第三章:悪意の囁きと冤罪の罠
エリスお姉様の婚約が決まってから、社交界の雰囲気は微妙に変わり始めていた。
グランツ公爵家は王国でも随一の権力を誇る家門であり、嫡男でもあるレオナルト様の婚約者となったお姉様は、注目の的となっていた。だが、それは必ずしも良いものばかりではなかった。
「エリス様は冷淡で、婚約者様に相応しくないのではないかしら?」
「笑顔ひとつ見せず、まるで人形のようだわ」
「公爵家の未来の当主を支えるには、もう少し愛嬌があってもいいのに」
陰でささやかれる噂は嫉妬を含んだ悪意あるものへと変わっていった。
——それだけなら、まだよかった。
それでもお姉様は動じなかった。どれだけ誤解されようとも、堂々としていた。誹謗中傷に耳を貸さず、毅然とした態度を崩さなかったのだ。しかし、それがかえって「傲慢だ」と捉えられてしまったのかもしれない。
決定的な事件が起こったのは、ある慈善活動の場でのことだった。
お姉様は孤児院を支援するための活動に参加していた。そこで偶然、一人の貴族令嬢——平民の母を持つエミリア嬢と接触する機会があった。
「まあ、エリス様。こんな場所にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「ええ。私はこの孤児院の支援に毎月関わっておりますので」
「まあ……それは素晴らしいことですわね」
何気ない会話だった。だが、その数日後。
「私の母が平民だから慈善活動に参加する資格がないって、エリス様に突き飛ばされて、階段から落ちたの……!」
エミリア嬢が青ざめた顔で訴えたのだ。
しかも驚くべきことに、証人まで現れた。彼らは口々に
「確かにエリス様が彼女を突き飛ばしていました」
「ずっ睨みつけていたのを覚えています」
と証言したのだ。
だが、お姉様はそんなことはしていない。そもそも二人でいた時間などないはずである。
「それはありえません」
お姉様は静かに否定したが、泣き崩れるエミリア嬢と証人たちの証言の前では、その声はあまりにも弱かった。
そして、運命の夜。
社交界の夜会で、貴族たちが談笑する中、突然響き渡った声があった。
「エリス・フォン・アイゼンハルト、貴女との婚約を破棄する」
会場の空気が凍りついた。
金糸を編み込んだ青いドレスを纏ったお姉様は、驚きも怒りも見せず、ただ静かに相手を見つめていた。
婚約者であったレオナルト公爵子息は、周囲の視線を受けながら、勝ち誇ったように続けた。
「貴女が令嬢を虐げたという証拠が揃っている。これ以上、見過ごすわけにはいかないのです」
レオナルトの傍らには、エミリア嬢がいた。彼女はレオナルトの腕にすがりつくようにして、怯えた顔を作りながらお姉様を見つめていた。別のところから声が上がる。
「私もその噂は知っています!」
「身分が下のものを見下していますのよ!」
「そんな方が未来の公爵夫人になるなんて……」
ざわめく貴族たち。エリスの名誉を踏みにじるような言葉に、彼女を非難する声が次々と上がる。しかし、私は知っている。
——そんなことをお姉様がするはずがない。
「お姉様はそのようなことはいたしませんわ」
私がゆっくりと歩み出すと、貴族たちの視線が一斉に私に集まった。
「ソフィア・フォン・アイゼンハルト……!」
ざわめきがさらに大きくなる。
「魔道具の天才令嬢……」
「でも証拠があるのでしょう……?」
戸惑い囁き合う貴族たちの視線を浴びながら、私はゆっくりと周囲を見渡した。彼らの目には驚きと警戒の色が浮かんでいる。
「証拠があるとおっしゃいましたわね? では、その証拠とやらを拝見できますか?」
レオナルトは少し表情を曇らせたが、すぐに自信を取り戻したように微笑んだ。
「もちろんだ。証人もいるし、確かな証拠もある。もはや言い逃れはできまい」
「なるほど。それでは、真実を確認させていただきますわ」
私が一歩踏み出した瞬間、お姉様はそっと私の肩に手を置いた。
「ソフィア。あなたの力を貸してくれるのは嬉しいけれど、落ち着きなさい。」
その言葉に、私は信じられない思いでお姉様を見つめた。
「何を言っているのですか、お姉様!これは偽証です!こんなもの、信じる価値もありません!」
しかし、お姉様は静かに微笑んだ。
「そうかもしれないわね。でも、私が何を言おうと、今の状況では誰も信じないでしょう」
私は信じられない気持ちでお姉様を見た。
「諦めるのですか……?」
「諦めるわけではないわ。ただ、今ここで騒いでも逆効果なの」
その言葉の意味を私はすぐには理解できなかった。
しかし、お姉様の目を見て私は悟る。彼女は決して自分の無実を諦めたわけではない。むしろ、私のことを案じているのだと。
レオナルトは勝ち誇ったように笑う。
「真実は変えられないからね。エリス、貴女との婚約を破棄する。そしてここにいるエミリア嬢への謝罪を要求する。」
その瞬間、私は怒りのあまり世界が音を失ったかのような錯覚を覚えた。
お姉様は微動だにせず、ただ静かに一礼した。
「婚約破棄の件、承知しました」
それだけだった。
その場にいた貴族たちがざわめき、誰もが好奇の視線をお姉様に向ける。まるで、目の前の優雅な貴族令嬢が、罪を認めたとでもいうように。
だが、私は気づいていた。
エミリア嬢への謝罪については、何も答えていない。そんな事実はないのだから。
あまりにもあっさりと承諾され,あっけにとられているレオナルトを置いて、立ち去るお姉様に続いて私も退場する。
お姉様を陥れたのは彼女なのだろう。でもあんな女ひとりでそこまで証拠を作り上げることは可能だろうか?
私の脳裏に、疑念が浮かび上がる。
——でも、私は諦めません。
私は静かに拳を握る。
必ず、真実を暴いてみせる。
お姉様を陥れた者たちを、絶対に許さない。