2,虚ろな現在
「なおくん、ご飯できたよ」
華恋の声で私は我に返った。
「ああ」
「どうしたの? ぼっとして」
まさか、君のことをずっと考えていた。あるいは妄想していた。そんなことは口に出せない。美しい思い出は宝石箱に収めてから心の奥深くにしまっておく。そして、時々そっと取りだしては愛でるものだ。
「別に……」
こんなつまらない男と、どうして彼女のような美しい女性が結婚できたのかは、摩訶不思議を通り越して令和の珍事と言っても差し支えないが、そっけない返事にも彼女はまるで気にする様子がない。
「恭くんがいないから、久しぶりに二人きりだね」
息子の恭介は夏休みを利用して野球の合宿に行っている。私は子供のことがあまり好きではなかった。彼は華恋の遺伝子を受け継いで、とても愛らしい顔をした少年に育ったが、それでも、やはりと言うべきか。私の彼に対する愛情は母親のそれには遠く及ばないだろう。
「ねえねえ、このあいだ小学校の同級生に会った話したでしょ? 覚えてる?」
「ああ、したっけ?」
「したよー、それでね――」
「そんなやつの話は聞きたくないし、お前も関わるな! それよりビールあるか? 飯はいいや、昼もカレー食ったし、ソーセージでも適当に焼いてくれ」
「あ、そうだよね……。ごめん。でもさ、カレーはなおくんが好きなスパイスカレーだよ、恭くんがいると甘いのしか作れないから、一口だけでも食べてみなよ、ビールにはカレーが合うし、ね?」
「いらねえって!」
華恋がどんな顔をしているのか、私には見ることができかった。ただ、想像はできる。それだけで心が張り裂けそうになるが、今の私にはどうすることもできない。ただ、内なる怒りと、己の使命の狭間で戦う孤独な戦士のように、少しずつ、少しずつ、カタツムリのように進み寄るしか道はない。
私たちは年を取り、もう四十歳になっていた。運命の出会いから三十年近くの月日が経過し、子供も生まれた。はたから見れば幸せな家庭なのだろう。しかし、その実、腐敗していく政治家のように、着実にその闇が家庭を蝕んでいった。
「あのさ、今日、覚えてる? 約束?」
「は? なんだっけ?」
「ほら、その……二人目を作ろうって」
脳内に響く舌打ちが、彼女に届かないように祈りながら、私は次の言葉を待った。
「もう四十歳だしさ、ギリギリだと思うんだ。ほら、なおくんも、女の子欲しいって言ってたでしょ? だったら――」
確かに女の子は欲しい。恭介が女の子であったなら、あるいは、もう少し可愛いと思えたのかもしれない。
「勘弁してくれよ、疲れてるんだ。それに、お前を抱くの? 俺が? こんなこと言いたくないけどさ、おばさんを抱くのしんどいって、いや、これはどこの家庭もそうだよ、うん、ちょっとキツイ、わかるだろ?」
私は拳を握りしめて耐えた。二人の為にも子供は必要ない。それが最善の道であるからこそ、この雑言にも耐えてくれ。ただ、そう祈るしかない。
「そんな、ひどいよ……」
「泣くなよ、うぜえな。明日はゴルフだから、七時に起こしてくれ、寝る、あと、戸締りはちゃんとしろよな」
華恋のすすり泣く声が、まるで時の流れを止めてしまったかのように感じられる。無数の感情が渦巻く中、ただ彼女の悲しみだけが確かなものとして存在していた。リビングに広がるその静かなる悲哀は、私の胸を締め付けるような痛みをもたらし、そこにいることさえ躊躇わせた。
しかし、今の私に言えるのは、もう少しだけ待ってほしい、ただそれだけだった。