2話:はじめの一歩
「マルタ、か」
風を切りながら叫ばれた彼女の名前を呟きながら、彼女の事を思い出す。
シルクの様に滑らかで柔らかい長い黒髪。
年齢より幼く見える顔立ち。
ぷっくりとした可愛らしい唇。
そして、低身長でありながらもその体型に不釣合いな大きな胸。
そんな彼女が俺が自分から離れてしまうと理解して浮かべた表情は、まるで愛する恋人が離れていくような悲しい表情だった。あの美人な彼女が俺に対してその表情を浮かべたのだ。
あの美人な彼女がだ。
「おっしゃぁぁぁぁぁあッ!!!!!」
実感して体が震えだし、あまりの高揚感に空中を跳んでいるのにも関わらず両腕を天へと突き上げる。
そのあまりにも大きい声に周り一体の鳥達が驚いて空へと飛び出したが、そんなことは関係ない。このまま歓喜の思いを抱きながらロットンウルフの死体の番をしようと、目的地一歩手前の木の枝に着地しようと跳ぶ。
「来たぜ、来たぜ俺の時代がッ!!これでやっと!これでやっと俺はこれまでの生活とおさらばでき―――」
着地と同時に足元からバキッと小気味良い音が聞こえた。
「―――る?」
何の音だろうと視線を下に向けると着地した筈の枝が根元からへし折れていた。あまりに予想外の展開に頭が状況に追いつかなかったが、それは着地失敗という結果とこれから起きる事をすぐに理解させてくれた。
「あァァぁぁぁッ!!」
絶叫しながらなんとか枝を掴もうとするが、如何せん装備が重過ぎる為に掴んだ瞬間から根元からへし折れていくから意味が無い。
まったく誰だ、こんな重い装備なんて作ったのは。
抗議の思いを抱きながら、抵抗虚しく死体の近くにあった湖に激しい水飛沫を上げて落下した。
「………ッ!」
水中でぷかぷか浮かぶとかは一切無く、まるで船から降ろされる碇の様にドスンッ!と水中であるにも関わらず、鈍い音を響かせて地面にめり込む。
必死に地上へ上がろうと踠くがまた装備の重みが邪魔をするので着たまま上がる事を諦め、手間になるがここで装備を脱いでからにしようと決断する。
「…………ッ!!」
ここでまた問題が発生した。
指先が帷子で覆っている為、太くなった指での細かい作業が難しくなっている。先程から何度も腕部分の防具を必死に外そうと紐を解こうとするが、焦りもあることから手間取ってしまう。しかも、戦闘中に解けないようにする為に、紐の数も多く、今のこの現状でそれは迷惑以外の何ものでもない。
やっと両手の防具が取れたと、喜びながらも苛立ちを解消するかのように、そのまま地面へ叩きつける。少し苛立ちを解消出来て、笑顔になって地面にめり込んだ足の防具を外そうとした。
そして、またまた問題が発生。
紐が固結びになった。
「…………ッッッッ!!!!!!」
先程の雄たけびよりも激しく叫ぶ。
だがそれは声にはならず、ただただ自分の体内の空気量を減らすという自殺行為にしかならなかった。
◇
「ごほッ!かはッ!!」
水中脱出出来た瞬間に飲んでしまった水を咳き込みながら吐き出す。
あの後、なんとか時間をかけて全ての防具を外して水中を出ることが出来たが、自分の許容範囲の時間を越えてしまっていた為、中での焦りは尋常ではなかった。
「クッソ、マジで死ぬかと思った……」
だが、良かった。
彼女を助ける時にこんなみっともない姿を見せてしまったら、ただの敵の前で湖の中に突っ込んで出れなくなった変な黒い野朗としか思われなかっただろう。そんなザマでは女を惚れさせる事など到底出来はしない。一筋縄ではいかない難しい世の中だ。
「……まったく」
真剣に悩んでいると、上の方から声が掛かった。その声は随分と聞きなれたもので俺の知り合っている数少ない女性の一人。
疲れ果ている為、肩で息をした状態でゆっくりとだが視線を、声の聞こえる方へ向ける。
「アンタ、何やってんのさ」
思った通りの女が呆れた表情で此方を見ていた。
釣り目気味の長身かつグラマラスで、肩より少し下で切り揃えられた綺麗な緑がかった黒髪の美しい女。
確か年齢は俺より少し下と言っていたか。
服装は襟首のボタンまできっちり留めている黒い長袖の服に、少し短めのタイトスカートで網タイツは穿いている。
春夏秋冬、暑くても寒くても仕事中は一貫して同じデザインの服を着続けるので、もう見慣れたものだ。まぁ見慣れたとしても、この服装は眼福ものだけど。
スカートなどの部分も勿論だが、一番重要なのは上の服だ。
デザイン的には男装の様に見えるが、女性の胸部を窮屈させないようにそこだけ白いブラウスが出ているデザインとなっている。確かに機能性を考えれば素晴らしいが、彼女の様に胸の大きな女性が着ると胸を強調し過ぎるという問題がある。
こっちとしてはありがたいから文句は一つも無いから良いのだが。
「ちょっと若さ故の過ちをな……、深く聞かないでくれ」
「何言ってんだか……。もうお互いにいい歳でしょうに。それにアンタがやることに深い部分なんてある訳無いじゃない、深さなんて風呂桶程度の浅さしかないでしょ」
なんとも心外な事を言ってくるのだ。
ここは大人として、しっかりと論さねばならない。
「バッカ、俺のやる事は全て山より深く、海より高いに決まってんだろ?」
「つまり全て薄っぺらという事ね、分かったから早く帰る支度してなさい」
「あれ、何か俺間違えた?」
「間違えてないわ。アンタの全てを表した見事な一言。他の男には真似できない素晴らしい事だから誇っていいわ」
「よせやい、照れるだろ」
何故そんな呆れたような顔を俺に向ける?
若干釈然としない部分はあるが、ここは流しておくのが大人の余裕というものだ。
「それより、なんだって湖から出てきたのよ。それも下の服だけで防具も無しに。……まさかロットンウルフ相手にその格好で挑んだとか言わないわよね?」
「流石にそんな遊び心はねぇよ。ただ木の枝を踏み場にして跳んでたら枝が折れて落下しただけだ。それであの防具つけたまま上がるのは無理だったから脱いで、こんな格好になっちまってる」
「道理で少し前から湖の表面にぶくぶくと泡が出てきてたのね」
「気づいてたなら確認して助けてくれよ」
「嫌よ、下手に藪をつついたら蛇が出てくるかもしれないじゃない」
確かにその可能性は無くは無いかもしれないが、お前が多少の事で怖がるタマかよと言ってやりたい所。だが、ここでそんな事を言ってしまえば仕返しが来るのは分かっているので言わない。
「それに、あんな重い防具で枝を足場にしたら折れるなんて馬鹿でも分かる事じゃ―――あ…(察し)」
「おい、今の「あ…」ってなんだ。「あ…」って。まるで馬鹿を見るような目でこっちを見るんじゃない」
「見るような目じゃなくて馬鹿を見てる目なんだよ」
「うっさいわ、ちょっと舞い上がってただけだよ。そんな当たり前な事がすっぽりと頭から抜け落ちちまってただけだ」
「抜け落ちてたのは頭のネジだろうに」
「お前は一言も二言も多いな」
俺が軽く睨んで彼女を見るが当の本人はまったく気にせず手元の資料を見ている。
「それに舞い上がってたって、ロットンウルフを倒した事に?」
「まさか違ぇよ、今更こんなデケェだけの犬倒したくれぇで喜びはしねぇよ」
「犬って……」
俺の発言に若干引く彼女。
確かにAランクに分類されているのに犬扱いは流石に可哀そうか。ならトナカイ位が良いかな。角生えてるし、愛嬌感じるし、犬より大きいし。きっとそっちの方がこの子も納得するだろう、死んでるけど。
俺のさんな考えが通じたのか心なしか嬉しそうな眼を……駄目だ、濁りきった死んだ魚の様な眼をしている。
「本題に戻すけど、このロットンウルフの死体を見る限り依頼主は喜ぶでしょ。討伐目的だけだったら引く手数多だけど、死体をなるべく原型に留めて綺麗な状態で倒してもらうとなると途端に頼める人数が限られてくるからね、この討伐依頼は」
「そんなに難易度高いか、こいつ」
そう言いながら頭をペシッと叩く。
しまった、叩いた拍子に濁りきった死んだ魚の様な眼がボロッと落ちてしまった。
不幸中の幸いか死体をチェックする彼女は手元の資料に何かを書き込んでいる途中のため気づいていない。気づかれる前に何とかしてこの目玉を元に戻そう。
「確かに討伐としてならAランクとしてまずまずの難易度だけど、死体を原型に留めると話が変わるわ。普通ならパーティーを組んで前衛後衛を作り、前衛が攻撃を防ぎ後衛の魔法で倒す。これがロットンウルフを倒す定石。しかし、こうなると殆どが焼死体やら傷だらけの死体になるの。見たところこの死体の損傷部分は頭部と両手に脊髄のみ。完全に原型を留めている訳では無いけど、そこらのギルドの人間にが持ってくる死体よりは断然マシと言っていいわ」
その断然マシと言われた死体から飛び出てしまった目玉。
先程から眼の穴に入れ直すのだが、またすぐにポロッと落ちてしまう。どうしたものかと試行錯誤で色々と試してみる。それまで此方に視線が来ない様に何気なく会話を続ける。
「こんな奴に大人数で行く必要あんのかよ」
「アンタと一般人を一緒にするんじゃないよ。ギルドがロットンウルフ討伐で推奨している魔装具を所持していない場合のパーティー人数は4名。前衛2人、後衛2人。減らしたとしても後衛だけで、前衛は基本2人以上。それを前衛一人だけで討伐って普通じゃないの。さっき言った前衛2人は壁役で攻撃は基本しないになってるのよ。それを守る楯も武器も持たない軽い防具の装備だけで倒すだなんて……」
「盾なんて邪魔なだけだろ。防御なんて腕とか足で受ければ―――」
「ロットンウルフ相手に普通の人間がそんな事したら、へし折れて吹き飛ばされて終わりよ」
「鍛え方が足りないんだよ、鍛え方が―――ぁ」
返答に気をとられ、目玉の周りの粘膜みたいなもので手が滑ってベチャッと地面へと落ちる。
何という事だ、目玉が軽く潰れてしまった。
これではもう元に戻して誤魔化す事はもう難しい。オロオロと慌てて周りを見渡すが、隠せそうな茂みはここから少し離れていて隠せそうに無い。
「どんな鍛え方したら、そんな頑丈な体が出来るんだか……。全身にオリハルコンでも埋め込んでるって言われても頷くレベルだよ」
「俺は人造人間か何かかよ―――オラッ!」
彼女が此方に視線を向けると分かった瞬間、ヤバイと思い手に持っていた目玉を俺が沈んでいた湖へと蹴り飛ばす。
蹴り飛ばす時に、グチョっと嫌な音をたてたがバレなければどうでもいいか。
「さっきからボソボソと何一人で言ってんのさ」
「え、いや、足元に蟲がくっ付いてたから取るのに大変だったんだよ」
「……アンタの足、何かの体液みたいなのが凄いんだけど?」
「きっと蹴った時に色々と飛び出したんだろ。まぁ大した事な―――うぉ、クサッ!」
「……あまり近寄るんじゃないよ」
ジト目を此方に向けながらサササッ!と素早く俺から離れる様に後ろへ下がる。
美人に向けられるジト目、存外に悪くない。何かクセになってしまいそうな感覚に陥ってしまいそうになったが、足元から臭う悪臭に目を覚まさせられる。
それにしても本当にクサいな。牛乳を拭いた布を長時間放置した時の臭いよりクサい。
俺が自分の足に引いていると、フリージアがある事に気づく。
「―――あれ?死体の眼が無くなってる……」
「え、元から無かったよ、そんな物」
「そう?……見間違えたかしら」
「ロットンウルフは全体的に腐ってるからな。一つや二つ見落としていても仕方ねぇよ」
「また書類書き直さないと……まぁいいわ、無いものはしょうがないし」
良かった、ここでバレて叱られては折角の努力が無駄になってしまうところだった。平然を装いながらも心の中でホッと安堵する。
だが美人に説教されるという状況も悪くは無いと思えるので、少し残念ではある。
「無駄話はここまで。報酬は後日、ロットンウルフの死体の査定を終えてから渡すわ。面倒臭がらずにちゃんとギルドに来る様に。良いわね」
「もう別にいつでも良いっていうか無くてもいいよ、金に困ってる訳ではないし。この依頼を受けたのだって『フリージア』がやってくれって頼んできたからやっただけの暇つぶしだし」
「私に頼まれたから、ね……」
「どうした、いきなり笑い出して」
口元に手をやり、頬を少し紅く染める『フリージア』。その表情は大人な女性である彼女からは滅多にお目にかかれない可愛らしいものだった。
だが、俺が指摘したらすぐに普段と同じクールな表情に戻ってしまった。
「……いえ、笑ってないわ」
「え、いやでもさっき確かに」
「笑ってない」
「いやでも」
「笑ってない」
「でも」
「叩くよ」
「えぇ~……」
紙の束を俺の頭に叩きつける為に上へ掲げながら眼をキッと吊り上げ睨んでくる。
後半はもう脅迫と言えるのではないかと思う程の凄みだった。まぁ行動は脅迫そのものだったが……。普通の女性なら脅すだけで実際やらないものだが、彼女の場合は容赦なく実行してくるから素直に引き下がるしかない。
そんな彼女は振り返り、書いてる紙を整えて歩き出す
「はやく帰るよ、まだ何か言ってくるならここに置いて行くからね」
「それはご勘弁を……いや、待て。そうなっても助けた彼女の家に泊まることが―――」
「その話、詳しく教えなさい」グイッ!
言葉を言い切る前に俺の目の前には、前を歩いていた彼女の顔がすぐ近くにあった。
彼女からほのかに香る甘い匂いが鼻孔をくすぐり、少しドキッとしてしまうが彼女の目を見ると直に冷めた。
怖い、怖いよ。その血走った眼は怖いよ。なんで何気ない一言でそこまで喰らいついてくるのさ。
この後、助けた『マルタ』との大体の話をし、あまりの怖さに死体の眼玉の件を口走ってしまい説教を喰らってしまった。最初は色々と楽しんでいたが、罰として防具を再び装着し湖の底からあがって来いと言われた時には震えが止まらなかった。