3. -1 変装
「小太郎、変装が必要よ」
服だけでは平民には見えないと判断してイザベラが手配を求めると、小太郎は深く頷き、落ち着いた声で返す。
「ただいま手の者を」
彼がそう言った瞬間、まるで影から生まれたかのように、斜め後ろに佇んでいたくノ一が一歩前へと進み出た。漆黒の装束がふわりと揺れ、夜の闇をまとったかのような気配を漂わせている。
「この者に、変装の手伝いをさせます」
「お願い」
小太郎が姿を消し、くノ一は床に膝をついて深々と頭を下げた。彼女の仕草は無駄がなく、凛とした緊張感が漂う。
変装の準備が始まると、イザベラはぐるぐると晒を巻かれ、細い腰の上に肉厚な偽装が施されていく。圧迫感に息苦しさを感じながらも、これも生き延びるためだと自分に言い聞かせた。土色の顔料が滑らかな白肌を覆い、そばかすを散らした顔へと作り変えていく。顔の造作はそのままなのに、くすんだ肌色とそばかすの効果で見事に別人のようだ。
さらに、口に含み綿を詰めると、頬がふっくらと膨らみ、輪郭が丸みを帯びたものへと変化した。唇を動かすたびに違和感があるが、顎が痛くてそもそも話したくないので、問題はないだろう。長い髪は帽子の下に押し込められ、もはやあの煌めく栗色の髪も、貴族然とした美貌も、ここにはない。
(これなら、さすがに誰も私だとは思わないでしょうね……)
鏡に映るのは、見知らぬ娘。顔色は悪く、貧相な頬、くすんだ唇。イザベラ・ルードイッヒなど、どこにもいなかった。
くノ一に軽く頷くと、タイミングよく小太郎が姿を現す。
(……もしかして、ずっと見てた?)
「では国境を目指しましょう」
小太郎の声に促されるまま、イザベラが馬車に乗り込もうとすると、彼はすっと扉を開け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「早く馬車に乗れ」
その横柄な口調に、イザベラは苦笑する。
(ほんと、小太郎って偉そうよね……)
馬車が動き出すと、舗装された煉瓦の道を滑るように進んでいく。しかし、次第に家々は消え、道はただの轍へと変わった。大地の鼓動を感じるほどに馬車は激しく揺れ、窓の外には果てしなく広がる大草原が広がる。
朝冷えの空気が肌を刺すように冷たく、けれども澄み切った青空が広がっていた。陽の光は黄金色の光輪を描きながら大地を照らし、どこまでも続く緑の波を穏やかに揺らしている。
ベルシオン王国――グランクラネル王国の東に位置する小国。小国ゆえに戦火が絶えず、他国からの侵略に晒されながらも、巧みに外交と戦争を繰り返して生き延びてきた国だ。
(グランクラネル王国との停戦協定はあと一年……表向きは平和でも、裏ではどんな謀略が巡らされているか分からないわね)
忍びたちはそうした影の動きに敏感だった。小太郎や彼の仲間たちは、この戦乱の世を生き抜くための生粋の情報屋なのだろう。
やがて馬車は国境へと辿り着く。
身分証を求められたが、小太郎が見せた偽造証を確認した兵士は何事もなく通行を許可した。
(……何を見せたのかしら?)
聞きたい気もするが、余計な詮索はしない。
ベルシオン王国に入国すると、道が滑らかになり、馬車の揺れが次第に小さくなっていく。舗装が整い、建物が見え始める――王都ベルシニアはもうすぐそこだ。
王城の背後には山々がそびえ、城下町はその南に広がっていた。山から流れる二本の川が街を守るように走り、王城に近い地区には官吏や軍人の住居が立ち並び、さらに外側には商業区や職人街が続いていた。
夕暮れ時、馬車は職人街の東の外れ、木々に囲まれた一軒家の前で止まる。ここも小太郎達のアジトの一つだ。『根の者』ーー各国に忍び込んで拠点を築き根を張っているスパイーーは方々の国に紛れ住んでいるのだ。
玄関前のロータリーに停まった馬車の扉が開く。冷たい夜風が吹き込み、ふわりとイザベラの頬を撫でた。外に降り立つと、館の影が闇に溶け込むように沈み込み、月明かりにぼんやりと浮かんで見える。
入り口には、メイドの姿をしたくノ一が恭しく待ち構えていた。
「いらっしゃいませ、イザベラ様。ここまで来れば、人目につくことはございません。王国の追っ手も届きませんので、どうぞ変装をお取りくださいませ」
くノ一の声音は穏やかだったが、その奥に張り詰めた緊張が滲んでいた。まるで、主君を守るという使命を帯びた刀のように、無駄な感情を削ぎ落とした声音だった。
柔らかく微笑みながら、彼女はそっと扉を開く。その仕草は優雅だったが、目の奥には鋭い光が宿っている。戦場の兵が武器を持つように、この者は “礼儀” を纏っているのだ。
イザベラは小さく頷き、馬車から降り立つ。森の空気はひんやりとしており、昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれていた。夜露を含んだ草の香りがかすかに漂い、湿った風がそっと頬を撫でる。
(ここが、私の新たな拠点……)
目の前に立つ館は、公爵邸に比べれば遥かに小さいが、それでも瀟洒な佇まいを持っていた。貴族の邸宅に相応しい、優雅な装飾が施された建物だ。
館に足を踏み入れると、外の冷気とは裏腹に、暖炉の火がゆらめく暖かな空間が迎えてくれた。廊下を進むと、イザベラの寝室へ案内される。貴族の館としては小ぢんまりとしているが、調度品は一級品ばかりだ。天蓋付きのベッドには繊細な刺繍が施され、上品なクローゼットは邪魔にならず、美しく磨かれた鏡台の銀の枠は優美な曲線を描いている。別室には彫刻が施された応接セットが置かれ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。まるで、公爵令嬢としての矜持を守るかのように、館全体が洗練された静謐な空気に満ちている。
それでも、心のどこかがざわついた。まるで、“亡命者” である自分にふさわしい場所がここであると突きつけられるようで――。
「浴室もご用意しております。旅の疲れを癒してくださいませ」
(お風呂……! ああ、助かった……!)
心の底からの安堵と歓喜が胸を満たし、思わず小さく息を弾ませる。転生してからというもの、この異世界の不便さには何度もため息をついたが、ことお風呂に関しては格別だった。
この世界では、風呂は贅沢品だ。平民なら桶に張った水で体を拭くだけ、王侯貴族ですら毎日湯浴みする者は少ない。しかし、イザベラ――いや、元・石黒麗子にとって、風呂に入ることは生きる上での必須条件だった。
(やっぱりお風呂は最高よね! 一日の終わりに温かいお湯に浸かる幸せ、これがなきゃやってられないわ)
お風呂という一言で気分が上がり、案内されるまま浴室へ向かう。
お風呂――それだけが今、私を生き返らせてくれる。
湯気が立ちこめる浴室に足を踏み入れると、心の底から安堵がこみ上げてきた。大理石でできた湯船には湯がなみなみと張られ、湯気が空気をふんわりと満たしている。
これは贅沢なんかじゃない。生きるために、必要なものなのよ。
前世では、毎日湯船に浸かるのが当たり前だった。でもこの世界では、それが叶わない人間がほとんどだ。公爵令嬢の立場だからこそ許される享楽。けれど――今の私は、公爵令嬢なのか? ただの亡命者なのか?
頭を振って考えを振り払う。
浴室へと案内されると、くノ一が手際よく湯を用意し、イザベラの変装を解いていく。
顔に塗られた土色の顔料が拭い取られ、くすんでいた肌が本来の白磁のような輝きを取り戻していく。帽子の下に押し込められていた栗色の髪をほどけば、絹糸のようなウェーブがふわりと広がった。
晒を解かれると、身体を締めつけていた圧迫感がふっと消えた。長時間の拘束から解放され、イザベラは思わず肩を回す。
くノ一の手で変装メイクを落とされた時、押し込んでいた綿のせいで腫れた頬がズキリと痛んだ。
「っ……」
思わず小さく息を飲む。お願いだから腫れたままにならないでよ……。
身体を洗われながら、晒を巻き付けられていた苦しさを思い出し、軽く身震いした。汗疹になっていないかとそっと肌を撫でる。大丈夫。ひどい痕は残っていない。
もう二度とこんな思いはごめんだわ。