13話:理不尽な先輩
フリージアは上の空で村の中を歩き続ける。アドルフが居なければ基本何も起きないノーランス村。よく言えば穏やかで居心地が良い、悪く言えば何もすることが無い暇な村なのだ。
本来はギルドの方で仕事をしているべき時間なのだが、どうせ誰も来ない、仮に来てもカトリナ一人で十分対処できる、それに好意を寄せているアドルフが居ないならいつもみたいに身嗜みを整え言動一つ一つに気をつける意味も無い。彼以外の人間が自分の事をどう思おうと、彼だけに自分の良い所を見てもらえればどうでもいいというのが彼女の考え。だから、彼女はこうして普段の規則正しい生活から開放されたように少しダラしない行動をしているのだ。
「アドルフが出て行って二日、か…。そろそろ鉱山に着く頃ね」
前までは、特に心配の一つも無かった。彼が依頼を失敗することも、傷ついて帰ってくることもない。最初の頃は彼が依頼を受け、自分の目の届かない所に行くと怪我をして帰ってこないかとまるで母親の様に心配していたのだが、あそこまで何も無しで帰ってくるのが続くと心配し続けるのが馬鹿らしくなってきたので彼女はただ、彼の帰りを上の空でまち続けるだけだったのだ。
だが今は違う。彼の欲望を知り、自分の敵は彼に襲い掛かる魔物などではなく、彼の近くにいる女全てだという事を知ってしまった。これまで気軽に見送ってきたが、彼が自分の居ない所で、そこらの女性に惚れてくっついてしまってヤッてデキてしまいましたなんて言われたら、彼女は思わず手が出て殺ってしまうだろう
「大丈夫、手は打つだけ打った。幾らアドルフが女と出会いたがっているとしても、鉱山ならそもそも女じたいが居ない筈。……アドルフが帰ってくるまでに、なんとしてでも計画を練らないと」
時間稼ぎとして、アルタートゥム鉱山でゴブリン討伐という見事に女性の影が微塵も感じられない依頼に行かせた。身体だけでなく脳まで筋肉で出来たアドルフの事だ。多少不可解な事があっても、特に気にせずに最後まで依頼をこなして、最後辺りに気づく位だろう。いや、もしかしたら帰ってくるまで気づかないかもしれない。うん、きっとそうだ。
あまりに理不尽で馬鹿にしたような信頼を抱いているが、アドルフがそれを知る日は来るのかは分からない。
「それにしても寒いわね。家出る時、もう少し厚着してくれば良かったわ。ただでさえ遅れてるのに、取りに戻りに行くとなると更に遅れてカトリナが五月蝿くなるし。……いや、逆に考えればもう怒られることは確定してるんだから、いくら遅れても一緒ということじゃ……」
早朝特有の肌寒さに思わず両腕を抱く。長袖ではあるが生地が薄い為、あまり防寒性は良いとは言えないのだ。ギルドの制服には夏用冬用と二種類あるのだが、夏が終わってすぐのこの時期に冬服に着替えるというのもあまり気が進まず、昼辺りには暑くなるかもしれないからと変わらずに夏服で来たのだ。一応ギルド指定の防寒着もあるのだが、それは雪山などの厳しい寒さを防ぐ為の分厚いもの為、今着るには過剰過ぎる。
「……ん?」
腕を擦りながらゆっくとギルドへの道のりを歩いていると、遠くから生き物の唸り声が聞こえ、思わず立ち止まる。生き物と言っても、ニワトリや豚などの小動物ではない。もっと大きく、強く、獰猛なイメージを抱くような生き物。それにこの生き物の唸り声、久しくはあるが聞いたことがある。そうこの生き物は
「走竜……」
思い浮かんだ生き物の名前を呟き、眠気が無くなり頭が冴え始める。走竜は入手と躾が難しい代わりに、懐き乗りこなせれば馬より圧倒的な性能を誇る。走竜がこの村に紛れ込んだか襲ってきた、そんな考えも一瞬過ぎったが、もしそうなら村が騒がずこんな平穏であるのは不自然すぎる。なら考えられることは一つ。走竜を誰かが乗って、村に訪れたのだ。走竜は基本自分の飼い主にしか懐かない為、馬の様に躾がされているからと言って誰でも乗れる訳では無い。故に走竜は個人で持つ人間は少ない。ほとんどは大きい団体が走竜を専属の者に育てさせ、馬車などの運転手などの役に置くのだ。
だから、今村に来ているのはどこかの大きな団体に所属した者が来ているという可能性が非常に高い。フリージアは、様々なパターンを想像しながら歩き続け、ギルドの建物への最後の曲がり角を行った。
「――――ッ」
一つの光景が目に映り、息を呑みフリージアの目線が鋭くなった。
それは予想通りだった走竜車と一人の男の運転主がギルドの横で停車しながら休んでいた光景。だが、重要なのは走竜車が居たことでも一人の男が居た、という事ではない。
「ヴルツェル王国所属の紋章の走竜車……」
ヴルツェル王国所属の走竜車という事が重要なのだ。これがヴルツェル王国所属の馬車だったら話は別だった。依頼書などのやり取りなどの軽いものは伝書鳥を使用し、余程の重要な話や定期的な視察などなら馬車でくるのだから、なんら慌てることもない。だが、走竜車となると話は変わってくる。
走竜車というのは貴重な物で、ギルドの定めているFからSSまでの8つにランク付けされた中でもAランカー以上の者にしか乗ることの出来ないもの。
「Aランカー以上の人間が態々こんな辺境地に来るなんてね。偶然か、それとも……」
一瞬、最悪の場面を想像してしまったが、そんな事は無いと頭を振り、想像した場面を頭の中から消す。未だに少し鋭い眼光ながらも、普段と変わらない表情に戻し建物の中へ入っていく。
まず目の前に入ったのは一人の女性の背中。女性にしては長身で、腰まで伸びた綺麗な黒髪。スタイルは自分と同等かそれ以上。普段なら暢気にアドルフに会わせたら面倒な事になるなどと下らない事を考えるが、今の彼女にそんな余裕は無かった。
「お気をつけて~」
カトリナの能天気な声が聞こえた共に、女は振り返りこちら気づき一眄してそのまま何も言わず出口へ歩き出す。目つきが女性にしてはキツく一眄だけだったのであまり社交的ではないのかと思いながらも、此方もいつもの社交性を見せる余裕も無く同じように一眄して歩き出し、すれ違うも言葉も交わさないまま女は出て行った。
「あ、先輩!も~今更来たんですか。今もう何時だと思ってるんですか」
「今の女は何しにこんな辺境のギルドに?」
「え、今のって……」
「貴方が受付していた黒髪の女よ」
女が出て行ったドアを顎で指す。その言葉を理解したカトリナは「あっ」と気づいたかのような声をあげて、何故か瞳を爛々と輝かして受付のテーブルから此方に身を乗り出して喋り始める。
「アデーレさんの事ですか?いやぁ私、ギルドに入って何年も経ちますがAランカーの方に会うことも担当させてくれたのも初めてです!!それにしても、女性でAランカーなんて凄――――」
「貴方の感想なんてどうでもいいし、名前も興味ない。そのAランカーの女が態々こんな辺境のギルドに訪れたのか。それを教えろと私は言ってるの」
カトリナが楽しそうに語っている途中で鬱陶しそうに彼女の言葉を遮って、改めて自分の疑問を伝える。その冷たい対応に私怒ってますよ、と伝えるかのように、頬を膨らませてむくれるカトリナ。だが、そんな彼女の行動に特に反応もせずに返答をただ待つだけの先輩に、もう何も言っても駄目だと感じたのかはぁ…と肩を落としながら小さいため息を吐き、しぶしぶといった様子で喋り始める。
「……アデーレさんは仕事終わりで帰路が長距離だったから暇で、近くにあったこの村に来たそうです。何か暇つぶしか、やって欲しい依頼でもあったらやりたいって言ってくれました」
「他に用事は?誰かを探してるとか」
「用事?いや、何も聞いてませんけど……。さっきも言いましたけど、本当に来たのは気まぐれみたいなものだったらしくて」
「そう……」
顎に指を当て考え込みながら「本当に偶然……、なら問題は……」とカトリナに聞き取れるか取れないか程度の小声で呟くフリージア。その表情はとても真剣で深刻そうなものだった。いつもなら、こういう考え込んでいる時に内容を聞いたりしたら怒られたりするから、あまり聞いたりしたりしないのだが今回は遅刻された上に少しキツく言われたりしたので、カトリナも少し怒っている部分もあるのか、腰に手を当てて先輩に説教を始める。
「もうッ、なんで遅れた先輩がそんなに偉そうにしてるんですか?少しは謝罪するとか、申し訳なさそうにして下さいよ。それが大人としてのマナーってやつじゃないんですか」
「……五月蝿いわね。どうせここには私と貴方しか居ないし、人も殆ど来ないんだから良いじゃない。そうやって器も考えも小さいから胸も小さいのよ」
「怒られている側なのに、さらっと暴言を吐くな。この人」
自分が正しくて説教をしていた側なのに、そんな立場を意に介さずカトリナが身体的特徴への口撃に、胸を片手で隠しながら冷静に反応する。心の中で「大丈夫だよね?私小さくないよね?」と自問自答を行っているのは秘密だ。
最初はあまりの理不尽な口撃に軽くキレかけていたが、理不尽なのはいつもの事かと溜め息を吐きながら諦め、視線をテーブルの上に広がっている書類に向ける。
「もう分かりましたから、仕事してください」
「はいはい、分かったわよ。やれば良いんでしょ、やれば。五月蝿いわね」
「なんで私がぶうたれられるんですか」
完全な正論を言ったはずなのに軽くキレ気味で言葉を吐きながら制服へ着替える為に更衣室に足を向けるフリージアにムッとした表情で言うが、聞こえてないのか元から聞く気が無いのか分からないが、彼女の言葉に反応する事無く部屋から出て行かれた。
その後、謝罪の言葉は諦めて一人無音の寂しい部屋で作業をしていると、筆を一旦止めふと思った事を口に出す。
「なんかあったのかなぁ。アドルフさんが出て行った時は寂しがると思ってたけど何かやりきった様な表情だったのは意味分からなかったし。最近情緒不安定だしなぁ、先輩。今日は何故か不機嫌だけど、何かあったのかなぁ」
握っていた筆をクルクル回して、それを見ながら呟く。先輩であるフリージアがアドルフの事を好いたのは昔から知っていて、彼女がアプローチを彼にしてその殆どが空振りをし、その腹いせに自分への悪戯が止まることを知らないのがいつもの光景だ。だが、最近になって彼が凄まじい女好きだったという告白を受けてから、彼女の感情のブレが尋常ではなくなってきた。アドルフの小さい事でも過剰に反応し始めるし、先程呟いたアドルフが出発する時の表情のように、時々意味の分からない感情を見せたりと。
今日は不機嫌で理由は分からないが大本の原因は予想がつく。
「アデーレさんの事知らなかったって言う割にはあの怖い目付き……」
初めて会う女性にあそこまで鋭い目つきで睨みつけるだなんて、基本他人に冷たいフリージアにしても少し可笑しく感じた。きっとあれに何か意味があるのだろう。
昨日の夜にでも何かあったのか?流石に仕事終わりの後の事まではプライベートなので深くは知らないので、もしかして不機嫌になるような事があって、それを翌日である今日まで引き摺ったのかも。
アデーレさんが女性だったから?アドルフさんが惚れてでもしたら彼女に不利益が生まれる可能性があり、面倒事になるから。
それとも彼女がヴルツェル王国所属のギルドの人間だったから―――
「何ぶつぶつ言ってるのよ、貴方は」
「あいたっ」
深く考えている途中で自分の後頭部が叩かれた思わず声が出る。何かと思い後ろを振り向くと、予想通りの人物であるフリージアが丸めた書類を握りながらジト目で自分の事を見ていた。
「もぉ~なんですか。遅刻したくせに、仕事してた人間を叩かないで下さい」
「何が仕事してた、よ。手を止めて独り言してたくせに」
「ぐっ。ちょ、ちょっと、ほんのちょっとの間だけだった良いんです!セーフです!」
「そうやって狼狽える時点でアウトよ。観念なさい」
「うぅ~……」
悔しくはあるが、正論をついてる部分があるので強く出れないのが悔しいところ。悔しそうな表情を浮かべて睨むも、相も変わらずフリージアは特に気にも留めずに、自分の席に着くと黙々と仕事を始める。結果的に彼女が仕事を始めたのでいいかと思いながらも、色々と納得できないところは多いのか少し複雑そうな表情を浮かべながら彼女も自分の仕事を始める。
そのまま特に話すことも無く、無言の時間が続くがカトリナが思いついたようにフリージアに話題を振る。
「前から思ってたんですけど、先輩ってアドルフさんが居ないと、周りに冷めた態度で接しますよね。さっきの女性でAランカーの件とか。どうせやる事も話す人も少ないんですから、そこは『へー、珍しいね!』みたいな感じでノって話を引き伸ばしてくださいよ」
「私がいつそんな鬱陶しい反応するキャラになったのよ」
「みたいなって言ってるじゃないですか。もー、ノリが悪いなぁ」
口を尖らしてぶぅと言いながら足をバタつかせるが、先輩からの反応は無し。今日何度目になるか分からない溜め息を吐き、それでも無言は嫌だとめげずに話を続ける。
「それにアデーレさんと会った時、禄に挨拶もしませんでしたし」
「Aランカーなんて王都でならまだしも、こんな田舎のギルドにまで態々また足を運びに来るわけ無いじゃない。なんでもう会うことも無いだろう相手に愛想良くしなきゃならないの。しかも、女だなんて下手したら無駄に恋敵が増えるだけじゃない」
「どれだけ必死になってんですか」
「貴方みたいに先を見据えていないお嬢さんには分からないのよ」
「まぁ何たって若いですし!」
シュッ!!
「――――ヒィッ!」
満面の笑みで言い返したカトリナの顔の横を高速な何かが通過した。まるで油がさされていない錆びたブリキの様にギ…ギ…ギッとゆっくりと後ろを向くと、木製の壁に羽ペンが突き刺さっていた。
もしこの羽ペンが頬を掠りでもしたらどうなっていただろうと想像するだけで全身から冷や汗が溢れ出す。投げた人物は明白で、その人物の方に視線を送ると滅多に見ることの無い先輩の満面の笑みがあった。だが、薄く開かれた瞼の中にある瞳はまったく笑っていなかった。
「あら、ごめんなさい。今とても耳障りの悪い声が聞こえたから、聞き流してしまったわ」
「で?」という女性として出してはいけないような低く重い恐ろしい声に、「ひっ、ひぇッ!」というまるでひな鳥の様な情けない声を出してしまった。
「その、先を見据えた女性は立派で品があるな、と……」
「あらそう?ありがとう」
訂正の言葉を聞いた瞬間、彼女は満足そうにして感謝の意を伝えてくる。笑みは変わらないが、瞼の中にある瞳は普段通りに戻っていたのを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
もう疲れたと話をふる気力も無いので、仕事に集中しようかと思ったところで今度はフリージアから話を振ってきた。
「それにしてもさっきの子、ギルド所属でパーティーも組まずにソロでやってる割りにしては随分と綺麗な顔つきだったわね。あんなレベルの子はそうそう居ないわ」
「まぁ基本荒事が多い職業ですからね。女性でも体格が男性に近しい方が多いのは事実ですし」
「ゴリラみたいなのとかね」
「なんで態々遠まわしに言ったのに直球で言うかなぁ」
「なんで態々遠まわしに言うのよ。実際幾つものギルドが動物園になってるんだから、そんなの意味無いでしょ」
ギルドの仕事は言うなれば何でも屋であり。魔物討伐に商人の護衛、探し物に採取、多種多様の依頼が舞い込んでくる。でも受ける受けないかは受ける側の自由であり、依頼をする側はどうしても受けて欲しい場合は報酬額を吊り上げるか、個人もしくは一つのパーティーに指名で依頼を受けてもらえるよう自ら頼みに行くのだ。
採取などの依頼は一見楽に聞こえるが、基本村や街などの人口密集地から少し離れれば弱い強いはあれど、多くの魔物が生息していて、依頼中に襲われないという保証はない。だから、ギルドに所属している人間は荒事に慣れている人間でなくては勤まらない。そして荒事が得意となると体格が重要になり、フリージアが言うような人物が多い。
魔術師というスタイルなら女性の割合は多いく華奢な者が多いが基本後衛の役割の為、パーティーを組むのが殆どなのでソロならとの今回の話とは関係が無いので例外とする。
「本当、アドルフが居なくて良かったわ。居たら大変な事になってたかもしれないわね」(アデーレに惚れる的な意味で)
「……えぇ、アドルフさんが色々大変になっていたでしょうね」(嫉妬に駆られフリージアが暴れる的な意味で)
少し言葉が噛み合っていない様に感じるが、特に反応はしない。ここで深入りすれば、そんな訳ないだとか、良い度胸だとか言われて八つ当たりを受けそうだ。触らぬ神に祟りなしとカトリナは気にせ話を流す。
「それにしたって、暇だからってこんな辺境の貧相な村で依頼なんて受けなくていいじゃない。Aランカーなんて名が売れて依頼なんて王都に戻れば腐るほどある筈。態々こんな村で依頼を受けるだなんて嫌味?嫌味なの?」
「なんでそうやって悪意ある捻くれ方して受け止めるんですか。緊急依頼があれば受けるって善意で言ってくれたんですよ?」
「あのね、こんな村に緊急依頼なんかそうそう来るわけ無いじゃない。私がこの村に配属してから何年か経つけど緊急依頼なんて来たのは数回あった程度で受けたのなんて皆無じゃない」
「いえ、ありましたよ。今日の今朝方速達で。丁度良かったんで先程の女性に受けて頂きました」
「へぇ~」
興味が無くなってきたのか、適当な相槌をしながらテーブルに常備されているお菓子を口に運びながら仕事を続ける。
「今朝方ってまた随分と焦った依頼ね。なに、ペット探し?人探し?落し物探し?」
「なんで探し物なんていう誰でも出来る依頼を、緊急依頼だとしてもAランカーに受けさせるんですか。まぁ探し物の緊急依頼なんて聞いた事ありませんが。討伐依頼ですよ。ランクはC相当のものなのでAランカーが態々出向くものじゃないんですけどね」
「Cランクねぇ」
「ゴブリンとオークの討伐です。なんでも相手は大群である可能性があるのに、今受けている護衛兼討伐者が一人しかいなから、至急来てくれって」
ぽとっ
「ん?」
隣の下の方から物音がし、視線を向けると床には先程までフリージアが口に咥えていたお菓子が落ちていた。視線を上へ向けると、口を小さく開けたまま固まってる彼女の姿があった。
「先輩どうかしましたか?お菓子なんか落としちゃって。というか、床に屑が残ってると夜にゴキが寄ってくるから後でちゃんと掃除しといて下さいよ。先輩出てきて退治する時アドルフさん居なかったら私にやらせるんですから」
「…その場所って何処?」
「え、場所ですか?そりゃぁ台所とか部屋の隅とか書類の山とかに」
「誰がゴキの出現場所教えろって言ったのよ。さっきの子が受けた依頼場所は何処って聞いてるの」
「依頼場所ですか?確かヴァルケン鉱山――――」
「ほっ」
「――――の隣のアルタートゥム鉱山だそうです」
少しドヤ顔気味で言いいながら胸を張っているカトリナ。だが、次の瞬間隣に座っていたフリージアがガタッ!と椅子を後ろに倒しながらカトリナに襲い掛かる。だが、その事にまったく気づいていないカトリナは抵抗出来ずに顔面を掌全体で掴まれて、宙へ浮かされる。あまりの突然な出来事で状況が理解できないカトリナは「え、何!?ちょっ!?」と慌て始め、兎に角掴まれた掌を引き剥がそうと行動するが、その抵抗虚しく、むしろ指先に段々と締め付けられ始めた。所謂『アイアンクロー』というやつだ。
「な、に、よ、その答え方は!?変な溜めなんかして!!一瞬安心した私の時間を返しなさい!!」
「いだだだッ!いっ良いじゃないですか!!日頃の勉強の成果をご披露しようかと思っただけですッ!」
「こんな傍迷惑なご披露は要らないのよアンポンタン!」
「なんで先輩は怒り出してるんですか!?」
カトリナの断末魔とも言える問いに答えられる事無く、必死になって掴んでいる彼女の片腕をどうにかしようと色々と試してみたが、まったくビクともしない。その間、無慈悲に締め続けられる顔面への痛みに声をあげ続ける事しか出来なかった。
開放されたのはその30秒程たってかだろうか。開放されたカトリナは締め続けられた片手で擦りながら床に手と膝をつき、フリージアは一般女性を片手で掴んで浮かばせるのに疲れたのか肩で息をしている。
「…そのアルタートゥム鉱山は、今アドルフが依頼を受けている場所よ」
「アドルフさんが?じゃぁ先程言った一人しかいな云々の人って……」
「そうよ、あの馬鹿の事よ」
「でも良かったじゃないですか。Aランカーの方が応援に行くともなれば、アドルフさんの手間が省けますし」
「こっちの手間が倍増してるのよ!」
必死な形相で訴えてくるフリージア。もうカトリナの心の中では「そんな必死に訴えられれても……」という気持ちで一杯なのだが、そんな事を言ったらまたアイアンクローを喰らって締め上げられるという恐怖に駆られて何もいえなかった。兎に角あのアイアンクローはもう喰らいたくないから、まずは彼女を落ち着かせようと試みる。
「これでもし、あの子とアドルフが仲良くなったらどうなるのよ」
「仲良く、ですか……?いや、それは別にそれは良いことなんじゃ――――」
「どこに良い要素があるのよ!?私の華々しい将来設計を壊す要素満載じゃない!!」
「もうアイアンクローは辞め――――あ゛あぁぁぁッ!!!爪がっ!!爪がこめかみにぃッ!!?」
本音をポロッと溢した瞬間に再びアイアンクローを喰らうカトリナ。このアイアンクローも先程と同様に彼女が疲れるまで続いた。
手を離したフリージアは身だしなみが乱れたので整え始めるが、カトリナは痛みが蓄積されていた上に更に痛みが重ねられた事により、耐えられなくなって床の上に顔面を抑えながら転げまわる。
「あのね。ただでさえ、前の依頼の村娘の件のせいで私の理想としていたアドルフとの二人だけの結婚生活という理想の光景が崩壊しかけているの。もうこれ以上荒波立てるわけにはいかないのよ!」
「だったら先輩が告白でも何でもすれば良いじゃないですか。早めにケリをつけた方が荒波もたちませんし」
「それが出来たらこんな苦しんでないわよ!この馬鹿!!」
「えぇ……、まさかの逆ギレ」
あまりの理不尽に泣きそうだと思いながらも、そろそろ作業に戻らないとと思い立ちあがる。どうせこの様子だと彼女は作業できる様になるまで大分かかる、でもそこまで一杯あるわけじゃないから良いかと適当に決め付ける。だが、いくら先輩と言えど、ここまでやられっぱなしというのも癪に障る。せめてもの抵抗と思いながら彼女に聞こえない位に呟くのだ。
「……へたれ」ボソッ
どうせ聞こえなければ襲ってこない筈。そうたかをくくって席に着こうと腰を降ろしながらチラッとフリージアに目線を向ける。目に入ったのは、背中と顔を少しだけ此方に向けている先輩の姿だった。表情は読めないが、鋭い眼光が此方を見ているのを理解し「げっ」と声を漏らす。この様子だと先程のへたれ発言は聞こえていたらしい。
「……カトリナ。貴方、そこに直りなさい」
「じょ、冗談じゃないですか~。もういやだなぁ先輩はぁ」
釈明しようにも、実際言ってしまったのでどうしようもない。冷や汗を全身に掻きながら、説教は甘んじて受けるからどうにか物理攻撃だけは避けようと試みる。だが、言葉が出る前に恐怖心から体が勝手に後ずさり始めた。心臓の激しい鼓動が止まらないカトリナに、フリージアは急に笑顔になり始めた。
「そんな慌てなくていいわ。私は後輩に優しいから、逃げないなら許してあげる」
「ぅ……、ほ、本当に許してくれます?」
「えぇ、本当よ。私が嘘をつく訳ないじゃない」
後輩に優しいだなんて、先程自分に二度アイアンクローをかました人間の言葉じゃないという気持ちを抱きながらも、藁をも縋る思いで彼女のいう事を聞こうと震える身体の言う事をきかせてフリージアへと近づく。何故だろうか、許して貰えると言われている筈なのに嫌な予感しかないのは。そんな事は無いと自分の気持ちを誤魔化す様に彼女は引き攣った笑みを浮かべながら喋り続ける。
「い、いやぁ、すみません。口が滑っちゃったというか、なんというか本心からじゃないんですけど思ったことをポロッと口にしてしまって。一瞬殺されるんじゃないかって思っちゃいましたよ」
「ふふふ。殺すだなんてそんな物騒な事する訳ないじゃない。ちゃんと許してあげる」
「そうですよね、殺すなんて物騒な事しませんよね」
「そう、今なら指の一本で許してあげる」
「――――ダッシュ!!!」
マジで指折られるう五秒前。死刑宣告にも似た言葉を聞いた瞬間、カトリナは早朝でありながらも今自分が出せる全力を振り絞って逃げ出す。捕まってしまったら、長年苦楽を共にした10本内の1本の指を折られてしまうのだ。なんとか彼女が落ち着くまで逃げ切るのだ。
まだ殺す発言の方が大雑把な言い方で冗談だと言えるが、指1本という生々しい数字にマジで今のこの人ならやるんじゃないかという恐怖が襲って来る。
「腕一本でも生ぬるい……ッ!!」
何故二言目で1/10の指から1/2の腕に跳ね上がっているか疑問で仕方が無いが、聞くだけ無駄だろう。後ろから死神の声の様な言葉と共に走り出した音が聞こえるが、反応している暇は無い。きっと振り向けばあまりの怖さに腰が抜けることになるだろう。
こうして受付嬢二人による就業時間中の鬼ごっこが始まったのだ。