一歩
同期の香里は僕の目を真っ直ぐに見つめる。自然と体に力が入り、胸の鼓動が高鳴る。二人は動かない。
「このままで良いの?」
香里が仕掛けてきた。僕の心を揺さぶろうとしている。
「このままで良い。」
香里の作戦にはまるものかと抵抗をする。
「もう、時間ないよ?」
まるで僕は既に香里の術中にはまっているかのように笑みを浮かべている。時計の針の動く音だけが空間に響く。
「大丈夫。」
出した言葉とは程遠い心境だ。これで本当に良いのか何度も自分に問いかける。自分の選択を信じなければ男らしくない。今度こそ勝つんだ。言い聞かせる
「じゃあ、良いのね。行くよ?」
香里は真剣な表情に戻り、僕の様子を伺いゆっくりと右手にある紙コップを宙に持ち上げた。そこは空だった。
「残念。正解はこっちでした。」
香里が左手の紙コップを摘み上げると、十円玉が現れた。勝負はついた。僕の完敗だ。
「はい、今日もご飯はユウの奢りね。」
「マジかよ。これで何回目だよ。」
僕はテーブルにうなだれ頭を抱え込んだ。
「私の7連勝中〜。ユウって本当弱いね。」
満面の笑みを浮かべ僕の背中を叩く香里。7回も負け続けるとイカサマじゃないかとさえ思ってしまう。悔しい。
僕は自分の選択を信じなければと思ったが、実際はゲーム開始直後に左が正解な予感がしていた。本当は自分の選択を信じられなかったのだ。時間が過ぎて焦りが募り、自分の直感に疑いを持ち始めた。自分の選択が不安になり、最終的に選んだのは直感に反するもの。
母は自分を信じる勇気を持つことを願い、「勇気」という名前を僕にくれた。また僕は母の願いに応えられなかった。
香里と食事に行ってから間もなく、異動の辞令が香里に降りた。別れを惜しむ間もなく、香里は遠く離れた場所に行ってしまった。異動前の最後の香里との食事。ぎゅっと握った手のひらには汗をかいていた。想いを伝える機会を伺いながら、伝えられずに時間が過ぎる。時間と共に手から徐々に力が抜けていき、心の中では「もう良いんだ」と自分に優しく声をかけていた。
「もうユウに奢ってもらえないね。」
僕の隣を歩きながら悲しそうに下を向く香里。これが最後のチャンスだったと思う。自販機の光に照らされた香里の横顔。そのまま消えてしまいそうで胸が苦しい。僕は何度も「行け」と声にならない声で自分に叫ぶ。やっとふり絞って漏れたのは「そうだな」の一言だった。香里は目を閉じ、入った力を抜いたような息を吐くと「元気でね」と笑顔とは思えない笑顔を作った。香里の後ろ姿を追いかけるように香里の履いたヒールの音が遠ざかる。その後ろ姿が闇に消える光景は今も鮮明に思い出せる。
白いベットに沈み込んだ母親がこの世を去る間際に僕を見るその目に今にも消えそうな炎が見えた気がした。
「あと一歩。勇気があと一歩だけ踏み出すことができれば変わるわ。信じて進みなさい。」
母の目に炎が消えていき、母のこの最後の言葉は僕の頭に静かに響いた。その後は耳障りな機械音だけを覚えている。
昔からそうだった。母はいつも最後まで諦めない人だった。僕が小学6年生の時に父親が交通事故で死んだ。それから母は途方にくれる姿は見せず、朝から晩まで働いた。家庭の事情で僕の将来を狭めたくなかったらしい。やれることは全部やろうとする人で、僕の授業参観の日に仕事が入っていたが、前日に遅くまで残業をして、授業の始まる3分前に駆け込んできた。息を切らしながら全力で走ってきた母を見て、みんなが笑っていた。僕は下を向いて恥ずかしさを隠したのを覚えている。胸にほんのりと灯る温かさも表に出さなかった。受験前日、僕が諦めてベットに寝転んだ時も、夜食作るからもう少し頑張るように言ってきた。
香里がいなくなって5ヶ月がたった。サイレンのようなセミの声が周りの音をかき消す。最近、僕は自分が何のために生きているのか分からなくなっていた。仕事でミスが続き、上司は僕に対して不信感を抱いている。
今まで色んなことが中途半端で終わることが多かったが、仕事でも私生活でも自分には向いてないと思うほど手も足も出なかったことはない。ある程度器用にこなすことができた。逆に言うと前が見えなくなるほど仕事に打ち込んだり、熱を持って人と接したりしたこともない。
ずっと何かが頭にまとわり付いているような感じがする。それなりに収入もある、特に問題のない職場環境、それなりにやりがいのある仕事。何かに熱中できる人は尊敬する。ただ熱中する人が正しいとは思わない。抱えている違和感は、まるで目に見えている指に刺さったトゲが、なかなか取れない歯痒さのようだ。
今日の午前の営業が終わり、照りつける日差しの中で電車が来るのを待つ。いつもより頭がぼーっとしている。周りが見えているようで見えていない感覚。額から汗が流れているのが分かる。ハンカチを出して拭う気になれない。「暑い。何かがおかしい・・・。」
それは体調のおかしさが原因ではないことは分かっている。視界がより眩しく感じ、意識がさらに朦朧としてきた。駅のアナウンスが流れているようだ。だんだん身体の感覚が分からなくなる。
「あぶねぇ」
突然強い力で後ろに引っ張られた。僕は両腕とお尻に一瞬痛みを感じたと思うと目線が低くなっているのに気づいた。
「大丈夫?」
光の中でぼんやりと男性の顔が見える。
気がつくと白い天井があった。点滴がぶら下がっている。どうやら病院のようだ。誰かが助けてくれたんだろう。
「気がついた?」
ベッドのカーテンを捲りながら30代後半ぐらいの男性が僕を覗いている。シワのない青のストライプが入ったシャツに、肩幅にぴったりと合った紺のジャケット。白のパンツを履いた整えられた髭。アパレル関係の人だろうか。
「危なかったね。俺があと一瞬遅れたら線路に落ちていたよ。遠くから見ておかしな気がしたから全速力で走ったよ。諦めなくて良かった」
丸椅子に腰掛け、左手に持っていた缶コーヒーを開けて男性は飲み始めた。
「助けていただいたんですね。ありがとうございます。」
僕は頭痛に目を閉じながらゆっくりと起き上がる。
「無事で何より。先生呼ぶか。」
男性はナースコールを押した。間もなくして看護師さんと先生が来て、僕は熱中症と告げられた。明日の朝に家に帰れるとのことだ。
「じゃあ、お大事に」
先生の説明が終わると男性は立ちあがった。
「ちょっと待ってください。お礼させてください。」
「そんな良いって別に。他の誰かにその気持ちを使って。」
そう言って男性は去って行った。結局名前も連絡先も聞けなかった。
退院して数ヶ月後、僕は久しぶりに買い物をする気になった。市内は沢山の人で賑わっている。手を繋ぎ笑いあうカップル、チラシを配る人、女の子に声をかけてついていく男性。景色はいつも変わらない。12月25日に向けてショップの店員も気合が入っている。僕には縁がない。一緒に過ごしたい人は遠くへ行ってしまった。買い物をしようと思ったが、結局何も買わず、疲れてコーヒーショップに立ち寄る。ホットコーヒーで体を温めていると反対側の路上で下を向いて歩き回る10代ぐらいの女性が視界に入った。探し物だろうか。道行く人はその子を眺めてはそのまま通り過ぎる。コーヒーを飲み終えてもずっとその子は視界に入っている。僕はどうしても気になり、女の子のいる場所に通りすがるふりをして近づいた。
「ない・・・ない・・・」
女の子の口からは白い息が漏れている。やはり何かを探しているみたいだ。
「どうかしたんですか」
いてもたってもいられず、彼女に話しかける。人見知りの僕は普段なら間違いなくしない。みんな見ているばかりで声をかけないので、使命感のようなもの駆られた。
「大事なストラップを失くしたんです。」
「どんなやつ?ここら辺で失くしたの?」
高校生ぐらいだろうか。とても不安な顔で今にも泣き出しそうだ。
「丸い水晶がついたストラップで、水晶の中に紫色の花が入ってるんです。」
誰からもらったのだろう。こんなに必死に探すぐらいだ。
「一緒に探すよ。落とした可能性があるのはここだけ?」
「えっ、そんな悪いです・・・・」
「そんなに探してるなら、大事なものなんやろ?」
「はい、私の祖母からもらった大切なものなんです。さっき携帯を見たら失くなってて」
「いつ頃まであった?」
「今日お昼を食べるまではありました。それでさっきここでトイレに行って外に出て携帯を見て気づきました」
彼女は目の前のファッションビルを指差した。
「じゃあ、トイレから歩いてきた道を辿ってみよう。」
「本当に良いんですか?すみません。」
僕たちは思い当たる場所を探して回った。店員さんにも聞いたり、インフォメーションで落し物がないか聞いたり、とにかくそれらしきものがないか探した。周りの人から見られているのは気にしないようにした。一緒に探し始めて1時間は経っただろうか。二人とも流石に精神的な疲れがピークに達していた。僕は正直諦めかけていた。
「もう大丈夫です。本当にありがとうございました。」
その子の表情は申し訳なさと悲しさが入り混じったように見える。
「でも、どうするの?」
「私、あともう少しだけ探してみます。」
放っておけるわけがない。ここで帰るわけにはいかない。どうしても見つけてあげたくなった。ただ、くまなく探したが見つからなかったのが現実だ。
「トイレに行く前に行った場所は?」
「トイレの前は・・・ここの6Fでお昼を食べました。」
「じゃあ最後にそのお昼を食べたとこの周りを探そう。」
「本当にありがとうございます。すみません。」
彼女は少しほっとしているように感じた。僕だったらもっと早くに諦めていただろう。諦めず最後にもう一度探すこの子の姿はまるで母を見ているようだ。なんだか胸に込み上げるものがあった。
僕らは6Fにあるレストランフロアに上がり、女の子が昼食をとったレストランの周辺を探し始めた。数分後、エレベーター入り口のあたりに何かが落ちている。何か丸いもの。もしかしたらと思い駆け寄ると、水晶の中に紫の花が入ったストラップだった。
「見つけたよ。」
僕は思わず声を大きくしてストラップを持った手を高く上げた。彼女は駆け寄ってきて泣きながら喜ぶ。何度もお礼を言う姿を見て、自分が人の役に立てたことを嬉しく思った。見つけられたのは最後の最後まで諦めなかったこの子だ。僕はそう思った。さっき諦めていたら一生見つからなかった。諦める選択を彼女はしなかった。お礼に何かしたいと言われたが、何もいらないとその場から去った。数ヶ月前に助けてもらって、お礼をできなかった分を代わりにその子にあげたような気分だった。さすがに体力的に疲れたが、心は凄く軽い。その日の晩御飯は勢いよく食べた。
季節は変わり少しずつ暖かい空気があたりを包み込んでいた。仕事を終えた僕を上司がミーティングルームに呼び出した。最近のミスもそうだが、営業成績が悪いため、1時間ぐらい説教をされた。遠回しにこのままだとクビもありえると言われた。上司の顔を見ながらいっそのこと辞めてしまおうかと思った。職場を出ると、家に帰る気がせず、家の近くの公園のブランコに座ってぼーっとした。何かを考えているようで考えていない時間。無意味で無駄な時間を過ごす。
「ここ、良いかな?」
40代ぐらいのシワの入ったスーツを着た男性が隣のブランコを手で指す。黒い髪の間に所々白い髪が目立つ。別に誰のブランコでもないし、いちいち聞くなと思った。その男性は揺れるブランコを抑えながらゆっくりと腰掛けると、手に持っていたビニール袋に手を突っ込む。コンビニのおにぎりの包みを剥ぎ食べ始めた。家で食べれば良いのに。奥さんから追い出されたのか。ホームレスか。その男性を心の中でバカにした。
「君は何のために生きているの?」
男性は食べ終えたおにぎりの包みをビニールに押し込めながら話しかけてきた。なんだよいきなり。頭がおかしいのか。聞こえることのない悪口を言いながら適当にあしらおうことにした。
「自分のためですかね?」
みんな自分のために生きてるに違いない。
「自分のためか、おじさんはね、この13年間、家族のために生きてきたんだ。」
男性はほんのわずかにブランコを漕ぎ出す。男性は泣いているようだ。彼の膝を掴んでいる手には力が入っている。
「何かあったんですか?」
何かあったに違いない。僕はそう聞くことしか思いつかない。聞こえない悪口は消え始めた。
「家族を私が殺してしまったんだよ。」
殺した。それはこの人が本当に殺したのか。一瞬ゾッとしたが、そんなことをする人には見た目からは見えない。僕はただ黙った。
「1カ月前、私は家族と旅行に行く予定だった。そんな時に体調を崩し、妻と娘は二人でどこか出かけると言いだした。」
じっと地面を見ながら話をする男性。
「その時、私は胸の中が変にざわついてしょうがなく、二人で出かけないで家にいてくれと頼んだ。」
男性の目から涙が流れているのがはっきりと見える。
「でも、妻と娘は私のいうことを聞かなかった。私も胸騒ぎは体調のせいだということに無理やり言い聞かせた。」
なんとなく話の流れがわかってきた僕は、さっきまでこの人をバカにしていた自分を悔いた。
「二人が出かけてすぐに私は自分が間違っていることに気づいた。だから、妻と娘が家を出てすぐに走って追いかけたんだ。だがもう遅かった。二人の乗った車は家を出てすぐの交差点でトラックと接触して、二人とも即死だった。私が二人が家を出る前に止めていれば、私が後一歩早ければ今も一緒に過ごせたかもしれない。」
男性は自分が選択したこと、自分の直感を信じることができなかったことを後悔している。だがその後悔はもう遅い。僕は母のことを思い出していた。母が体調を崩し始めた予兆は冷静に考えると前から気づいていた。気づいていたが、疲れだろうとか、歳だからとか、それぐらいにしか考えなかった。病気が発覚したのは救急車で運ばれるほどに体を蝕んだ時だった。僕は自分を責めた。自分が早く医者に行くように伝えていれば。無理にでも引っ張って病院に連れて行けば。自分が母に苦労ばかりかけなければ。母が入院した日の夜、僕はずっと家で泣いた。泣いても仕方がない状態に、ただ泣いていた。悔やんでも変えられない事実を選んだのは自分だった。また目の前の異変に反応する一歩を踏み出せなかった。
男性は話し終えると冷静さを取り戻したのか、「ごめんね」と一言告げ、どこかへ行ってしまった。あの人はどこに帰るのだろうと思った。生きる意味を失った人は何を選ぶのか。
昨日公園のブランコで話した男性のことをぼんやりと考えながら会社まで歩いた。人のことを考えている場合ではない。僕はクビになるかもしれない。母の言っていた「あと一歩」を踏み出せない人間は沢山いるんだろう。あと一歩がとてつもなく遠くに感じる。
「しっかりしろよ」
会社に着く僕に気づくなり上司が言ってきた。「はい。」
それしか言えない。何をどうすれば良いのかは全く分からない。ただ、このまま仕事を辞めるともうどこにも行けないような気がしていた。僕はもう逃げられない。
「あと一歩」
母さんからずっと言われてきたのに、生きてきて一度も踏み出せた試しがない。それが原因で沢山のチャンスを逃してきたはずだ。やり方が分からないなら一歩を踏み出すための一歩からだ。まずは先輩に聞いてみよう。ちょうど3年先に入社した先輩が営業に行く準備をしていた。その人は営業成績社内上位3番以内に入っている凄い人だ。
「あの・・先輩、突然すみません。営業を上手くやるコツみたいなものはありませんか?もし良かったら教えていただけませんでしょうか?」
異性からが思いもよらない告白された瞬間のような表情で先輩は僕の顔を見た。
「珍しいな。お前からそんなこと聞いてくるとか。なんかあった?」
先輩のこの反応は当たり前だ。僕は入社して3年間、仕事についてのアドバイスを人に求めたことは一度もなかった。先輩に自分から話しかけに行くことなんて今日までなかった。いつもなんとなく自分の感覚でやって、それなりに営業も取れたという理由もある。営業成績の悪さを説明し、どうにかしたくて先輩に聞いたことを説明すると、口で言っても分からないからと、先輩の営業についてくるように誘われた。何かヒントを見つけられればとお言葉にあまえることにした。
その日は3件ほど先輩の営業について行った。先輩のやり方は当然のことながら僕とは違う。世間話から入りお客さんの警戒心を解き、お客さんの表情や仕草などをよく観察しながら話題や商談の運びを変えている。必ずお客さんの話はよく聞き、時には質問をしてさらにお客さんの気持ちや意見を引き出した。そこまでしてもタイミングや状況で商談が上手く成立しなかったり、断られたりすることもある。先輩はそのまま引き下がることはせず、先輩が独自に準備した資料を渡し、次回連絡する理由作りを欠かさなかった。営業先を出てからも必ずお礼のメールや連絡をその日中にする。僕は先輩の4分の1も動いていないことを思い知らされ、自分が恥ずかしくなった。
「やれることをやるのは前提だけど、ダメだと思っても、最後の一押しまでやり切ると、意外に商談成立に繋がる。失敗は誰でもあるからそこを恐れてやらないのか、やるのか、それはお前次第だ。」
最後の先輩の言葉は僕の中で一番印象に残った。今日の全てが驚くような内容で、自分の不甲斐なさを痛感させられた。
それから僕はまず先輩を真似て、実践しながら営業して回った。そんな簡単に先輩のように上手くはできないが、お客さんの反応もいつもとは少し違う。お客さんによってはちゃんと話を聞いてくれたり、商談成立はしなかったものの、また来て良いよと言ってくれたりする人もいた。なかなか結果には繋がらないが自分なりに工夫をしながら汗だくになりながらやってみた。その間は余計なことを考えずに済んだ。
2週間ほど自分がやれることをやったが、実際に契約を取れたのは1つだけだった。そんなに人生上手くは行かない。そんなんで上手く行けば誰も苦労はしない。だんだん余計な雑念が増え、足が重くなってきた。誰かをおんぶしながら歩いているような感覚だ。僕はまた戻るのか。
「戻る?」
僕の中に浮かんだ言葉が引っかかる。僕はそもそも何か変わったのか。僕は進んでいるのか。そもそもどこに進んでいるのか。先輩に聞いてやれるだけやってみた。
「やれるだけ?本当にやったのか?」
自問自答を繰り返す。やれるだけやったってどこまでやれば言えるのだろうか。誰かが評価してくれるのだろうか。自分がクビになるまで?契約がバンバン取れるようになるまで?母はどのように判断していたんだろうか。
「あと一歩ってどこから?」
苦しい。最近やたらと自分と話すことが多い。母を思い出すことも多かった。母にもっと聞いておけば良かった。誰か教えて欲しい。僕はどうすれば良いのか。誰か助けて。
「痛っ」
僕は歩道の段差に足を引っ掛けた。持っていたバックが宙を舞い、地面に書類をばらまく。道行く人が僕を見ながら通り過ぎていく。
「見るな。見るな。」
声に出さずに叫んでいた。目から涙が溢れて視界が滲む。グッと強く握った手のひらに小石が突き刺さる。
「大丈夫?」
見上げるとグレーのスーツを着た40代ぐらいの女性が僕のぶちまけた書類を拾っている。髪は後ろキュッと一つ結びにして、靴は長く履いているようだが、綺麗に磨いてある。僕はゆっくりと立ち上がり、その女性の方を見た。女性は書類を僕のカバンに詰めると、僕の汚れたスーツを優しく叩いて僕にカバンを差し出した。そして僕の目を真っ直ぐに見る。
「さっ、もう一踏ん張りよ。苦しんで、悩んで、泣いてからが始まりよ。」
女性はカバンを手に握らせて笑顔を見せる。
「ここを乗り切れば、きっと見える景色が変わるわよ。」
僕はその女性が母親と重なって見えた。女性は「頑張れ」と去り際に僕の背中を強く叩いた。僕はお礼を言うことを忘れ、何だか懐かしく、とても温かな気持ちに包まれていた。身体の中から力が沸き起こるような気がする。僕の中で何かが弾けた。
「もう一度。あと一歩だ。」
前を向いて歩き出す。会社に戻り今日回った営業先について振り返った。資料を作り、明日に備えていると、上司は何を言うでもなく僕の方を離れた場所から眺めていた。僕は気にしないことにした。ただ前に進むことだけ考えた。
次の日は準備した資料をカバンに入れ、営業に出た。回っては振り返りをして、あの手、この手を考えお客さんを訪問する。それから数日後、契約が一つとれ、そしてその次の日、前に回った営業先から新しい営業先を紹介してもらい、そこから契約が取れた。そうやって段々と契約数が増え始めた。
月の終わり、香里が僕たちの部署に帰ってくることになり、僕らは久しぶりに食事をすることになった。僕らはよく一緒に行っていた居酒屋に入った。
「おかえり」
香里の異動先での出来事や香里がいない間のことを話し始めた。
「戻ってこれて嬉しい。」
香里が安心したような表情で言った。
「またゲームやれるな。」
ゲームをやれるかどうかは正直どうでも良い。香里が帰ってきたことがとても嬉しい。あれから徐々に営業成績は伸び、この間は珍しく上司から「頑張っているみたいだな」と声をかけられた。
「なんか変わったね。」
香里はチューハイを飲みながら僕を見た。
「そう?別に何も変わってないけど。」
「ううん。なんか前とは全然違う気がする。」
僕は何も実感が湧かない。確かに営業成績は伸びたが自分自身が変わったというより、先輩に教わったことを実践しただけだ。相変わらず母の言っていたことがどういうことなのか時々考える。答えは出てない。そんなことより僕は香里に今度こそ伝えようと思っている。ずっと心残りで後悔していた。
僕たちは一通り食事を済ませ、店を出た。今日は天気が良く、雲一つ見当たらない星空だ。今は公園などがピンク色に染まる季節。僕はそれを利用するしかないと思っていた。お互い駅へ向かう途中、言葉をあまり交わさず一歩一歩ゆっくりと歩いている。あの時、僕は諦めてしまった。「もうあんなことは繰り返したくない。後悔はしたくない。」と心の中でつぶやく。僕は立ち止まると、香里の方を見た。
「あっ、あのさ、夜桜見にいかない?」
香里は一歩先を歩いている足を止め、しばらく振り返らなかった。突然の僕の誘いに驚いているのだろう。
「夜桜良いね。行こっ」
香里は振り返り、笑顔で僕の誘いを受け入れてくれた。それから二人で近くの公園に行き、光に照らされた桜の花びらを見ながら、二人の時間を楽しむ。自分たちの時間だけとてもゆっくりとした流れ方をしているような気がしていた。
「香里、もし良かったら付き合ってくれない?」
僕はようやく伝えることができた。好きになってからどれだけの時間が経っただろう。恐る恐る返事を待つ。
「どうしよっかな」
からかうように考える素振りを見せる香里。その姿を見て、きっと受け入れてくれると期待して返事を待つ。香里は少しずつ僕に歩み寄ってきて、僕の肩に香里の肩が触れた瞬間、「やっと言ってくれたね。遅いぞ。勇気のくせに」と言い僕の腕に手を回した。僕は内心飛び上がって喜びたいぐらいだったが、それはやめておいた。それから桜を見て回りながら、僕らは目が合う度に照れ笑いを繰り返した。
それから僕と香里は食事やデートを重ね、お互いの関係を深め、週末に遊園地に行った。園内は沢山の人で賑わい、僕らははぐれないように手をつないで歩く。「今日はこれと、これと、これと、これは絶対乗ろうね。」と香里は目標を定めた。きっと達成するまでは帰れないなと微笑ましく香里を見ていた。昼食を済ませ、僕と香里は午後のパレードを見るために場所を探す。
「ユウちゃん、ちょっと待って・・・ない・・・」
「ん?何がない?」
「ユウちゃんからもらったイヤリング。」
それは香里が異動する時に渡せず、香里が帰ってきて改めて渡したプレゼントだ。
「探したい。」
香里はそう言うと僕らが来た道を辿るように探し始めた。僕も一緒に歩いて探す。何だか前も同じようなことがあったような気がする。パレードが始まり、みんながそこに注目している中、イヤリングを探し回る。さすがにイヤリングの大きさに対して園の広さはとてつもなく大きい。いつかのように僕はいつまでイヤリングはあったのかを確認し、来た道を戻って行く。誰かが拾っている可能性もあると考えたが、この人混みの中、みんなアトラクションに夢中で地面を見ていないだろう。時間はどんどん過ぎていく。香里は泣きそうな顔をして僕に何度も謝る。僕は「気にしなくて大丈夫、きっと見つかる」と伝えると同時に自分にも言い聞かせた。このままだと香里にとって今日が嫌な思い出に変わってしまう。それだけは避けたい。僕の想いとは裏腹に時間だけが過ぎていく。
「ユウちゃん、本当にごめんなさい。もう見つからないかも・・・せっかくもらったのに・・」
泣いている香里。僕はこのまま諦めるわけにはいかないと思った。そしてこの1年に起きたことを思い返していた。駅で助けられた時、女の子のストラップを見つけた時、家族を亡くした男性、先輩の言葉、励ましてくれたスーツの女性。
「あと一歩よ」
母の言葉が聞こえた気がした。僕の中で何かがまた弾けた。
「香里、もう一度探そう。きっと見つかると思う。」
香里は涙を拭いながら小さく頷く。僕は今まできたルートや落ちている可能性がある場所をもう一度頭の中で考える。そして僕が香里の表情を見るたびに揺れていたイヤリングを思い出そうとした。その時何かが引っかかった。もしかしたらあの時かもしれない。僕は香里を連れて急いだ。そしてお昼を食べたテーブルの下にイヤリングを見つけた。泣きながら謝る香里を見ながら、僕は一つの答えを見つけた。
「あと一歩、それで景色は変わる」
この言葉はきっと1歩とかいつのタイミングかどうかが重要ではなく、何かにぶつかって、挫けそうになった時に、そこで諦めるのか、諦めないで進むかによって起こる結果が変わる。そして自分を信じて諦めずに進むことを母は伝えたかったんだと思う。
僕はそれから何かがあった時には必ず「あと一歩」と呟くようになった。