昼下がりの襲撃者
真昼の日光が和らいで、街頭の空気が穏やかになる。茶色の煉瓦と赤い国旗と青空に囲まれて、黒服の少女が歩いていく。
(お姉様は喜んでくれるでしょうか?)
艶のある黒髪に、清潔感のある黒服である。白のエプロンと帽子を付けた、機能性に特化したシンプルなメイド服だった。
スーは仕事着を着こなして、兎耳を誰にも見えないように帽子で隠す。いつも通りの姿だ。
そして、彼女は芳醇な香りを表通りに振りまいていた。
街角のパン屋が振りまく香ばしさに誘われてしまい、思わず買ってしまったのだ。
追加で購入したパンを買い物袋に突き刺して、拠点に戻る帰り道である。
御姉様が待つ家へスーは帰らなければならなかった。
数日夜通しの調査を終えて、早朝に朝帰りした御姉様は帰宅するなりベットに倒れ、指一本動かさずに深い眠りに着いている。そろそろ目を覚ますに違いない。大量の食料が必要なのだ。
(……ダメ! そんなこと考えてはダメです!)
スーは本音を言えば、一緒に布団に潜り込みたかった。
血の涙を流しながら己を理性で抑えつけ、こうして食事の準備に駆け回っている。
(でも、これだけ駆け回っているのだからーー)
帰って御姉様がまだ寝ていたら、死ぬほど頬ずりをしても良いかもしれない。
いや、そんな可愛らしいことだけでいいのだろうか。御姉様は深い眠りに落ちている。
(だからダメです! いや、ダメ! 絶対ダメ!)
彼女の脳裏にさらに邪な考えが浮かんでは消え欲望が上書きされていく。結局、理性を失いかけている彼女は無意識に早足になっていた。
主人である御姉様はこの世界の神様の代理人の一人である。世界の命運と自分の運命を賭けたゲームに巻き込まれた不運な人であった。
(ああ、あんな頑張らなくてもよろしいのに。いつも無茶ばっかりです。いつになったら丸くなるのでしょう。しかし、近頃の御姉様はどうもつれません。昔も今も御姉様は最高ですが!)
ただ、スーは頭のモヤを振り切ることができなかった。どこか物足りないのだ。悩みの内容はもちろん御姉様のことである。
出会った頃はまだ人間らしさが残っていた。彼女の側にずっと立っていたスーは、その成長を喜ぶ反面、多分な寂しさが生まれていた。
抱き枕代わりされていた頃と今を比べると雲泥の差である。
御姉様は立派に成長して多忙な探索生活に追われている。彼女が成長するのはもちろん嬉しい。嬉しいのだが、会話量が必然的に減っていく。御姉様との触れ合いも枯渇して、スーはまるで脱水症状で死にそうな気分だった。
(あの人は天然です。なおさら、たちが悪いのです)
深々と被った白のキャップが重たくて、憂鬱を帯びた息を吐き出してしまう。歴史を感じさせる煉瓦造りの街並みの汚れだけが妙に目についた。
(ああ、落ち込んでいてはダメ!ダメです。どうすればいいのかはわかっている筈です!)
そう、現状を受け入れる彼女ではなかった。喉が渇いているのなら、井戸を掘り当てなければならないのだ。だからこその買い物なのだ。
胃袋を制するものは全てを制す。読んだ本に書いてあった一文は、スーの心のノートにしっかりと刻まれている。幸い、御姉様は料理が上手とは言えない。不味くはないが、絶妙に美味しくはない。おおざっぱ、面倒くさがり、フリーダムという料理下手三拍子が揃った御姉様と比べたら、スーが料理上手であるのは明白であった。
紙袋には御姉様を仕留めるための食材が積み上がっている。赤林檎一つとっても熟れ方が違う。
スーには特別な力がある。この世界で特殊な血筋しか持つことができない力を、彼女は持っていた。その目はどんな些細なことでも見逃さないのだ。どこか能力の使いどころを間違っているかもしれないとスーは思ったが、御姉様に与えられた能力である。彼女のために使って何が悪いと、彼女は自分に言い聞かせた。
日頃の努力の成果もあって、今や御姉様はスーを手放せないような身体になっている(筈である)。虎視眈々とスーの計画は進んでいる。
パンを買ってから十分後のことだった。
御姉様が寝ているアパートがあるブロックまで目と鼻の先。スーは泣きそうになっていた。
「……御姉様」
彼女は小さな可愛らしい襲撃者に捕まって、絶望のどん底に突き落とされていたのだ。
「それで……貴方のお家はどこですか?」
「たすっえええええん!!」
覚悟をもって戦場へ向かおうとしていたスーの脚を掴むのは、黒髪の少女である。商店が連なる通りの入口でスーは悲痛を隠せない。偶然目が合った瞬間に愛想笑いをしたのがいけないのかもしれない。彼女は助けを求めて、一目散に飛び込んできたのだ。
振りほどきたくても、乱暴に足蹴にするほどスーは理性を失ってはいなかった。
子供ははっきり言って苦手だった。いや、子供だけじゃない。主人である御姉様以外の人間は苦手だ。
言葉の使い方もあやふやな彼女は迷子だろうか。スーは彼女の姿を見て気になる点がいくつもあった。しかし、今はすぐにでも帰りたい。穏便に払いのけるのに彼女は必死であった。
「弱りましたね。名前はなんていうんですか?」
「り――ひっぐ、うああああああああんん! パパ! パパ!!」
「もう……私は早く帰って料理の仕度をしなければならないんですが……」
彼女は泣きじゃくって何を言っているかわからなかった。
随分と裕福な家庭に育てられた子供である。上質な布で仕立てられたワンピース、サイズもしっかりとあっていた。まるで上品な人形のようだ。しかし、服がところどころ破れ、手首には赤く縛られた跡があったのをスーは見逃さなかった。
「聞えてますか? こういうときどうすればいいんでしょう――って貴方に聞いてもわかりませんよね。ほら、名前です。まずは名前を教えて下さい」
「……うん」
スーは前屈みになって少女と視線をカチリと合わせて、ぎこちない笑顔を向ける。効果が合ったのかわからない。
「泣かないで。落ち着いて下さい。ね?」
「……っぐす」
「良い子です。ほら。名前はなんて言うのですか?」
彼女は袖でゴシゴシと強く擦りつけて涙を拭いて、下を向いたまま、絞り出すように声を出した。
「……リ……サ」
「っ!?」
スーは眼をぎゅっと閉じて、もう一度少女の顔を見る。
大きく深呼吸をして、気持を強制的に切り替える。彼女はとても運が良かった。マイケルでも、ババでも、キャシーでもフレディでもない。
スーの最愛なる、大切な存在――御姉様と同じ名前である。
大きな大きなため息をついて、スーは御姉様が寝ている家の方向を見る、目の前の小さな子供を見る。再度、家を見て、また可愛らしい少女を見た。
「パパ……助けて」
スーは五秒ほどフリーズしてしまう。百回以上自問自答を繰り返して、ようやく結果が出た。
「仕方ありません」
どうやらスーは彼女を見捨てられそうにはなかった。
「予定変更ですね」
「?」
思えば、つややかな黒髪である。その名前を聞いてから、スーの中で彼女の可愛らしさが十倍ほど膨れあがる。帰っても食事を食べたら、御姉様はまた街の探索へ向かう。今日くらいは少しご飯が遅れても良いだろうという気持になってきた。
スーはさらに目を光らせる。靴底の当たりに紅い汚れが着いている。小さな頬は僅かに震えている。
「貴方は捕まっていたの――」
「おい! あそこだ!!」
「なんですか!今度は誰ですか」
人だかりの奥から突き抜けるように怒声が響いた。
紺、黒、灰色とくすんだジャケットに青いシャツの大男の集団である。スー達を指差して叫んでいる。乱暴を塊にしたような姿で、人を一人二人殺していそうな手合いだった。
六人のジャケットには妙な膨らみがある。拳銃だろう。首に傭兵タグを見せつけるようにかけていた。これを付けている者で、スーは碌な連中に会ったことがない。
道行く一般人達は巻き込まれないように急いで道の端に寄っていく。
「わかりました。詳しい話はあの方達に聞きましょう」
追っ手がいたのか、ああ良かったとスーは不敵な笑みをこぼしてしまった。
「じっとしていて下さいね。貴方は自分の名前を付けた人に感謝して下さい」
「きゃっーー」
紙袋を抱えていない左手で、スーは彼女を抱き上げ、軽快なステップで走り出す。荷物が多くて小走りになってしまう。
「パパ……」
「喋らない。舌を噛みますよ。大丈夫です。私が助けますから」
スーはしっかり大柄な青い荒くれ者達がついてくるのを確認して裏通りに入っていった。
「だめ!」
「知ってます。行き止まりです」
あまり騒ぎになるのは好まない。これだけ荷物があると咄嗟に隠れるのは困難である。彼等には教えて欲しいことがある。
迷いなく進んだ先は金網フェンスで遮られていた。
スーは行き止まりの隅っこに少女を立たせて、紙袋を持たせる。
「良い子ですね。そのまま持っていて下さい」
不安いっぱいの目で見上げられると、スーの中の守ってあげたいという欲望が燃え上がって止まらない。近頃の御姉様は立派に成長して、こういう機会はほとんど無い。安心させてあげるつもりで少女を撫でていると、スーは息が荒くなってしまう。
「おい、嬢ちゃん。どうして連れていきやがる。屋敷の使用人か? ああ?」
彼女が黒髪であるのも非常にポイントが高い。初めて出会ったころの御姉様を彷彿とさせた。御姉様も自らの姿を変えることができるのだし、子供の姿になってとお願いするのも良いかもしれない。スーの頭の中で膨らんだ妄想は止められなかった。
「おい。聞いてんのか?」
「聞いてますよ。奇遇ですね、私の方も聞きたいことがあるんです。貴方達、こんな可愛らしい子供を傷つけて、どういうつもりですか? おかげで私の予定が狂いました。事情を教えてくれませんか?」
大の男達はスーの睨みに半身のけぞるが、外見が少女であるスーを見て、気のせいだとお互いに確認し合うように見つめ合う。
鈍感な何人かは首を傾げてしまう。目の前の少女の殺気が感じ取れないのだ。
「もう一度聞きます。私は早く家に帰らなければならないんです。協力していただけないのなら、私は強硬手段に出ます。脅しではありません」
結局、彼等の内誰一人、あの一瞬見えた寒気の正体がわかっていないのだ。目前の少女の言動と外見が余りにも一致していなかった。
勘違いだったと自らを落ち着かせるように、男達は腹を抱えて笑い出した。
「面白いこと言うじゃねえか」
一番長身の2メートル近い男が前に出て、丸太のような腕でスーの襟首をつかみ上げる。
「……」
華奢なスーはいとも簡単に持ち上がり、足を宙にぶらりとぶら下げる。メイド服の少女は、首元を掴まれた猫のようであった。
そんなことできるわけ無いじゃないか、やれるものならやってみろと、口々にスーの耳に雑音が入る。
再度、大笑いが路地裏に響きわたった。
「はあ」
嘆息をもらす。
獣や魔物の相手をしている方が、スーはよっぽど楽だった。勝手に怯えて逃げてくれる。人間の恐怖に対する感度はずば抜けて悪い。
「全部貴方達が悪い気がします」
「何言ってんだ?」
宙ぶらりんになったスーはにこりと口角を上げて、微笑んだ。
「だからちょっとだけ八つ当たりをしても――良いですよね?」
「ふぇがっ――」
男が馬鹿にされていると気づくよりも早かった。
スーがスカートの中から左足を繰り出して、顎を削り取るように蹴り抜いた。男の目はグルリと白目になってしまう。
スカートをひらりとはためかせてスーは右足で着地。
遅れて意識を失った男が膝をつく。
瞬時に、スーは周囲の障害を観察する。
ビルの影が重なる薄暗い裏路地。
さび付いた梯子。
並んだ配管に錆びた金網。冷たい人工石の地面。
今夜の食材を抱えた、可愛らしい少女は心配そうにスーを見つめていた。
大丈夫だとスーは彼女に微笑んで、地面についた右足でそのまま地面を蹴った。
斜め左後ろにいた鼻っ面にドロップキックを直撃させて、レンガの壁にたたきつける。固い重低音が鳴り、その反動で軽やかに宙を舞う。
誰も目でその動きを追うことができなかった。
頭を下にして滞空し、その反対側で突っ立ていた二人の頭に回転蹴りをお見舞いする。頭部を狙う彼女の攻撃は一切の容赦がない。
スカートが落ちる間もなく、一回転して地面に両足でようやく着地。右足で一人、左足で一人と、瞬く間に倒していく。
「って、てめえ――」
残った男は一人である。
スーの捉えきれない攻撃に対し、武器を取り出したが遅すぎた。
「あぐあ!」
拳銃を構えようとした右手に小型のスローイングナイフが投擲される。鉄の塊が手から落ちて、傷を押えながらドサリと崩れ落ちる。
「抵抗しないで下さい。ねぇ、事情を教えてくれませんか?」
話を聞きたいのは俺たちの方だと言いたげに、残った一人が顔を上げる。彼は目の前の小さな少女から。今度は微笑を投げかけられてしまう。
「良かったですね。意識があるのは貴方だけじゃないですか」
スーの目が煌めいた。男の首筋に吐息が当たるほど顔を近づける。力関係を理解した彼は身動きが取れなくなってしまった。
誰も助けてくれる者がいない。彼以外は虫の息。無駄な殺生はしてはいけないという御姉様の言いつけを、スーはしっかり守っている。
人道的な彼女の行動に、男は感激していた――のかは不明であったが早口で喋り出した。
「やめてくれ! 話す! 話すから! お願いだから待ってくれ! そいつは市長の娘だ。うちのボスが市長になりたがってるんだよ!」
「それで?」
「今の市長が血筋ごといなくなれば、次はうちのボスがこの街を取り仕切れる! 家を襲撃したが、こいつだけ逃げ出しやがった」
「この子の父親は」
「まだ闘ってる! 他の使用人は一人残らず始末した。こっちは数が多い。流石の市長もそろそろ根をあげてるんじゃながっ!?」
怒濤の勢いで喋っていた男に、スーは優しく蹴りを入れて意識を奪った。
「ふぅ。よくできました」
こういった話を聞く機会は何度となくあった。この世界は血が力に直結する。
それは世界を創ってきた神の代理人の力が、次世代へと引き継がれていくからだ。
数百年の時を経て分散された神の力は、今回のプレイヤーである御姉様には遠く及ばない。しかし、小さな田舎を揺るがすには十分すぎるほどの力だった。
「しかし、これまた面倒くさい」
すぐにこの小さな少女の安全を確保して、お腹を空かせた御姉様の元へ急いで帰ろうと決めていた。しかし、難しそうだ。
「もう、そんな顔しないで下さい。途中で投げ出したりしませんよ」
袖を引っ張られてスーが振り向くと、黒髪の少女に無言で訴えかけられて、スーは苦笑いをしてしまった。
リサ「……お腹空いた」