第九五話 バルコニーよじ登り男
人工島南西部にあるリゾート地区にてスポーツドリンクを飲み干す男――ウィルがいた。
「い、息が……ハァハァ……うまく、できない」
空になったペットボトルを片手に多量の汗を掻き、息切れしていた。
ウィルとリエルはルーデリカ家に協力し、グロウディスク家の目的と動向を探ることにし、行動を起こしていた。リエルは霊体化してグロウディスク家の屋敷に潜入し、ウィルは下校時間になると、リゾート地区まで移動していた。
「ふぅ……よし!」
と呟き、ベルリックが住んでいるホテルへと足を運ぶ。彼はここに来るまで魔力で筋力強化を施し、さらに瞬発力を向上させていた。学院からリゾート地区まで直線距離で約二キロ、徒歩だと三〇分以上かかる程度に離れている。しかし、ウィルがリゾート地区に到達するまで一分三〇秒も経っていない。
(時速四〇キロといったところかな)
移動にかかった時間から自身の速さを分析しつつ、街道の脇に設置されたゴミ箱に空のペットボトルを捨てる。ルーデリカ家の自警団とその他大勢に追われているときも同程度の速度で走っていたが前回と違って足腰がふらつくことなく、しっかりと歩けていた。日頃から魔力を使うことで身体が適応し始めていた。
(ここだね。ベルリックが帰ってくる前に早く終わらせよう)
三一階建てのホテルの前に立つ。
人工島で最も宿泊代が高いホテル『オーシャン・パレス』はその名の通り、海が近くオーシャンビューを楽しめるのを売りにしている。黒と白を基調としたモダン風のデザイナーズホテルとなっており、円状の形をしていた。エントランス側と中央部分にはフロント、ラウンジ、パーティ用の部屋があるだけではなく、サロンやドラッグストアなど利用客が快適に過ごせるような店舗が集まっていた。また、ホテルの外側に配置されている客室のバルコニーは景観を楽しませるために広く作り、ソファやテーブルがあるだけではなく小規模のプールが設置されている。そして、三一階の広大なフロア丸ごと一つの客室となっており、そこにベルリックが泊まっていた。
(正面から入ってベルリックの部屋に入れるわけがないよね)
ホテルの裏に回り込み、ベルリックが住処としている部屋を見上げる。
次いで周辺をきょろきょろと見渡し人がいないのを確認すると、
(筋力強化、瞬発力向上)
魔力で身体の性能を向上させた。
「よっと!」
右足で地面を蹴り二階のバルコニーの柵にひとっ飛びする。
手すりを掴み、足を柵の下の隙間に置く。
「よし、いける今の僕なら!」
同じように三階のバルコニーへと飛びたいが足の踏み場が無いので手すりに足を乗せるもバランス感覚が上手くとれない、
「うわうわっ落ちる!」
手を広げてなんとかバランスをとろうとするもバタついていた。
(平衡感覚に関わる器官と神経を魔力で強化すればきっと)
神経の伝達速度を向上させつつ、三半規管等の器官を強化すると、次第にバランスが安定する。
「魔力の力ってすげー」
小並感すぎる感想を漏らしつつカエルのようにピョンピョンと三階……四階……五階のバルコニーへと移動する。そして、テンポよく二〇階のバルコニーに到達すると怖いものみたさで肩越しに下方を見やる。
「ひえぇぇ……絶対に落ちたくない」
高さ約六〇メートル。落ちれば命の保証はないが、今のウィルは連日連夜、リエルから魔力を身体の表面に纏う術を学んでいるため命を落とすことはない。しかし、高所からの落下に対してどの程度有効かは分からないので無暗に飛び降りることはしないように決めていた。仮に魔力を纏って地上に飛び降りたとしても、ウィルの未熟なコントロールではいずれかの部位が大きく損傷してしまう。
(落ちたら、泣きながらリエルの名前を呼んで来てもらうしかないよね)
そう決心するウィルだった。
――二五階に到達。高さ約七五メートル。
ウィルは視界の端で煌めく海が気になっていた。タダで絶景を見るのも気が引けたが好奇心は止められず、バルコニーの内側に飛び移る。
「おお」
感嘆するウィル。
両肘を柵の手すりに置いて、景色を眺める。
果てしなく続く海に、くっきりと見える地平線。
あらためて星が丸いことを実感していた。
「夏季休暇中こういうところでのんびりしたいな」
我が物顔でバルコニー内に置かれている木製のロッキングチェアに座る。
「本当にいいねここ」
しまいにはロッキングチェアを揺らしながら鼻歌鳴らす。
不法侵入したうえにお金も払わず景色を楽しむという暴挙。
「そうだせっかくだから写真撮ってリエルにも見せよう」
図々しいことにウィルは立ち上がってスマートフォンで景色を撮ろうとしていた。
(この画角が良い! 広大な海! 果てに見える地平線! そして、沈もうとしている太陽。昼から夕方、夕方から夜、移り変わりの狭間がこの写真に収まる。朝と夜にはない、今この瞬間にしか見られない表情を撮らない選択肢、この僕にはない!)
彼は、一丁前に写真家になったつもりなのだろうか。真面目な顔をしながら詩的なことを考えていた。
そして、シャッターボタンを押そうとするが――
「――ふえっ⁉」
背後から素っ頓狂な声が聞こえた。
ウィルは振り向く。
「「…………」」
バスローブを着た貴婦人がいた。
お互い見合って固まったあと、
「「ぎゃああああああああああああああああああああ‼‼‼」」
悲鳴を上げていた。
「なんですかあなた‼ 誰か来て‼ わたくしの美貌に目が眩んだ賊がいるううううううううううう‼」
貴婦人は大声を上げていた。
「ジョセフィーヌ様‼」
「どうした! ジョセフィーヌ・エメラルド・クリスタル・フィールド・フィーヌ・サラダボウル・ボウリング三世!」
「名前ながっ!」
貴婦人に仕える給仕と雇われた市警察がやってくる。
名前の長さを指摘するウィルだったがそんなこと気にしてる場合じゃないので、
「とうっ!」
二五階から飛び降ると、貴婦人たちは慌てていた。自死を選んだと思ったのだ。
一方、ウィルは二四階……二三階……二二階のバルコニーへと飛び移っていた。
(ここ確か空いてる部屋だったよね)
空室である二一階のバルコニーで身を潜めることにした。




