第三章 近づく距離
新学期が始まって数日経った。
2025年3月25日、火曜日。
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めて、窓の外を見た。
桜はもう散り始めてて、地面に薄いピンクの絨毯ができてた。少し寂しいけど、きれいだなって思った。私はベッドから出て、いつもの朝を過ごした。トーストを焼いて、母さんが置いてったメモを読みながらコーヒーを飲んだ。『今日も遅くなるよ、ごめんね』って書いてあった。いつものことだよ、母さん。
学校に行く準備をして、カバンを背負った。ノートとペン、それに昨日彩花と読んでた詩集を入れた。文芸部の時間、最近ちょっと楽しみになってきた。彩花の明るさに救われるし、昨日は悠斗とも少し話せたから、なんだか新鮮な気持ちだった。1年しかない私の時間に、新しい何かがあるって、不思議だ。
外に出ると、風が少し冷たかった。春なのに、肌寒くて、制服の上にカーディガンを羽織った。桜の花びらが足元に舞ってきて、私はそれを踏まないように歩いた。学校までの道はいつもと同じなのに、毎日ちょっと違う気がする。病気になってから、いろんなことに気づくようになった。
教室に着くと、みんながいつものように騒いでた。彩花が私の席にやってきて、「みさき、おはよー! 今日も文芸部行くよね?」って聞いてきた。
私は「うん、行くよ」って笑って答えた。彩花が「やっと春休み明けの部活っぽくなってきたね!」って言うから、「そうだね」って頷いた。本当は、私にとって全部が「最後」なんだけど、それは言わないでおいた。
授業が始まる前に、隣の席の悠斗を見た。彼は今日も教科書を眺めてるだけで、ノートは取らない。窓の外を見てることが多くて、時々目を細めるのが癖みたい。私はチラッと彼の横顔を見て、すぐ目を逸らした。かっこいいって言うか、静かで落ち着いてる感じがする。クラスのみんなはもう彼に慣れたみたいで、最初ほど話しかける子も減ってた。
1時間目の国語が始まって、先生が詩の朗読を始めた。私は詩が好きだから、つい聞き入っちゃう。
今日読まれたのは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」。
戦争に行った弟を想う詩で、切なくて、胸が締め付けられた。私はノートにその一節を書き写した。
『君死にたまふことなかれ、旅人の宿に若草の、妹と我と泣きしこと、思ひて我を泣かしむな』
死にたまふことなかれ…か。私にはもう1年しかないけど、誰かに泣かれるのは嫌だな。
ふと隣を見ると、悠斗が私のノートを覗いてた。目が合って、私は慌てて「ご、ごめん、変な癖でさ、気に入った詩書いちゃうんだ」って言った。
彼は「いいよ。俺も好きだ、その詩」って小さく言った。私はびっくりして、「ほんと? 晶子好きなんだ」って聞いたら、彼が「うん。言葉が強いから」って答えた。意外だな。無口な彼が詩好きなんて。
放課後、私は図書室に向かった。彩花は今日は用事があって来られないって言ってたから、私一人で文芸部の時間だ。図書室は静かで、窓から差し込む光が木の机に反射してた。私はいつもの席に座って、カバンから詩集を出した。
昨日読んでた宮澤賢治の「永訣の朝」。妹の死を悼む詩で、読むたびに胸が苦しくなるけど、なぜか好きだ。
ページをめくってると、図書室のドアが静かに開いた。誰か入ってきたんだなって思って、チラッと見たら、悠斗だった。私はびっくりして、「え、悠斗くん?」って声に出しちゃった。
彼がこっちを見て、「佐藤か」って言った。
美咲「うん、文芸部でここ使ってるんだ。悠斗くんも何か用?」
悠斗「本借りにきただけ」
彼がそう言って、本棚の方に歩いてった。私はちょっとドキドキして、彼の背中を見た。まさか図書室で会うなんて。偶然って、こういうこと言うのかな。
しばらくして、悠斗が本を持って私の席の近くに戻ってきた。手に持ってるのは、太宰治の「人間失格」。私は「それ、読んだことあるよ。面白いよね」って言った。彼が「うん。暗いけど、好きだ」って答えて、私の隣に座った。勝手に座られたからびっくりしたけど、嫌じゃなかった。
悠斗「佐藤って、詩好きなんだな」
悠斗が私の詩集を見て、ぽつりと言った。
私は「うん、好きだよ。言葉がきれいなのがいいなって。悠斗くんは?」って聞いた。
悠斗「俺は小説が多いけど、詩も読むよ。賢治とか、晶子とか」
美咲「一緒だ! 私もその二人好きだよ。特に賢治の『永訣の朝』とか、読むと泣きたくなる」
私がそう言うと、彼が詩集を手に取って、ページをめくった。「これか」って言いながら、その詩を黙って読んでた。私は彼の横顔を見て、ちょっと緊張した。無口な人だけど、こういうとこ見ると、繊細なのかなって思う。
悠斗「確かに、切ないな」
悠斗が詩集を置いて、そう言った。
私は「だよね。妹を想う気持ちがさ、胸にくるんだ」って言った。彼が少し目を伏せて、「うん。わかるよ」って呟いた。その声が小さくて、どこか寂しそうだった。私は何か言おうとしたけど、言葉が出てこなくて、黙っちゃった。
しばらく二人で本を読んでた。図書室の中は静かで、時々ページをめくる音だけが響いてた。私は賢治の詩を読み直して、悠斗は「人間失格」を読んでた。隣に誰かいるって、変な感じだ。彩花とはよく一緒に読むけど、悠斗とはまた違う空気だった。落ち着いてて、でも少し緊張する。
ふと、私の体が重くなった。胸が少し苦しくて、咳がこみ上げてきた。私は慌ててハンカチを出して、口を押さえた。ゴホッ、ゴホッ。咳が止まらなくて、ちょっと恥ずかしかった。悠斗がこっちを見て、「大丈夫か?」って聞いてきた。
美咲「うん、大丈夫。ちょっと喉が乾いただけ」
私は笑ってごまかした。病気のこと、絶対言えない。
悠斗が「水あるか?」って聞いてきて、私はカバンから水筒を出した。「ありがと、平気だよ」って言って、少し水を飲んだ。咳が落ち着いて、ほっとした。
悠斗「無理すんなよ」
悠斗が小さく言った。私は「うん、ありがと」って返したけど、心臓がドキドキしてた。彼、気づいてるのかな。何か隠してるって、わかってるのかな。でも、それ以上何も聞かなくて、私も何も言わなかった。
夕方になって、図書室を出る時間になった。私は詩集をカバンにしまって、「じゃあ、またね」って言った。悠斗が「うん。また」って返して、彼も立ち上がった。私たちは一緒に図書室を出て、学校の玄関まで歩いた。外に出ると、夕陽が桜をオレンジに染めてて、きれいだった。
悠斗「桜、好きか?」
悠斗が急に聞いてきた。私は「うん、大好き。春って感じするよね」って答えた。彼が「俺も好きだ。儚いから」って言った。儚い…か。私もそう思う。1年しかない私には、桜が特別に思える。
美咲「また図書室で会えたらいいね」
私がそう言うと、彼が「うん。会おう」って言った。私は笑って、「じゃあね、悠斗くん」って手を振った。彼も軽く手を上げて、反対方向に歩いてった。私はその背中を見ながら、胸が温かくなった。
友達、できるかな。1年しかないけど、悠斗と仲良くなりたいな。
家に帰ると、母さんがまだ帰ってなくて、私は夕飯を作った。簡単なカレーとサラダ。食べてるとき、今日のことを思い出した。悠斗との会話、詩集、桜。ノートを出して、日記に書いた。
『2025年3月25日。今日、悠斗くんと図書室で会った。本の話ができて、嬉しかった。彼、静かだけど優しい感じがする。咳が出ちゃって、少し焦ったけど、隠せた。1年しかないけど、こういう時間が大事だよね。普通に生きるって、こういうことだ。明日も笑顔でいよう』
ノートを閉じて、ベッドに寝転がった。
胸が少し重かったけど、今日は幸せだった。
悠斗、また会えるかな。