ナイトクラブ
ヘレンのリクエストでハンバーガーチェーン店で晩御飯を済ませてナイトクラブ近くの路地でカズを待った。
空は冷ややかな薄暗闇が満ちて、地上にはネオンの光が地を照らしている。きらびやかでもあるが目が痛く、掲げられているネオンの文字も品がない。
冷たい風がぼくたちの間を通り抜けていった。
「ミィルと初めて会ったのもこの辺りでありますな」
「そうだね」
「あのロシア人はロシア連邦保安庁の残党だと記録しているでありますが、彼らは何をしようとしていたでありますか」
「同志を日本に殺された報復と前政権の復興、らしいよ」
戦後でロシアの政治体制は変化した。戦前に比べて大統領の力が弱くなっていたり、実質的に内閣の首相が政治を行うようになっていたりだとか。戦中の第一党だった統一ロシアは解散しており、裏で国家を動かしていたとされているロシア連邦保安庁も解体された。
しかし、ナチス党の崩壊後にナチズムを受け継ぐ団体やアメリカでロックウェルがアメリカ・ナチ党を創設しているのと同じように、完全に消滅したわけではない。
現在、都内で活動している残党がいて政府は手を焼いている。
「ふうむ……」
「まあ、今は関係ない話だけどね。問題はあのナイトクラブなんだけど、実はあそこでは電子ドラックが密売されているんだ」
「え、マジでありますか」
「うん。警察もマークしてるけど、法整備が追いついてなくてね。検挙には至ってないみたいなんだ」
「というか、電子ドラッグって何でありますか?」
「簡単に言えば麻薬の電子版。ドーパミンを過剰消費させたり、トランスポーターの機能を抑えてハイにさせたり。見た目は絆創膏で不織布の下に小さなチップが隠されてる。これが微弱な電波を発して頭の中の拡張チップに作用するんだ。体内摂取しなくてもいいし、見た目はただの絆創膏だから持ち歩いても怪しまれない」
「はあ……そんなものが……」
「手崎ユウマと関係あるかは分からないけどね。まあ、ただのナンパ箱じゃないってこと」
クラブが入っているビルを見やる。一見、周囲と建物と何の変わり映えしないコンクリートの箱だ。四階建てて、クラブは地下の一階にある。怪しい雰囲気はない。
開店時間が迫ろうとする時にカズはやって来た。
「よお」
「やあ。そっちはどうだった」
「手崎ユウマって男の住所は分かった。で、そのマンションの部屋まで行ったんだが、出かけてるみてえで留守だった。まあ、一般的な家庭用電子ロックだったんでこじ開けて入った」
ヘレンが犯罪であります、と小声で呟いた。
「何か分かった」
「アーヴィングがこいつに何の用があるかはまでは分からんかった。一般的な男の部屋だったぜ。これを除いたらな」
カズはジャケットの中からある物を取り出した。
「電子ドラックか……」
「ミィルが先ほど言っていたやつでありますか?」
「うん、そうだよ」
絆創膏のように見えるが、よく見ると不織布の下には薄らとチップが見える。
「数量的に自分で使ってるってより、売ってるみてえだ。まあ、大元は別の団体でこいつは使い勝手のいいパシリみてえなもんだろうがよ」
「カズ、ちなみにマルガレータの中では麻薬の密売がされてる」
「ほうん、手崎は売人の一人ってことか」
特に驚いた様子もなくカズは頷いた。
「で、どうすんだ。これから先の作戦は」
「声をかけようかと思ったんだけど、やめておこう。変に警戒されて帰られたら面倒だ」
ぼくらの目標は少女兵器のアーヴィングであって、元三等海曹の男じゃない。彼が麻薬を売っていようが、殺されようが関係のない話だ。魚を釣る撒き餌としての役割を果たして貰おう。
「じゃあ、手筈通りってことだな」
ぼくとヘレンはクラブの中で手崎を見張りつつ、アーヴィングがやって来るのを待つ。カズには外から入り口を見張ってもらう。
「最悪、クラブ内で戦闘が発生するかもしれないから、各方面の情報規制の連絡もお願いするね」
「りょーかい。おれはあそこのビルにいるから動きがあったら連絡しろ」
カズはやや離れた位置にあるビルを指差す。あそこなら入り口も見張れて狙撃の障害物も少ない。絶好の狙撃ポイントだ。
手を振ってカズは移動を開始した。
ぼくは自分の武器を入念に確認し始めた。Cz75の弾倉の中の銃弾、薬室に初弾を送り込む、安全装置の解除、サプレッサーの装着具合。何度もやった行為だ。不思議なことに心が穏やかな気持ちになってくる。
「まあ、使うとすればこっちか……」
コートの中のホルスターにCz75を隠す。
別のホルスターからデガード銃を取り出した。
対少女兵器用の中折式の特殊自動式拳銃。無骨で飾り気のない黒い鉄の塊。薬室には既に一発の銃弾が込められている。残弾数は五発。少女兵器の装甲すらも打ち破る威力。人間に使えばオーバーキルもいいとこだ。こんな御大層なものを使わなくても、二十グラムの小さい銃弾で人は死ぬ。
「ああ、そうだ。受付ではヘレンはぼくの愛人という役をしておいてね」
「どうしてでありますか」
「ナイトクラブに未成年は入れない決まりになっているんだ」
昔は顔写真付きの身分証明書の提示まで義務付けられていたそうだ。
未成年娼婦が街を歩くようになってからは取り締まりが緩くなって、そこまでは行われていない。あからさまな少女が入ろうとすると拒否される程度だ。
「愛人のふりをしていると入れるのでありますか」
「男が女を連れてきてるんだ。そこで受付から帰れなんて言われたら男は恥をかかされる。かっこうつけたい女の前でね。男はキレるわけだ」
「はあ……入れないところに入ろうとする方が悪いと思うでありますが……」
「そういう人もいるってこと。ここはそういう街なんだ。店もクレームを起こされると面倒だからね。見て見ぬふりをして通らせる」
「とりあえず、了解であります」
デガード銃をコートの中に隠して、ぼくはヘレンを抱き寄せた。周りにこいつはおれの女だと見せつけるように、ナイトクラブへと向かって歩き出した。
地下に降りる階段の前で仮面を被った人物がいた。仮面はAのアルファベットを丸で囲ったシンプルなもの。無政府主義の象徴だ。
まったく、若い人が好みそうだ。
受付が壁に張られたポスターを指差す。手書きの文字で入場料は四千円とある。
決算用の認証機器は置かれていない。五千円札と千円札三枚を机の上に置いて階段を降りていった。地下一階の扉を開けると、騒々しい音楽とディスコボールの七色の光がぼくらを迎え入れてくれた。
開店してすぐのため、ホールには男が六名、女が一名と少ない。男たちはぼくらを見て、一瞬で興味をなくした。男であるぼくは眼中にないだろうし、見た目は少女に見えるヘレンもぼくに抱き寄せられているのでナンパ対象にはならない。
ホールは縦長で奥にはDJのステージ、中央にはバーカウンター、下部には白い小さな丸テーブルと椅子が置かれている。その奥にはVIPルームがあり、ソファーと黒いガラステーブルが設置されている。麻薬の売買もあそこで行われているのだろう。手崎も見当たらないので、ぼくらは入り口が見える位置にある椅子に腰を下ろした。
「何か飲み物でも頼んでこようか」
「あ、え、は、はいであります」
俯いて頬を紅く染めて、自分のポニーテールの先っぽを弄っている。
ひょっとしたら間違っているかもしれないので確認しておこう。
「どうかしたの」
「ドキドキしたであります……」
「呼び止められないかって」
「ミィルが抱きしめるので……」
予想は当たっていた。
パスティとアーヴィングに同じことをしても彼女たちが照れるとは思えないので、ヘレン独自の個性というものなのだろう。
「ごめんね、そこまで気が回らなかった」
「任務なので、やることはしっかりやるでありますので気にしないで下さい」
カウンターでぼくはキリンビールをヘレンにはオレンジジュースを買ってあげた。テーブルに戻るとヘレンが不満そうに口を尖らせた。
「自分はワインと言ったであります」
「さすがにここで酔いつぶれられたら困るからね」
「酔わないように設定します」
「そんなアルコール美味しくないよ」
「うう……」
お客はぼくらが入ってきてから一人も来ていない。通常のクラブであれば日付が変わる時間帯から増えていき、三時くらいにはだんだんと人が帰っていく。
「張り込みというと刑事ぽくてカッコいいですが暇であります」
ヘレンのグラスの中の氷が溶けて揺れた。おかわりをするか尋ねるとヘレンは首を横に振った。ビールをちびちび飲みながらホールの真ん中でブレイクダンスを踊っているのを眺めた。もちろん、入り口には目を光らせてだ。
「ミィル、何か面白い話をしてください」
「うーん、そうだね……」
滅茶苦茶な話題の振られ方をされたけど、話の種はいくつも持っている。そうしなければ、多種多様な人物からは情報を引き出したり出来ない。
「ぼくがスパイ養成所にいたのは知ってるよね」
「はい。ミィルと会う前に小坪室長に簡単なプロフィールは頂いていたので」
「その時の話なんだけど、ある日の朝、校長先生がぼくらの学年の生徒は体育館に集まるよう放送が流れたんだ。けど、いくら待っても校長先生はやってこない。十分くらい待ったところで主任の先生がやって来て校長先生は急な用事が出来たから午前中は自由に遊びに行っていいって言われた。それで、ぼくとカズは近くのゲームセンターに行ったんだ」
「ゲームセンターで何か起こったのでありますか?」
「いや、特に面白いことはなかったよ。普通に二人でゲームをして学校に帰ってきた。教室で次の授業を待っていると、先生がやって来て作文用紙を置いて言ったんだ。午前中の行動を書けって。書き終った順番で一人一人が校長室に呼ばれた」
――最初に何のゲームをした?
八人でネット対戦するタイプのレースゲームです。
――何の車を運転した?
インプレッサです。
――何回プレイした?
五、六回くらいです。
――五か? 六か? どっちだ。
……五です。
――五回のプレイでの順位は?
二位、三位。……それから三位、一位、五位。
――一人でプレイしていたのか?
カズと一緒でした。
――カズの順位は?
一位。四位。…………。三回目と四回目は覚えていません。五回目は二位でした。
――二回目のレースで走っていた車種を一位から答えろ。
「……ていう感じで午前中の行動を事細かに質問された」
合計でいくら使っただとか、ホッケーゲームでのポイント差はとか、音ゲーでプレイした曲はなんだとか、シューティングゲームでダメージをくらった場面だとか。
「午前中の自由行動も訓練だったってことでありますか」
「そうだったんだ。ぼくは半分も正確に答えられなかったよ。諜報には情報整理能力と記憶力が求められる。その上で他人に伝えるときに起こる齟齬をなくさなければならないって教えられた」
人間の記憶は意外といい加減だ。大人になったときに同級生との昔話で食い違いが起きるし、昨日の晩御飯は何だと訊かれて即答出来る人間は意外と少ない。
「少女兵器の人間でいう記憶はどうなってるんだい」
「全て記録されているであります。ミィルがパスティとアーヴィングの過去の記録を覗いたのがそうであります」
「ということは、忘れたりすることはないんだ」
「人間でいう思い出したり、情報を整理する時間には個体差がありますが……」
ヘレンにも同じ質問をしてみたかったけど、人間のように忘れないなら意味がないか。
「いや……そうでもないのか……」
ヘレンと懇親会をした次の日、彼女は自分が話した内容をほとんど覚えていなかった。
「ねえ、ぼくの部屋でピザを食べたことは覚えているよね」
「記録しているであります」
「ピザを食べた順番は覚えてるかな」
ちょっと待ってください、とヘレンは頭を抱える。
「うぐぐ……アルコールでAIを酔わせてしまったので上手く記録されていないであります……」
「最初の一個くらいは覚えてるんじゃないかな」
「ゴルゴンゾーラ……違うであります……ボスカイオ、マルゲリータ、バンビーノ……」
最後の一つは頼んですらいない。
「ミィルは覚えているのでありますか」
「もちろん。きみはマルゲリータ、ゴルゴンゾーラ、ディアボラ、ボスカイオーラ、ペスカトーレの順番で食べてるよ」
「おお……」
「普通の人ならヘレンと同じ感じになったと思うよ。人間の記憶がいかにいい加減か分かってもらえたかな」
ヘレンはこくこくと感心したように頷いた。
「面白い話は出来たかな」
「とても面白かったであります」
ぐっと身を乗り出してくる。次の話を期待しているのか、大きな青い瞳がぼくを覗きこんだ。
どうしてここにいるのか忘れないでね、と前置きを付け加えて別の話を始めた。