第一章 春、宣告
桜が咲いていた。
病院の窓から見える景色は、毎年見慣れたはずの春なのに、今日だけはどこか遠く感じた。
白いカーテンが風に揺れて、薄い花びらが一枚、部屋の中まで舞い込んできた。
私はそれを指でつまんで、じっと見つめた。
柔らかくて、少し湿った感触。
命があるみたいに、ほのかに温かい。
医師「佐藤美咲さん、検査結果が出ました」
医師の声が、静かな診察室に響いた。
目の前には、白衣を着た中年の男の人が座っていて、手元のファイルをぱらぱらとめくっていた。
名前は田中先生だったかな。
覚えておく必要もないか、なんて思った瞬間、心臓が少しだけ重くなった。
美咲「はい」
私は小さく返事をした。
喉が乾いてて、声がちょっと掠れた。
母さんは仕事で来られなくて、私一人でここに来た。
別に珍しいことじゃない。
シングルマザーで、私を育てるためにいつも忙しい母さんを責める気はない。
ただ、今日はちょっとだけ、一緒にいてほしかったかもしれない。
医師「結論から言うと、悪性の腫瘍が見つかりました。ステージは4で、すでに転移が進んでいます」
田中先生の声は落ち着いていて、淡々としていた。まるで天気予報でも読むみたいに。私、ちゃんと聞き取れてるかな。
頭の中で言葉がぐるぐる回って、意味を掴むのに時間がかかった。
腫瘍、ステージ4、転移、知ってる単語のはずなのに、全部知らない言葉みたいに感じた。
医師「治療の選択肢はあります。化学療法や放射線治療で進行を遅らせることは可能ですが、完治は難しい状況です。余命は、おそらく1年くらいと考えてください」
余命1年
その言葉が耳に刺さった瞬間、頭の中が真っ白になった。
目の前の桜が急にぼやけて、診察室の空気が冷たく感じた。
1年、、たった1年、高校2年生になったばかりの私に、残された時間がそんなに短いなんて…
田中先生「何か質問ありますか?」
田中先生が顔を上げて、私を見た。
目が合うと、急に現実に戻されたみたいで、慌てて首を振った。
美咲「いえ、大丈夫です」
嘘だった。
聞きたいことなんて山ほどあったよ。
どうして私なの? 他に方法はないの? 間違ってるんじゃないの? でも、口から出たのは、意味のない「大丈夫」の三文字だけ。
先生は少し困った顔をして、それでもう一度ファイルを閉じた。
田中先生「じゃあ、また来週、詳しい治療方針を決めましょう。ご家族とも相談してくださいね」
美咲「はい、ありがとうございます」
私は立ち上がって、頭を下げた。
膝が少し震えてたけど、なんとか歩いて診察室を出た。
ドアを閉めた瞬間、背中でカチッと音がして、それが妙に大きく聞こえた。
病院のロビーを抜けて、外に出た。
春の風が頬を撫でて、桜の花びらが足元に散らばってた。
私は制服のスカートを握り潰して、その場に立ち尽くした。
1年、頭の中でその言葉が何度も繰り返されて、でもまだ実感が湧かなかった。
16歳だよ、私、まだ高校生になったばっかりで、修学旅行も、体育祭も、文化祭も、これからがいっぱいあるはずだったのに。
美咲「嘘でしょ」
声に出して呟いてみたけど、風に消されて誰にも届かなかった。
空を見上げると、雲がゆっくり流れてて、いつもと何も変わらない春の空だった。悔しいくらいに、普通だった。
ふと、スマホがカバンの中で震えた。取り出して見ると、彩花からのLINEだった。
彩花『みさきー! 今日って部活どうする? 文芸部来るよね?』
彩花は私の親友で、いつも明るくて、クラスのムードメーカー。
文芸部は私と彩花の二人だけでやってる小さな部活で、放課後に図書室で本を読んだり、詩を書いたりするだけのゆるい時間だ。
私は少し考えて、返事を打った。
美咲『うん、行くよ。ちょっと用事あるから遅れるかも』
送信ボタンを押して、スマホをカバンに戻した。
彩花に言うつもりはなかった。
今言ったら、きっと泣かれる。
彩花って、そういう子だ。優しすぎて、すぐ泣いちゃう。私はまだ、誰かに泣かれる準備ができてなかった。
家に帰る途中、近所の公園に寄った。
小さい頃、母さんとよく来た場所だ。
ブランコに座って、足で地面を軽く蹴った。
軋む音がして、少しだけ体が揺れた。
目の前には桜の木があって、花びらが地面に積もってピンクの絨毯みたいになってた。
美咲「1年か」
今度は声に出して言ってみた。
自分に言い聞かせるみたいに。頭の中が少し整理されてきて、ようやく現実が追い付いてきた気がした。
泣こうと思ったけど、涙は出なかった。
代わりに、胸の奥がずっしり重くなって、息がちょっと苦しかった。
死ぬって、どういうことなんだろう。
考えたことなかった。
16年間生きてきて、死ぬなんて遠い未来の話だと思ってた。
母さんより先に死ぬなんて、想像もしてなかった。母さん、どうするんだろう。私がいなくなったら、一人になっちゃう。
考えたら、急に怖くなった。
でも、同時に、変な気持ちが湧いてきた。
1年って、短いけど、ゼロじゃない。
まだ時間があるってことだよね。
365日
8760時間
何かできるんじゃないか
何か、残せるんじゃないか
私はカバンからノートを取り出した。
文芸部で使ってる、詩や日記を書くためのノートだ。
ペンを握って、最初のページに日付を書いた。
2025年3月20日
今日だ、そして、思ったことをそのまま書き殴った。
『今日、医者に余命1年って言われた。末期がんらしい。信じられないけど、本当なんだと思う。桜がきれいだった。春なのに、寒く感じた。どうしよう。怖い。でも、泣かなかった。泣くのはもっと後にしよう。まだ時間がある。1年。短いけど、私にはそれが全部だ。どうやって生きよう。考えなきゃ。普通に生きたい。高校生らしく。笑って、友達と遊んで、恋とかして、悔いのないように。できるかな。私、頑張れるかな』
ペンを置いて、ノートを閉じた。
風が強くなって、桜の花びらが舞い上がった。
私はそれを目で追って、ふと思った。
きれいだなって。
私、こういうのが好きだったよね。
小さな幸せを見つけるのが得意だった。
病気になっても、それは変わらないはずだ。
家に帰ると、母さんはまだ帰ってなかった。
冷蔵庫にメモが貼ってあって、『遅くなるから、先に食べててね』って書いてあった。
いつものことだ。
私は冷蔵庫から牛乳を出して、コップに注いで飲んだ。
冷たくて、喉に染みた。
部屋に戻って、制服のままベッドに寝転がった。
天井を見ながら、今日のことをもう一度思い返した。
余命1年、末期がん。治療しても治らない。
頭の中でぐるぐる回って、でもさっきより少し落ち着いてた。
受け入れたわけじゃない。
ただ、ちょっと慣れただけかもしれない。
スマホが鳴って、彩花からの返信だった。
彩花『おっけー! 待ってるね。図書室で新しい詩集見つけたから、一緒に読もう!』
私は笑ってしまった。
彩花らしいなって、こういう普通のやりとりが、急に愛おしく感じた。
1年しかないなら、こういう時間を大事にしたい。彩花と笑って、本を読んで、くだらない話をして。そういうのが、私の「普通」だ。
立ち上がって、制服を脱いでカジュアルな服に着替えた。
カバンにノートとペンを入れて、図書室に向かう準備をした。
鏡を見ると、ちょっと顔色が悪い気がしたけど、まあいいや。
彩花に気づかれないように、笑顔でいよう。
玄関で靴を履いて、外に出た。
夕方になって、桜がオレンジ色に染まってた。
私は深呼吸して、歩き出した。
1年しかないなら、1日だって無駄にしたくない。
今日から、私の「最後の春」が始まるんだ。