幼い恋。
小学5年の時に、その人を一目見て、恋に落ちた。一目惚れだった。
その人には妹が居て、保健当番だった私がその子の面倒を見て居た時のことだった。
「妹の相手してくれてありがとう」
「ううん、そんな……!」
顔を真っ赤にして、視線をそらして、頭が真っ白になっているから会話も続かなくて、それ以降ろくに顔をまともに見れなくなった私は好きだという気持ちだけを募らせることとなった。
時間は私を待ってはくれず、昼と夜を何度も繰り返して行くうちに、6年だった初恋の人は卒業していってしまった。後悔した。話せなかったことじゃない、顔を見れなかったことでもない。彼に対して行動しなかった自分に、とても。だから私はいつものように保険当番を続けて、ある日行動を起こすことに決めた。
「家はどっちなの?」
「こっち」
「そっか……じゃあ、行こうか!」
「うん」
誰かが迎えに来るまで、妹さんが家に帰ることはなかった。まだ時間は早い。なら、妹さんと一緒に家に行けばいいのだと、私は考えたのだ。
妹さんを利用するようで悪いと思いながらも、でも気持ちを伝えるんだと私は強く自分に言い聞かせて歩く。中学に上がった彼は、ごくまれに小学校に妹さんを迎えにきていた。家庭の事情とか、妹さん自身の問題とか色々あって、家では基本的に彼が面倒を見ているようだった。
私は、そういう彼を好きになった。だから、だから、彼を好きになった私のことも好きになってほしいと、切に願った。
「ここ」
「ここがおうち?」
「うん」
私はドアを開けた。だが、妹さんは入ろうとしない。もどかしい、私は真っ先に入った。
入ろうとしない妹さんを待つことはできなかった。彼が小学校のときに履いて居た靴の隣に、少し大人っぽい靴が脱ぎ捨てられて居るのを見つけて、胸が高鳴った。いま、この家に彼がいるかもしれない。兄弟は二人だけ、お父さんは日中は仕事をしている。数少ない彼との会話を思い出す。
靴を脱いで上がった、初めての彼の家の空気はひんやりとして寂しい。
廊下に聞こえてくるテレビの音で、彼がどこにいるのかすぐわかった。まっすぐに向かった。はやる気持ちに足がついてこない。もどかしい。ほとんど走るような早歩きでドアを開けた。
「うわっ」
「……!」
好きな彼だ。大好きな彼がすぐ目の前にいる。
彼は椅子に座ってくつろいで居た。私が勢い良く開けたドアの音でびっくりしたのか驚いているようだった。
目の前に立てた嬉しさと驚かせてしまった申し訳なさから、少し息を整える。一呼吸で落ち着けず、ふた呼吸めで私は、声を出そうと決意して、口を開いた。
「……」
でも、声は出なかった。こういうとき、何を話せばいいのか分からない。分からない、彼はどうしてそんなふうに私を見て、驚いているのだろう。
「……えっと……」
「……」
私は、彼の顔を見て、今まで一度も考えなかった不安がよぎった。何か言わなきゃ、何か……。そう言えば、彼といつもなにをはなしていただろう。彼は何を見ていたのだろう。彼は、彼は……。
彼は、少し警戒するように私を見ながらおずおずと言った。
「その……誰でしょうか……?」
まるで今まで会ったことがないみたいに。
好きです。名前しか知らないけれど、全然何も知らないけれど、だけれど……! 全ての想いは口から出てくることはなく、ただただ赤くなった私は、その場に立っているだけだった。
「……ねえ、ドアのところに立ったままだけど、どうしたの?」
後ろから続けて妹さんと彼の名前を呼ぶ声が聞こえ、心臓が跳ねる。慌てて振り向くと、多分、お母さんなのだろう。好きな人の面影がある女性が頑なに入ろうとしない妹さんをドアを開けながら入れてあげようとしていた。
「……」
私は、もう一度彼の顔を見て、両手を強く握り、うつむいて、一息吸って。
前から好きです。あなたのことを深くは知らないけれど、大好きです、と、その声も出せないまま玄関へと向かった。
「あらあら、あなたが連れてきてくれたの?」
「……」私は無言のまま、ぺこりとお辞儀をして、そのまま足早に立ち去った。妹さんと一瞬目があったが、特に何も言葉はなかった。
「たすかったわ、本当にありがとうね!」
と、背中に言葉を受けながら私は歩く。歩いて、早歩きして、走って、走って、走って……そして、誰もいないところで私は泣いた。妹さんを利用してしまった。お母さんに言葉すら返さなかった。なにより、今までの彼の目に一度も私は映ってはいなかった。そして、自分の気持ちを何一つ伝えらえない私自身に、ただただ悲しくなった。
幼い私はとても無力で、現実はとても残酷で、視界がぼやけながら見上げた空は清々しいほどに青かった。