3-2 変装
髪を拭き終え、湯浴みを終えて部屋へ戻る。ベルシオン国内なら、もう変装の必要はないはず。少なくとも、ここでは誰も私を裁こうとはしない。
―― あの無限ギロチンがどうなるかは分からないけれど、少なくとも今生のギロチンは回避できた。
閻魔大王、ざまあ見ろ!
その瞬間。
「イザベラ、報告だ!」
鋭い声が響いた。
心臓がドクンと脈打ち、思わず息を止める。背筋が凍るような感覚。
次の瞬間、影が揺らめき、跪く小太郎の姿が目の前にあった。
(もう……心臓に悪いったらない!)
突如現れた忍びに、一瞬とはいえ魂が抜けかける。彼らが音もなく現れるのには、そろそろ慣れたいところだけれど――やっぱり無理!
しかし、動揺を見せるわけにはいかない。冷静を装い、わざとゆったりとした気品ある動作で小太郎を見下ろす。
「お父様のことかしら?」
意識的に、貴族令嬢らしい上品な声音を作る。
小太郎は静かに頷いた。
「ジオルグ・ルードイッヒ公爵様は、イザベラの脱走幇助を疑われていたが、その疑いは晴れた。現在はお咎めなしの状態だ。――また、イザベラの無事を報告したところ、“頼む” と仰せだった」
“頼む”。
父――ジオルグ公爵がそう言ったと、小太郎は確かに告げた。
安堵が、じわりと胸を満たしていく。
よかった。お父様は無事で――
あれ?
……今、私 “お父様” って思った?
違う。彼は “イザベラの父” であって、私の父ではないはず。私の父は、石黒麗子の父親だ。
なのに、あの人の安否を知ったとき、私の心は確かに “娘としての安心” を覚えた。
……イザベラの感情が、私の中に染み込んでいる?
転生した私は、麗子だ。イザベラではない。
なのに、この安堵感は何だろう?
まるで、自分自身の父親を心配するような、深い感情の揺らぎがあった。
(……もしかして、イザベラの心が私の中に残ってる……?)
明確に記憶を覗くことはできる。けれど、人格は別のはずだ。前世の麗子としての価値観も、思考もそのまま。だが、それでも――
(私の心の中に、イザベラがいる……?)
わずかに震える指をそっと握りしめる。
(……いや、考えすぎよ)
今は深く考えるべきではない。
でも――この体が覚えている感情や思い出が、私の意識を侵食しているような気がする。まるで、“麗子” と “イザベラ” の境界線が溶け合っていくように。
(……まずいな)
小太郎は、この変化に気づいているのだろうか。私は “イザベラ” の記憶を持った転生者であり、前世の麗子としての意識を保っているつもり。でも、もしかしたら、周囲から見れば “性格の変化” として認識されているかもしれない。
転生者であることを悟られてはならない。
そう、間違いなく私は “転生” したのだ。
麗子が異世界の公爵令嬢イザベラに生まれ変わったのではない。
イザベラの体に “麗子” の魂が入り込んだのだ。
この違いは決定的だ。
ならば――私のすべきことは、“イザベラ” を演じきること。
私は麗子。でも、今ここで生きるために、“イザベラ” でなければならない。
思考を整理し、私は静かに微笑んだ。
「お父様に伝えて。私は、無事だと」
イザベラ・ルードイッヒの声色で。
思考を亡命先へと切り替える。今は感傷に浸っている場合じゃない。小太郎が真剣な話をしているのに、私がぼんやりしていては話にならない。それに――これは、私自身の問題なのだから。
麗子は深く息を吸い、イザベラの記憶を探りながら状況を整理する。
――ええと、ルーク・ベルシオンが王? つまり……?
脳内で思考のピースが次々と組み上がっていく。ルーク・ベルシオンが王座に就いている。ということは…… そうか! もう代替わりしているんだわ。以前から隣国に攻め込まれていたベルシオン王国だけれど、前王は結局早世してしまったのね。かつてはグランクラネル王国の属国のような立場だった。激動の時代、国の情勢は刻一刻と変化している。今はどうなっているのか。ここで情報を正しく認識しなければ、命取りになりかねない。
「ルークが留学生という名の人質として学院にいた頃は、ベルシオン王国は、事実上グランクラネル王国の支配下にあったわね……。実際、あの頃の彼は侮蔑と嘲笑の対象だった。でも、期限が切れて帰国した後は、独立国として微妙な関係になった」
言葉にしながら、当時の光景が脳裏に蘇る。学院では、高貴な血統を誇る王族や貴族たちが、ルークを陰で「見せかけの王子」「飼い犬」と嘲っていた。だが、その「飼い犬」はやがて檻から解き放たれ、猛き獣へと変貌したのだ――
小太郎は腕を組み、焚き火の明かりに照らされた顔に影を落とした。
「そうだな」小太郎が低く呟く。
「今は戦国の世。国と国の関係なんて、紙一重の均衡でしかない。グランクラネル王国は、ベルシオン王国への援軍派兵を口先だけで約束し、結局すっぽかした。それどころか、裏で戦争を煽っていたのも実はグランクラネル王国だ。相手を弱らせ、頃合いを見て言いがかりをつけ、征服するつもりだろう」
パチッ、と焚き火が弾ける。燃え盛る炎の向こう、小太郎の瞳が鋭く光った。
私の脳内に浮かぶのは、国境沿いの戦火に包まれた光景。血に濡れた大地、焦げた瓦礫、無残に横たわる兵士たちの骸……。戦とは、かくも残酷なもの。
――それにしても、グランクラネル王の狡猾さよ!
胸の奥がざわつく。
グランクラネル王家、親子そろって ろくでなし じゃない。
表では「同盟」と称しながら、裏では――人質がいなくなった同盟は無価値。ベルシオン王国の崩壊を虎視眈々と狙っていたなんて。まさに悪逆非道の限りを尽くす親子ね。あの王も、そしてその息子であるヘインズ・クラネルも、心の底から軽蔑するわ!
「同盟なんて、形ばかりのもので実際は裏で剣を交えているようなものじゃない」
私は吐き捨てるように言った。
「人質のいなくなった同盟など、破るためにあるようなものだ。両国ともそれは分かっているさ。最初から時間稼ぎの方便に過ぎなかったからな」
――なるほど、人質がいなくなった同盟は無価値。ベルシオン王国が今さら私を捕まえて人質にしようなんてことは、ありえないというわけね。
なるほど、私も 人質にされる価値がないということね。
あははは……。思わず笑いが漏れた。苦笑、というより自嘲に近い。第一王子の婚約者だった頃ならまだしも、今ではむしろ「殺してくれ」と言われる立場だものね。哀れね、私。未来の王妃から、今やただの逃亡者に成り果てるなんて。
思わず、髪をかき上げる。夜風がそっと頬を撫でた。
「落ちぶれたものね……王妃になるはずだった私が、追われる身だなんて」
ハァー……。
私の唇から深いため息が漏れる。
――こんな状況になったのは、 全部あの女のせいよ。
カトリーヌ・ベルセルク――!!
思い出した途端、心の奥底から 煮えたぎる怒り が込み上げてきた。
あの女さえいなければ、私は今も堂々と宮廷に君臨し、華やかなドレスをまとい、王妃教育の成果を存分に発揮していたはず。それなのに……!
王子の婚約者としての地位も、築き上げた名声も、誇りも……何もかも奪われた。
目を閉じると、過酷な王妃教育に耐えた日々が思い出される。夜遅くまで続く礼儀作法の指導、宮廷内の権力争いに巻き込まれながらも微笑みを崩さぬ努力、あらゆる学問を詰め込まれる地獄のような日々――
毎日朝から晩までマナーを叩き込まれ、歩き方一つで文句をつけられ、食事の仕方まで徹底指導された。
刺繍だって、ダンスだって、外交の知識だって、全部必死に覚えたのに――全部……全部無駄になったじゃない!
悔しさが煮えたぎり、胸の奥で燃え上がる。私は拳をギュッと握りしめ、腹の底から怒りを吐き出す。
「カトリーヌの奴、許せない……! 逃亡者になったのは全部あいつのせいよ。復讐よ! 倍返しにしてやるわ!」
怒りに震える私を見て、小太郎がゆっくりと問いかける。
「……お前はそれを望むのか?」
彼の声音は冷静だったが、その奥には何か別の感情が潜んでいるように感じた。彼の瞳は、火の光を映して妖しく揺れている。
復讐。
望まないわけがない。
だが、今の私には具体的な手段がない。どうすれば、カトリーヌを地獄に叩き落とせる? どうすれば、この怒りを形にできる?
そんな私の表情を見透かしたように、まるで私が言うべき答えをすでに知っているかのように、小太郎はふっと口角を上げた。
「……いい顔になったな」
焚き火が爆ぜる音が響く。
運命を変える夜は、まだ始まったばかりだ――。