっ、別のテロリストか――ッ」
振り返ると数分前にぼくらが上ってきた回廊に二人組の男がいた。構えられたAK74Mの銃口から硝煙が出ている。
「ミィル――ッ」
ヘレンは後ろから迫っていたテロリストに気付いたのだろう。最初に発砲されたと思われる銃弾は彼女が斬ってくれたようだ。男たちに向かって疾走した。
彼らから放たれた銃弾をヘレンが難なく斬り落とす。
あの二人の相手はヘレンに任せて、ぼくはアナスタシアとパスティだ。
デガード銃を構えなおすのと、アナスタシアが振り向きざまに自動式拳銃をぼくに向けるのは同時だった。
彼女の顔がぼくに向けられる。
「き、きみは……」
訛りのあるロシア語。濡れ羽色のように艶やかな黒の長髪。流暢な日本語。
――そして、どこかで聞いたことのあるような声。
彼女と最期に会ったのは、ぼくがロシアに旅立つ空港のロビーだった。それから大戦前、大戦中、それぞれロシアと日本で諜報活動を行っていた。
戦後、日本に戻ってきたぼくは彼女の死を聞いた。国内に潜伏するロシア連邦保安庁を追っていて、逆に殺されてしまったそうだ。
彼女はこの世のどこにもいない。
あの日、ぼくに人間は道具と同じだと語った彼女と話すことはもう永遠にない。
そう思っていた。
「――ヨシカ」
彼女の名を呼ぶ。
ぼくに銃を向けるヨシカは子供の頃と変わらない笑みを返した。