悪夢②
その日、また悪夢を見た。
赤の広場の前にある道路には無数の屍体が転がっていた。銃弾で下顎を粉々に吹き飛ばされた人。腹部からてかてかとピンク色に光る腸を飛び出させている人。全身を炎で燃やされ黒焦げの状態で男か女かすら分からないソレ。
「おっと……」
何かカーペットのようなものを踏んでしまったようで、革靴が滑って危うく転びそうになった。体勢を整えようと一歩踏み出すと、ぬちゃあとゼリーのような感触が革靴の下にあった。
人の顔だった。
両方の眼窩から飛び出した目玉がぼくを見つめていた。憎悪を込めた目で、じっとこちらを睨めつける。
「ああ、すまない。さっき踏んでたのはきみの皮膚か」
カーペットだと思っていたのはこの男の人皮だった。どうやら手榴弾か何かの爆発物で吹き飛ばされて上半身の皮と頭だけになっていたようだ。下半身を探してみたけど、あちらこちらに四肢が散乱していて、どれがこの男のものかなんか判別がつかない。
真っ赤に染まった雪の上を歩いて行く。
――どこに。
分からない。
ただぼくは歩き続けた。意味もなく、目的もなく。ただただ足を動かした。
途中、身体が折れ曲がり両足の脛骨が飛び出た男がいた。骨は血で染まった雪よりも白く、綺麗だった。ぼくが隣を通り過ぎようとすると、屍体はエクソシストのリーガンのようにブリッジをしながら追いかけてきた。
「どうしてこんなことを起こした」
逆さになった頭部の口元からねばねばとした血を垂らしながら問いかけてくる。
「仕事だから」
ぼくが短く答えると、男は動きを止めて、ただの屍体に戻った。
後に血の月曜日事件と呼ばれる、この軍隊によるデモ活動の鎮圧行為では一万人の死者を出したとされている。反対派はこの事件を受けて更に活動が過激になった。ロシアは日本との戦争だけでなく、自国に住む同志からの反乱の鎮圧にも目を向けなければならなくなったのだ。それが、モスクワでのぼくの主な仕事であった。
歩く。歩く。歩き続ける。
やがて、死者の山へと辿りついた。
赤の広場の中央には、乱雑に積み上げられた屍体の山があった。その頂上にはヨシカがいた。足をぶらぶら揺らしながら、ぼくに向かって微笑んだ。
「アーヴィングは他人の有用性を証明するために脱走していたのね」
「ああ、そうだね」
「結局、あの子も仕組まれたプログラム――道具という枠から外れることは逃れていなかった。どう、残念かしら」
「いや、そうでもない」
「答えを見つけたってことかしら」
首を傾げるヨシカ。
「答えは見つけていない。まだ、ぼくは自分のことがただの道具じゃないかって疑ってる。けれど、何かはまだ分からないけど、その答えに近づけた気がするんだ」
「そう。それは良かったわ」
ヨシカは屍体の山から飛び降りる。
ぼくと同じ地に並んで、歩きながら話しましょうと言った。
「ねえ、昔、わたしが自由とは何かって話したことは覚えてるかしら」
「うん、覚えてるよ」
自由とは好き勝手にすることでなく、枠の中で選択できる行為を選ぶこと。
例えば、サッカーにはルールという枠がある。選手は十一人、キーパー以外はボールに手を触れてはいけない、ゴールラインを超えると一点を獲得するとかだ。
「十一人がどこのポジションでどういった風に動くか、いつパスを出すか、シュートを撃つタイミングと方法。それを選手が決めること、これが自由だ」
「自由を好き勝手することって勘違いしちゃうと、ラグビーみたいにボールを脇に抱えて走っちゃったり、選手を二十人くらい出しちゃったり、相手を殴り殺しちゃったり。そんなのは自由じゃなくて、ただの無法者」
「そして、それはスポーツだけではなく、この社会も同じこと。社会は法律や規範、文化や常識といった枠がある。人はその中で動く」
ヨシカは窓ガラスが弾け飛んで開放的になったカフェを指差した。ぼくらは店内に入り、席に着いた。注文を取るはずの店員は頭蓋骨をぱっくりと開けて床で寝ている。
「そうね。枠から外れた人間はこうなるもの」
テーブルの上に置かれていた白無地のパズルからピースを一つ取り出して、うつ伏せに倒れている店員へと投げた。血で白いピースが赤く濡れていく。
「……アーヴィングは決して自分を縛る《有用性の証明》の枠から外れなかった。ただ解釈を変えただけなんだ」
「パスティはどうかしらね。アーヴィングと同じように、誰かの有用性を国に証明しようとしているのかしら」
「それは分からない」
解釈を変えること。これをアーヴィングに教えたのはパスティだ。彼女なら別の解釈を用いている可能性もある。
「どちらにせよ、ぼくの仕事は変わらない。脱走した少女兵器は二体。残りは一体だ」
「頑張ってね。わたしはいつでもあなたを見ているから」
席を立ってヨシカは店の外へと向かう。出入り口の扉に手をかけたところでぼくは呼び止めた。
「きみは……今、どこにいるんだ」
「××の頭の中。わたしはあなたの夢に巣食う亡霊よ。今、話しているわたしはあなたの記憶から生み出された架空の存在でしかないわ」
「じゃあ、質問を変えよう。本当のきみはどこにいるんだ」
「ふふっ……。本当のわたしを探してみなさい」
そう言って、ヨシカは店を出て行った。
店内に一人残されたぼくは立ちあがって、先ほどヨシカが捨てたピースを拾い上げた。ねっとりと血がこびりついたそれをパズルの枠にはめ込んだ。
ピースは全て揃っていない。
まだぽつぽつと虫食い穴のように空きがあった。
残りのピースは一体どこにあるのだろう。