終電を待ちわびて
まだ終わっていなかったが、時計を見ると十一時になりそうなので帰ることにした。そろそろ電車がなくなる時間帯で、そうなっては困る。
帰り支度をし、急ぎ足で駅に向かうと、たったいま電車が出たばかりだった。つぎが最終だ。ついてないことに、それまで四十分ほどの間があった。
することもないし、ホームに入ってベンチに座った。反対側のホームにも、まわりを見ても、誰もいない。細長く伸びたホームと黄色の線、それにいくつかの空いたベンチが、蛍光灯に白々しく照らされているのばかりが目に映る。静まり返った、がらんとした空間が周囲に広がっている。
こうやって、深夜のホームにひとりでいると、なにやら自分が異次元、トワイライトゾーンにでも迷い込んだかのような気になってくる。いつのまにか別の世界に取り込まれ、二度と戻ってこれない……。
なにバカなことを考えているんだと、トワイライトゾーンのテーマ曲を頭の中でハミングする。と、お誂え向きみたいに隣に誰かが座ってきた。
ベンチはいくつもあるのに、なぜわざわざ隣にと顔を向けた。三十歳ぐらいの知らない男だった。くたびれたグレイのスーツを着、穏やかな顔に人懐こい表情を浮かべている。足元は白のスニーカーで、ピエロの面を被ってないぶんましに思えた。男が口を開いた。
「あなたも終電ですか?」
見ればわかるだろうと思いつつ、うなずいてみせた。
男はにやっと笑みを作り、それまでベンチの背にもたせかけていた上体を前に出して両手を組んだ。
「それじゃあ、待つ間、怖い話を聞きたくないですか?」
え? と思わず口から出るが、それに頓着することなく、男はしゃべりだした。
「駅男をご存じですか。四年ばかり前のことです。この近くのマンションで陰惨な事件があったのは覚えられていますか。キレてしまった男が、妻と子ども二人を殺害し、浴室で解体した事件です。三人の手足や胴体が一緒くたになって浴槽に入れてあり、妻の首が玄関の花瓶の横で、子どもの首が米櫃の中から発見されたアレです」
こういう人物とは関わり合いにならないほうがいい。ただでさえ疲れているのに、そんな話をされたのではたまらない。相手をせず、目を閉じ、聞いているのか寝ているのかわからないふりをすることにした。
それに、首が花瓶とか米櫃とか、そういうことをマスコミが報道するとは思えない。なのに、どうしてそれを知っているんだ。勝手な想像か。それならそれで、三人分の手足が入った浴槽が、どれほど酸鼻極まりないものか想像できているのだろうか。血まみれのタイル、吐き気をもよおす悪臭、飛び交うハエ。
男の声が聞こえる。
「なぜそんなことをしたのか動機は釈然としません。一家はとても幸せそうだったと……ストレスが蓄積し、それが積もりに積もって……でも、あれだけの残忍な行為をするには、先天的な殺人嗜好の要素が……凶器の指紋や現場の状況から男が犯人……狂ってしまった……なにかがとり憑いた……ただ、ふだん通りに出勤していたと」
どうしたら人を殺したりできるのか、簡単にわかるものではない。当人ですらわかってなかったりするのだ。ストレスとは便利な言葉だ。なんでもかんでもストレスにすればすむ。
男はひとりでしゃべり続けている。
「……そんなことより一番の問題は、当の男がいまだに捕まっておらず……いや、行方がわかっていないというより、生きているのか死んでいるのかも定かで……事件が発覚した当初から、男の姿はありませんでした。……まるで消えたようにいなくなっているんです。事件から四年が経ち……男は電車に飛び込んで自殺したとか……じつは男も被害者で、すでに殺されていて、犯人はべつにいる……そういった噂の一つに、男が駅構内に隠れ棲んでいるというのが……駅には地下通路があって、それで駅同士がつながっていて……四年の間、駅を転々としながら……甦って、いまだに殺戮を続けている……先週A駅で犬や猫の死骸が入ったビニール袋が…………食べたあとが……駅と駅をさまよい歩き……駅男とかステーションマンと呼ばれだして……」
綿々と男はしゃべり続けている。
どういうつもりなんだ。終電がくるまでこのまましゃべり続ける気なのか。
四年前に妻子を惨殺したイカレオトコが駅に棲みつき、無差別殺人鬼としていまだに殺人を繰り返している。それが男の話のあらましだった。この話の行き着く先、いや、終着駅にたとえるほうがいいかな、それはどうなるんだろう。
殺人鬼と化した男が、駅の乗客を一人また一人と、世間に知られることなく殺害していると話をもっていき、突然そこで聞いている側を指差し「つぎはお前だ!」と絶叫するパターンだろうか。いやいや。女子大生や女子高生がこの場にいるわけでもないし、それはないな。彼女たちがいないと、「お前だ!」が盛り上がらない。
もしこの状況が小説だったとしたら、話している男がじつは殺人鬼だったとするのが王道だろう。主人公は、この男が殺人鬼じゃないかと疑いだし、その様子に男が、「どうしました? 気分でも悪いのですか」と微笑みながら、しかしその目は笑っておらず、じっと主人公の首すじに向けられている。そんなストーリーラインか。結末をどうするかが難問だが、コツは、一度ほっとさせすぐに奈落の底に落とすというやり方だ。主人公が、やはり殺人鬼ではなかった、自分の妄想だったと思ったすぐあとに、あっさり殺してしまうか、間接的に男が殺人鬼だったのではと匂わすのだ。男の袖についた生乾きの血痕とか、袖でなく靴でもいいなあ、白のスニーカーについた血のはねた跡とか。ナイフ系もいい。男の上着の内側に、大型の肉切り包丁があるのがチラッと見えるとか。そういった小道具や、もしくは男の仕草や表情などに殺人鬼らしさを演出して話を終わりにするわけだ。
男が殺人鬼では平凡だと思うなら、じつは話を聞いている主人公が殺人鬼だったという結末もある。意外性を狙ったやり方で、ちょっと見は新しく見えるが、これもむかしからある、よくある手法だ。ヒッチハイクもので、乗せた不気味な男のほうでなく、運転している主人公が殺人鬼だったというのがいい例だ。怪談で、主人公がじつは幽霊だったというオチのも同系だ。効果を高めるために、一人称形式にするのもむかしからのやり方で、すでに使いつくされている。話している不審な男を殺人鬼と思わせながら、その裏で、語り手である主人公をどこにでもいる会社員っぽく描きつつ、そうじゃないかもしれない可能性を残した書き方をするのだ。長編ではかなりむずかしいが、短編、いわんやショートショートなら容易にできる。「まだ終わっていなかった」は仕事のことでなく、死体をバラバラにしている途中のことで、「帰り支度」は、浴室の血をホースで洗い流し、電動ノコやらを片付けることだったりとかにし、主人公の心理描写なども、殺人鬼としても通用するものにしておけばいい。そして最後に、鼻高々に叙述トリック宣言、あるいは意味がわかると怖い話宣言をしてみせる。最近、そんなのが多くないか。あー、やだやだ。
終電はまだか。そろそろ着いてもいいころだ。こんなくだらない話にいつまでつき合えばいいんだ。
不意に、男が黙りこくっているのに気づいた。
瞼を開いて見ると、男は正面を向き、両手を両の腿の上にのせ、身体を斜めに真っ直ぐにした姿勢で座っている。目を閉じ、若干首がうなだれ、様子が変だ。よく見ると、顔色が悪く、頭が首の部分から少しずつ前にせり出している。と、バランスがとれなくなったようにして頭が首からずれ落ち、胸から腹へと転がり、ごろごろと両脚を経由し、履いているスニーカにぶつかって跳ね、足元へと転がってきた。そこまでを目で追い、男の白のスニーカが血で汚れ、首からは鮮血があふれ、それがベンチを汚しているのを見た。
耳の中で悲鳴が聞こえた。喉が引きつり、叫んでいるのは自分だった。立とうするが下肢にまったく力が入らない。腰が抜けるなんて、ほんとうにあるんだ。歯が震え、涙と鼻水が出、悲鳴の出しすぎで喉がぜいぜいと鳴り過呼吸だ。胸に手をやると、心臓がバクバクしている。掌や服が男の血で染まっていた。こんな格好で、終電に乗せてもらえるだろうか。
血溜まりがあり、履き古したビジネスシューズの両足が見えた。
脚に沿って視線を上げると、手を伸ばせば届くところに、長身の男がぬうっと立っていた。手足が長く、透明のレインコートを着、右手には赤く濡れた牛刀をさげている。
咄嗟に目を背けた。見ないほうがいいものだった。歯の震えがいっそうひどくなる。線路の向こうを見つめた。終電はまだ来そうにもない。なにごともなかったかのように振舞おうとするがうまくいかない。口笛を吹こうとするが、それもうまくできない。涙がとめどなく流れる。早く来てくれ。お願いだから、早く。こんなにも電車の到着が待ち遠しいのは、生まれて初めてだ。頭の奥では、トワイライトゾーンのテーマが鳴り響いている。
レインコートの男が動いた。正面に立ち、体を折り曲げ顔を近づけてきた。
こちらの目を見て、男が言った。地の底からの声だった……。
「お客さん、お客さん……」
体をゆすられて目が覚めた。目の前に、帽子と白手袋の駅員がいる。
「ここで寝られたら困ります。どうか移動してください。終電は、もう行ってしまいましたよ」
待っている間に、いつのまにかベンチで横になり眠ってしまったらしい。
終電を逃がしたことより、夢でよかったという思いのほうが強かった。
体を起こし、ハンカチで首すじの汗を拭くのを見て駅員が言った。
「うなされてましたけど、怖い夢でも見られたのですか?」
「ええ。あなたに起こしてもらえて、命拾いしましたよ」
駅員は帽子のひさしをクイッと上げて笑むと、目を剝いて、顔を突き出してきた。
「じゃあ、もっと怖い話をしてやろうか?」
照明がいっせいに消え、ホームは闇におおわれた。
『終電を待ちわびて』 了