噂の側室――壊れかけの幼子
信じられない。
私こと公爵家の一人娘、であり陛下の側室のフラウディア・テスカートが彼女を見て思ったのは、そんな言葉だった。
後宮中の噂の種、陛下の寵愛の子、とまで言われる彼女、ナンナ・フォン・アイゼンの噂はおおよそにしてこの通り。
陛下に食事を持ってこさせ、それどころか手ずから食べさせている。陛下はナンナに骨抜きで、ナンナの一言で国が傾くとさえ言われた。陛下はナンナに薬を盛られ、正常な判断力を失っているなどなど、現実味の薄い絵空事のようなものから非常にありそうな噂まで多種多様。
そんな根も葉もないような様々な噂が広まり、そして終息の兆しを見せないのは、ひとえにナンナが全く謎の人物だからということにある。一番最初の『夕食会』にさえ欠席で、陛下と夕食を共にしなかったにも関わらずその日の夜、陛下はナンナの部屋に入った。昼食会に出なかったのは、出る必要がないとわかりきっているからだ、と後宮中が噂した。
「……」
でも、こうして気を失った彼女を腕に抱いている今、そんな噂が全くのでたらめだということがわかった。
私がここに来たのは、ただの罰ゲーム。ちょっとしたゲームに負けた人間が、噂のナンナの部屋に入る。負けたのは私だった。
こんな場面に出くわすなんて、思ってもみなかった。メイドはいない。山のようにあると言われた宝石も調度品も家具も洋服入れしかない、それどころか側室なら誰しも部屋に常備しているであろうお菓子さえなかった。あるのは、ベッドと、そして隣の部屋にあるお風呂のみ。たくさんのお菓子があり、毎日贅を凝らした食事をしていると言われた彼女の体は皮と骨、それと僅かな筋肉だけで、必要な脂肪もごっそりと抜け落ち、まるでミイラのようにやせ細っていた。この命すら危ぶまれるダイエットを彼女自身の意思でしたわけではないことは、彼女の部屋を見ればわかる。
まだ遊郭のほうがもう少し趣向を凝らすであろう、機能的で無機質な部屋。ここで手足を投げ出しまるで死人のように座っているのが七歳前後に見える少女だなんて、にわかには信じられない。失礼を承知で言うならば、この部屋は、ただまぐわうためだけの部屋のように感じる。もっと言うなら牢獄だろうか。そして、このナンナは座敷牢のようなこの部屋で繋がれた動物のように扱われているのだろう。骨と皮だけになっても、男性のそれ独特のにおいが漂っている。まさか、お風呂さえ入る気力がないのだろうか? 確か、風呂と眠ること食べることをする気力がなくなったら相当な危険信号だというのをエステシャンが言っていたような気がする。でも肌はそんなに汚れてないし、正直、何日も入浴していない人間のにおいとも思えない。
小さなお菓子をナンナの口に詰め込んだあと、私はお風呂場に入った。
「……」
絶句、というほかない。縄に、手かせ、足枷。そんなものがなぜお風呂場にあるの? その答えの手がかりは、一番嫌な形で見つかった。金縁の湯船を軽く観察すると、無数のひっかき傷があるのだ。外から中へと延びる、中の人間が外へ逃げたくて必死にもがいた証拠だとも、言えた。
――ゴク。
私は生唾を飲み込んだ。ここであの幼い少女が必死になって逃げようと手足を動かして、でもできなくて――そんな光景を想像した。それはひどく犯罪的で……もしこれを行ったのが陛下でなければ、私は告発さえ視野に入れていただろう。
「……何、してるの?」
私はばっと、後ろを振り向く。信じられないことに、ナンナが立って、私をにらんでいたのだ。チョコレート一個上げただけなのに、なんでもう動けるの? 彼女の眼にはさっきまで死に行くはずだった人間だとは思えないほどはっきりとした意識が感じられた。回復力が高すぎる。あの子の衰弱ぶりは、しっかり食べて休養を取らないともとに戻らないくらい酷いものだったのに。
「そ、その、お風呂、綺麗だな、って思ってました」
「……やっぱり陛下、ほかの人にもこんなことしてるのね」
そう言って、ナンナは顔をしかめさせた。そんなわけないでしょう。私のお風呂場はバラがいっぱい浮かべてあって、石鹸もいい匂いがして、布で柔肌を磨くようにして入るのに……。こんなみえみえの嘘を見抜けないくらい、彼女の常識は歪められているのだ。これで同情しない人間は、自分のことしか考えていないほかの側室たちくらいだろう。
私のお風呂場とここにあるものとは、全然違う。ここにあるのは石鹸と、そしてブラシだけ。
「あ、あの、お風呂って、どうやって入ってるんですか?」
「自分では、入っていない。陛下が、首に縄つけて手足に枷つけて湯船に沈めてごしごし洗うだけ」
また、私は生唾を飲み込む。まるで、動物か――道具を洗うかのような。
「……さ、さっき、何を、していらしたんですか?」
「休んでた」
「休ん、でた?」
信じられない言葉に、私は絶句する。休む? 死ぬの間違いでは?
「うん。外に出たら、噂が耳に入って心が休まらない。夜は、陛下が来るから休めない。だから、昼しか休めない」
その論理は彼女の置かれている極限状態を如実に表わしているようで……だからこそ、寒気がした。
「な、なぜ、ベッドでお眠りにならないんですか?」
「このベッドで寝ると夜のことを思い出すから、嫌」
そう言って、ナンナは自らの体を抱くように、腕を交差させた。
今まで平坦で何の感情も見せなかった彼女が垣間見せた初めての動作。その動作で、私は確信した。
この人は、いや、この子はここにいてはいけない。
ここにいたら、いつかこの子は壊れてしまう。実際、壊れかけていたんだろう。毒や薬を警戒して餓死しかけるなんて、正気の沙汰じゃない。あと一つ。あと一つ彼女を追い詰めるような出来事があれば、それだけで彼女は取り返しのつかない深淵へと落ちてしまうだろう。それだけ、彼女の心は今、崖端にいるのだ。
「あ、あの、ナンナ様。その、ナンナ様さえよければ、その、後宮から出るお手伝いを」
「ありがとう。でも、いいよ」
ナンナはそう言って、顔を伏せた。
「リュカを探してやるから、って」
「え?」
「リュカを探してやるから、身体を差し出せ、ってさ」
そう言って、彼女は力なく笑った。
リュカって、誰? というか、人を探してるの? ……犯されてまでして?
「私が、その人を探しましょうか? どのような人なんですか?」
「リュカって名前だけ。顔も姿も性別も、わからない」
背筋に、冷たい汗が流れる。
じゃあ、陛下はどうやってそのリュカという人を探すつもりなんですか?
「その、陛下はそのこと、ご存じなんですか?」
「さあ。知らないけど、探してくれるっていうんなら、私は誰にだって、全力で尽くすよ」
「でも、何もわからないんですよね?」
「名前は知ってる。心も魂もわかる。……それだけわかれば、私たちはいつか会える」
狂った論調、支離滅裂な彼女の主張は、とても痛々しくて聞いていられなかった。でも、同時に感じる。それは絶望の中の、ひとひらの希望なのだと。その時ナンナが見せた花のような笑顔は、そう現すしかない。もう、ナンナの中で『リュカを見つける』というのは、唯一残った希望なんだ。それがあるから、ここで生きていけるんだ。たとえ見つかるはずがないとわかっていても、縋ってしまうもの。それが希望と言わずになんというのだろうか。
「……素晴らしい、ですね」
「そう? ふふふ、私とリュカの仲だけは、神様だって裂けないよ」
そう笑うナンナは年相応で……とても、愛らしいと思った。
「……会えるといいですね、リュカという人に」
「会えるよ、いつか」
そう自信を持って宣言する彼女は、明るい表情に満ちていた。見えない人影が、がけっぷちの彼女を支えているのか。そう思った時、私は窓の外で信じられないものを聞いた。
コン、コン。
窓の外で、ノックが。え? 窓の外? なんで? ここ三階……。
「ロウ」
私は、認識を改めた。弱々しい幼子は、もういなかった。窓の外を見た時の、彼女の『獰猛な』笑顔は空恐ろしくなるほど美しく、そして危うげだった。そして、私はこの日を一生忘れることができないだろう。
彼女の真実を、知ったこの日を。私の第二の人生が始まったこの瞬間を。