48 リチャード・スピネル王の策と敗北
リチャード・スピネル王の策と敗北
一方、王都陥落の報が届く前、リチャード・スピネル王はベルシオン軍の進軍に焦燥を募らせていた。幕営の奥で机上に広げた地図を睨みつける。
「敵は堂々と布陣しておる……まるでこちらの動きを待ち構えているかのようだ。」
その声には苛立ちが滲んでいた。
対面に立つネルソン・スカバル公爵は、腕を組んだまま苦々しく言った。
「無謀な突撃は避けるべきですな。しかし、今の戦況では持久戦も不利……王よ、ここは策を弄するしかありません。」
リチャードは奥歯を噛みしめた。もはや堂々と戦えば敗北は避けられない。しかし、無策で屈するつもりもない。
「伏兵を潜ませ、夜襲を仕掛ける。さらに、少数の精鋭をもって敵の補給路を断つ。後方が混乱すれば、前線の敵も揺らぐはずだ。」
彼の言葉にネルソンは渋い顔をする。
「ベルシオンの王は愚鈍ではない。こちらの策が通じるかどうか……」
「ならば通じさせるしかない!」
リチャードは怒気を含んだ声で言い放ち、軍議は解散された。
しかし、その夜。
スピネル軍が動き出す前に、ベルシオン軍が先に動いた。
リチャード軍の伏兵は配置につく前に奇襲を受け、夜襲の準備を進めていた部隊は迎撃に遭い壊滅した。さらに、後方攪乱のために派遣された騎兵隊は、すでにベルシオンの斥候に察知されており、待ち伏せを受けた。
すべてが先手を打たれていたのだ。
戦場に響くのは、敗走するスピネル兵たちの悲鳴と、ルーク軍の怒涛の進軍を告げる軍靴の響きだった。
戦場から離れたスピネル軍の幕舎では、重苦しい空気が支配していた。
ランプの揺らめく光の中、地図を睨みつけるリチャード・スピネル王。
その背後にはネルソン・スカバル公爵、そして主だった将軍たちが控えていた。彼らの顔には緊張が走り、誰も口を開こうとしない。
その静寂を破ったのは、血相を変えた伝令だった。
「陛下……南部の諸城、すべて陥落しました……!」
リチャードは息を呑み、椅子の肘掛を強く握った。
「何……?」
「マルク公爵率いるベルシオン軍別動隊が、わずか数日で南部を制圧……そして……」
伝令は一瞬ためらった。だが、そのまま続ける。
「スピネル王城が陥落しました。……もはや王都は敵の手に落ちました。」
幕舎の中に静寂が戻る。しかし、それは先ほどまでの沈黙とは異なる、圧倒的な絶望の色を帯びていた。
ネルソン・スカバル公爵が深く息をつく。
「……終わったな。」
その言葉に、リチャードは机を拳で叩きつけた。
「まだ終わりではない!」
だが、その声にはかつての威厳はなく、焦燥と怒りが入り混じっていた。
誰もが分かっていた――王都を失った今、スピネル王国の命運は尽きたも同然なのだ。
そして夜明け。
戦場に轟く怒号と剣戟の音。その中心に、銀髪をなびかせ、紅蓮の瞳を燃やす男がいた。
「銀狼」ガリオン――その名を聞くだけで敵兵の顔色が変わる。
黒光りする愛馬『黒龍王』に跨る彼は、まさに戦場を支配する獣。馬上から振り下ろされるハルバードは、鋭く大気を裂き、敵兵をまとめて薙ぎ払う。その軌跡は血しぶきをまとい、銀色の軌道を描く。
「ガリオン様が前線に立つ限り、敗北はない!」
兵士たちが口々に叫び、彼を中心に戦線が推進される。その筋骨隆々たる腕が一閃するたびに、敵陣は崩れ、戦場には彼の踏みしめる轍が刻まれていく。
『黒龍王』の鉄蹄が地を踏み鳴らすたび、戦場の風が変わる。黒曜石のような毛並みを持つこの戦馬は、ただの馬ではない。戦の匂いを察知し、主の意思を理解するかのように突進し、時に敵の矛先を避ける。敵兵たちはその影を見ただけで逃げ惑い、恐怖に足をすくませる。
「遅い。貴様らの矛は俺には届かん」
その言葉とともに、ガリオンのハルバードが空を斬り裂く。戦場は彼の支配下にあり、敵兵の悲鳴がこだまするのみだった。
「敵の動きが遅いな……」
静かに呟き、金縁のメガネを指で押し上げる。
知略の才を持つケインズは、冷静沈着な軍師であり、ルークの右腕として戦場を操る。戦場の喧騒をものともせず、碧眼は敵陣の動きを一瞬で捉える。
「ケインズ様の策があれば、我々は負けることはない!」
兵士たちは彼の計略に絶対の信頼を寄せる。それは過去幾度も彼が戦局を覆してきたからだ。
「右の敵陣を囮に使う。中央突破は許さない。……王よ、ご判断を」
ルークに進言するケインズの声には、一片の揺らぎもない。しかし、その声を聞いたルークは、彼の意見を尊重しつつも、あえて大胆な戦術を選ぶことがある。
「王は時に、計算を超えた一手を打つ……そこがまた、面白い」
彼は微かに口元を歪ませ、メガネを押し上げる。彼の知性と冷徹さが戦局を支配するたび、敵は彼の策略にはまり、敗北を余儀なくされる。
銀狼の猛将と冷徹なる知将――二人の将星が揃う限り、ベルシオン軍は無敵である。
ベルシオン軍本隊が攻勢を強めると、スピネル軍は耐えきれず崩れ始めた。
「ひるむな! まだやれるぞ! 我に続け!」
リチャードは叫び、幕舎を飛び出す。
だが、その背中を見つめるネルソンの目には、諦念の色が浮かんでいた。
リチャードは血相を変え、大声を上げて兵を励まし軍を支えようとするが、彼の周囲では味方が次々と討たれ、もはや統制の取れた軍とは言えない有様だった。
その頃、リチャード軍の右翼のオーガスト・ドレット伯爵はすでに戦況を見極めていた。
彼の部隊はまだ健在だったが、もはや戦いに意味はなかった。ベルシオン軍がこのまま王都を掌握すれば、リチャードにはもはや勝機はない。
オーガストは剣を鞘に収めると、馬を進めた。
「ベルシオン王よ、」
彼は、戦場の中心に陣取るルークへ向けて堂々と歩み寄る。
「この戦いは終わった。私の軍は貴殿の指揮下に入る。」
ルークは静かに頷いた。その瞳には、戦勝の誇りではなく、さらに先を見据える冷徹な光が宿っていた。
こうして、スピネル王国の命運は決定的なものとなった。
黄昏の陽が赤々と燃え落ちる中、リチャード・スピネル王の軍勢は敗走していた。
足元は泥濘み、砕けた馬車の残骸や落とされた武具が無惨に散乱している。兵たちは疲労と絶望にまみれ、鎧の隙間から覗く肌は汗と血で汚れていた。互いに肩を貸し合う者、ぼんやりと虚空を見つめながら歩く者。誰の顔にも、敗北の色が濃く刻まれていた。
「陛下、このままでは追撃されます! 急ぎカニエラ城へ!」
ネルソン・スカバル公爵が焦燥の色を浮かべながら進言する。しかし、リチャード王は馬上で荒い息をつきながら、ただ険しい顔で前を睨んでいるだけだった。彼の豪奢な軍装は泥と埃にまみれ、まるで敗戦の象徴のようだった。
「なぜ、なぜこうなった……!」
握り締めた拳が震え、歯噛みする音が聞こえる。策を弄したはずだった。繰り返した奇襲も、すべてがルーク・ベルシオンの前に打ち砕かれた。まるで全てを見透かされていたかのように。
彼はこの戦を制するつもりだった。しかし、今や自らが追われる身となっている。
「オーガストの裏切りが痛かったな……」
ネルソンが苦渋の表情で呟く。ドレット伯爵の軍勢はベルシオン側に投降し、リチャード軍の右翼が崩壊する引き金となった。それが決定打となり、リチャード軍は瓦解したのだった。
「陛下! 夜が明ければ、ベルシオン軍が追撃を仕掛けてくるでしょう。カニエラ城で態勢を立て直すのです!」
ネルソンの言葉に、リチャードは歯を食いしばった。そして、仕方なく頷くと、乱れた軍を率いて東へと馬を進めた。
だが、その瞳には焦燥と怒り、そして滲み出る敗北の影が揺れていた。
夜風が吹き抜ける。疲れ切った兵たちの中には、すでに歩みを止め、道端に倒れ込む者もいた。戦場の亡霊のように、彼らは沈黙の中に取り残されていく。
「助けてくれ……」
誰かが震える声で呟いた。だが、その声に応える者は誰もいない。各々が己の生存のみに意識を向け、戦友を顧みる余裕などなかった。
遥か後方、ベルシオン軍の松明が列を成し、夜の闇に燦然と輝いていた。その光が、まるで死神の眼のようにリチャード軍を見据えているようだった。
「このままでは全滅する……!」
ネルソンは己の焦りを押し殺しながら思った。しかし、その横で未だ前を見据えるリチャードの姿に、彼は別の感情を抱く。
(だが、この男は最後の最後まで諦めることができぬか……)
リチャードは唇を噛み締める。心の奥で分かっていた。もはや、勝機などないのだと。
暗闇の向こうから、ゆっくりと太鼓の音が響いてくる。敵軍の進軍を知らせる合図だった。まるで戦場の鐘が、リチャードの運命の終焉を告げるかのように。
「カニエラ城にたどり着いたところで、果たしてどれだけの兵が残っているだろうか……?」
すでに城の糧秣は乏しいとの報告が入っていた。援軍など望めぬ。籠城は絶望的だ。
リチャードはそれでも前へと進むしかなかった。東へ、カニエラ城を目指して――。




