希望を語る日は―予兆など何もなく
うんざりだ。
私はいら立ちを抑えるため、杯を煽る。上質なワインに隠され、私が煽る杯にはいつものように猛毒が仕込まれていたが、膨大な魔力で無理やり解毒し、飲み干した。杯をテーブルにたたきつけると、周囲にいる給仕の侍女をにらむ。
「お前だな」
呆然と盆を持つ侍女をにらむ。
「……な、何のことでしょうか」
「この杯に毒を盛ったな」
「ま、まさか!」
私は杯に再び酒をついだ。杯に触れ、致死のものとなった赤い液体を、侍女の前に差し出す。
「飲め」
目を丸くして、侍女は私を見た。
「飲め」
ふるふると、力なく彼女は首を振る。
「お、お情けを。お、お許しを」
「何を言う。お前はこの杯に毒を盛っていないと言った。だから信用しているのだ。詫びのつもりで、本来なら私しか口をつけることの許されぬ杯を与えようというのだ。さあ、飲め」
「わ、私、は、私は、恐れ多くも陛下に、ど、毒を!」
そのまま平伏し、詫びを入れようとした侍女を、見下ろしつつ、言った。
「この者を地下牢に、いかようにでもして情報を引きずり出せ。三日以内にこの者の一族郎党を処刑台に」
部屋の外で待機していた騎士たちに命じ、侍女が何かを言う前に連れ出させた。
私はため息を吐くと、椅子にどっかりと座った。
「……ずいぶん、お疲れのようですな」
「……メイクリス」
侍女と入れ替わるように、初老の男性――宰相補佐のメイクリスがやってきた。補佐にしか過ぎない癖に私に妙に会おうとする厄介な人間だ。こいつも貴族なので表だって何もできないのが口惜しい。
「それにしても陛下、明日、ようやく側室を迎えられるようで。お祝い申し上げます」
ずいぶんと他人事だな。その側室は自分の娘だというのに。
聞けばその娘、十八だというのにまだ十四かそこらにしか見えないのだとか。ロリコン疑惑をかけられているのはわかるが露骨にこういうことをされるとさすがに辟易する。この前のように寝所にクスリで心を壊した幼女が放り込まれているということはなくなったが、それでもこういった縁談は後を絶たない。今回はメイクリスの家柄と役職が盾となって断りきれなかったというだけ。
適当にあしらって帰らせるか。
そう思いながら、私はメイクリス達を下がらせた。
一人で眠りたい。独りでゆっくりと眠りたい。暗殺者や毒に怯えることのない生活に戻りたい。
前世が懐かしい。あの人生は短かったけど、ミオと一緒にいることができた。でも今、私の隣にミオはいない。
だれもいない。寂しいよ、ミオ。
◇◇◇
さて、私は今王城の前にいる。しっかりとロウとフラウの手を握って、門の前に向かっている。
大丈夫だよ。ここは、あの国とは違うんだから。
そう自分に言い聞かせでもしなければ、プツンと何かが切れてしまいそうだった。
「もし、そこの番兵さん」
フラウが衛兵に話しかけた。彼は疑わしそうな目線を私たちに向けると、鼻を鳴らした。
「何の用だ」
「王様の花嫁を連れてまいりました」
「……通れ」
意外なことに、通された。どうしてだろうか。
その理由を私はすぐ後で知る。
◇◇◇
花嫁が逃げた。
その報を聞いたとき、私はほっとした。今回は自力で逃げることができるような気の強い娘のようだ。今まで人形のような子ばかりが送られてきたから、辟易していたんだ。
「……申し訳ありません」
宰相補佐がしきりに平伏しているけれど、気にならない。
「構わぬ。年頃の娘とは、そんなものだ」
私はその『年頃の娘』になったことがないけれど、きっとそうなんだろう。全身から生命力を溢れさせて、見る者すべてに恵みを与える精霊のような存在。それが、十代後半の女の子。
なってみたかった。私だって、手足が伸びきった、綺麗な女の子になってみたかった。なぜか今世は男に産まれてしまったけれど、次は女の子がいい。
――次、か。
いつから私は次の人生があることを当たり前だと思うようになったのだろうか。
ミオは、私を『片割れ』にしたときから、もうすでに『当たり前』だという感覚があったようだ。万を超えたあたりだったか。億を超えたあたりだったか。数えることをやめたころだったか。もう覚えていないけれど。
「とにかく、見つかったら、通して」
「はっ!」
「見つけた人に褒賞を上げたいから、とにかく、私の花嫁を見つけたと名乗り出てくる者がきたら、通せ。確認はせず」
彼は不思議そうに私を見た。
「確認を取ってる間にまた逃げられたらたまったものじゃないだろう? いいから、通せ。わかったな?」
彼は再び平伏して、下がっていった。入れ違いで、優奈が入ってくる。
「どうしたの? ずいぶん機嫌良さそうだけど」
「そう見えるか?」
彼女はいつものレディーススーツ姿だ。そのさながら男装のような格好を、もう奇異の目で見られることもなくなったという。彼女の事務的能力を示していった結果だろう。
「そうね。いつになく、って感じ。そんなに花嫁に逃げられたことが嬉しいの? 城中の噂よ?」
「ああ。今まですり寄ってくる女か前後不覚になった女しかすすめられなかったからな。こうして活気のある娘というのは、素晴らしい」
「手籠めにするため?」
私は鼻で笑った。
「私が? 冗談だろう?」
あんなことをするわけがない。だが、ほかの臣下はそう思ってくれないようだ。何かと、まるで神に対する供物のように送られてくる娘たち。それが私の心を頑なにさせると奴らが気づくのはいつの事か。
「ま、そうでしょうね」
事情を知っている優奈の反応は、こんなものだ。
「どれくらい逃げられると思う?」
「二時間」
優奈は辛辣だった。
「永遠に逃げ通してくれるといいよ。どこか勇敢な男性と知り合って、手に手を取って逃げ出すんだ。ああ、その男の人も後ろ暗いことがあるんだよ。でもそれは濡れ衣で、娘は冤罪を晴らそうと必死になる。そこで再び戻ってくるんだ」
「冤罪を晴らしに?」
私が語る想像上のストーリーに、優奈が乗ってくれた。物語の発展があまり見られないこの世界で、優奈は非常に退屈のようだった。
「そう。娘は見事、私を騙し抜き、冤罪を晴らす証拠を見つけ、男の不名誉を漱ぐ。綺麗な身になった男は娘の手を取って言うんだ」
『ありがとう。けど僕はまた罪を犯す。王様の花嫁を攫うっていう重大な罪を』
「手に手を取って逃げおおせて、どこかの田舎で末永く暮らす……また、べたで女の子受けしそうな物語ね」
「そうなればいいよ」
幸せになってほしい。王から逃げようと決意し、実行に移せるだけの強さがあるなら、どこででもやっていけるだろう。
と、その時、ノックがされた。
「なんだ」
口調を王様モードに切り替える。
「陛下。花嫁を連れてきたというものが参りました」
時計を見る。まだ一時間もたっていない。優奈を見ると、『そらみろ』とばかりに薄く笑った。
「誰が連れてきた」
「ロウと名乗る青年、フラウと言うドレスを着た女性と、ナンナと名乗る子供です」
「ナンナ?」
優奈が顔をしかめた。
「どうした?」
「ナンナ・フォン・アイゼン?」
優奈がファミリーネームまでを言うと、扉の向こうにいる男は驚いたような声を上げた。
「は、はい。そのように名乗りました」
優奈は厳しい顔を私に向けた。
「その子、東の暴虐王に召し上げられたっていう側室よ。
その実、奴隷みたいなものだったらしいけど」
「ならばなぜその娘がここにいる」
優奈は肩をすくめた。
「会ってみれば、わかるんじゃない?」
私は頷いた。
「よし、謁見の間に通せ。会う」
「はっ!」
男が返事をして、廊下を走る音が遠ざかっていく。
「優奈も、準備して」
「『男の王様』役も大変ね」
「ほんとにね」
私は微笑みかけると、公務用の豪奢なマントを羽織って外に出た。
さて、仕事を始めるか。
この時はそんな軽い気持ちだった。




