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35 エンピナース城攻防戦  2   

 

 太陽が西の地平線へと沈み、空は深紅から群青へと移り変わっていった。冷え込む空気の中、城内の焚き火がぼんやりと周囲を照らし、ゆらめく炎の影が石壁に怪しく踊る。兵たちは緊張に包まれ、各自の武器を握りしめながら、遠くに蠢く敵の陣営を見つめていた。


 漆黒の夜がエンピーナース城を包み込み、冷たい風が石造りの回廊を這うように吹き抜けていく。遠くで松明が点々と輝き、まるで地上に浮かぶ星のように戦場を照らしている。城内の広間には燭台の炎が揺れ、壁に映る影がゆらゆらと蠢いていた。戦の夜特有の緊張感が空気を支配し、静寂の中に微かな鎧の擦れる音が響く。


 ジェームズ・スピネル公爵は重厚な木製の椅子に腰掛け、長机に広げられた戦地図を険しい表情で睨んでいた。その額には深い皺が刻まれ、光を反射する瞳は冷たい鋼のように鋭い。


「思った以上に城壁の損傷が激しい……。このままでは、あとどれほど持ちこたえられるか分からんな」


 低く響く声が広間に落ちた。どこか苛立ちを滲ませながらも、決して動揺を見せぬ威厳があった。


「とはいえ、我々の兵はまだ士気を保っています」


 アーロン・フレミング侯爵が冷静な口調で言い、椅子の背にもたれながら目を細める。その瞳は鋭く、獲物を狩る鷲のように状況を見極めていた。


「城壁の一部は崩れかけていますが、明日も同じ箇所を狙うなら、囮部隊を配置して敵の攻撃を誘い、その隙に奇襲をかけることができます」


「ふむ……悪くない策だ」


 ジェームズは顎に手を当て、指先で短く撫でるように触れながら思案に沈んだ。


 ビンセント・スプラス侯爵は杯を軽く揺らしながら、口元に薄い笑みを浮かべる。その優雅な仕草とは裏腹に、彼の目には冷徹な知略が宿っていた。


「ですが、問題は敵の数。我々は籠城する者、敵は攻める者。いくら地の利があっても、長引けば兵の疲労は避けられません」


「……確かにな」


 ジェームズは重く頷いた。刻一刻と状況が悪化していることは、誰の目にも明らかだった。


 そのとき、オーガスト・ドレット伯爵が静かに口を開いた。


「敵の動きを読むことが重要だな。リチャード王がどれほどの忍耐を持っているか……私はあまり期待していないがな」


 豪快に笑ってみせる彼の顔に、戦場を渡り歩いた歴戦の武将の余裕が漂う。しかし、その瞳の奥には獣のような鋭い光が潜んでいた。


「リチャードが苛立てば苛立つほど、我々にとって有利になる。やつの焦りを煽るのも手ではないか?」


 ジェームズは軍議の場に立ちながらも、心の内では苛立ちが燻っていた。リチャードの動きが想像以上に速い。戦機を見極める間もなく、この戦いに巻き込まれるとは——。彼は拳を握りしめ、内心の動揺を抑え込んだ。だが、それを悟られぬよう、あくまで冷静な表情を崩さず、部下たちを見渡した


 ジェームズはしばらく沈黙し、やがて口元を歪める。


「その手はありそうだな……」


 こうして夜の軍議は深々と続いていった。


 沈黙の中、かすかに薪がはぜる音が響き、甲冑の微かな擦れる音が闇に紛れて消えていく。遠くでは、夜風が廃墟となった村の瓦礫を吹き抜け、不気味なうなりを上げていた。この静寂が、まもなく訪れる惨劇の前触れであるかのように思えた。



 オーガスト・ドレット伯爵は軍議の輪の中で静かに佇んでいた。彼の細い指がワイングラスの縁をなぞる。表向きは忠誠を誓うジェームズ派の貴族だが、心の中では冷徹な計算を続けていた。

「リチャードの戦力は圧倒的か……。だが、奴は愚か者。ここで勝負が決まるとは限らん」

 彼の鋭い目は、攻城戦の行方を冷静に見極めるべく、虚空を睨んでいた。



 東の空が薄紅に染まり始めると、濃い霧が戦場を覆った。冷気が肌を刺し、城壁の上では兵士たちが震えながら身を寄せ合っていた。霧の向こう、地平線の彼方にぼんやりと浮かび上がる無数の影。それは、やがて血と炎に包まれる運命にある軍勢だった。湿った空気の中、兵たちは鎧を身にまとい、剣をしっかりと握りしめながら、来るべき戦いに備えていた。


 遠くで鳥の声が響く。それをかき消すように、突然、重低音が大地を震わせた。次の瞬間、轟音とともに巨大な岩が空を裂き、城壁へと向かって飛んでくる。砕かれた石片が四方へ飛び散り、兵たちは悲鳴を上げて身を伏せた。城壁が軋みながら崩れ、砂塵がもうもうと舞い上がる。負傷した兵士たちの呻き声が、戦場に陰惨な響きを添えた。


 リチャード・スピネル王は丘の上の指揮所で、煌びやかながら重々しい鎧をまとったまま、苛立った様子で戦場を見下ろしていた。その顔は赤らみ、焦燥が明らかに表れている。


「なぜまだ城が崩れんのだ!  昨日あれほど叩いたというのに!」


 苛立ちに満ちた声が、冷たい朝霧の中に響く。


 ネルソン・スカバル公爵は冷静に応じた。


「耐久力のある城壁です。ですが、今日も攻め続ければ、いずれは持ちこたえられなくなるでしょう」


「ならば早く落とせ!」


 リチャードが手を振り下ろすと、投石車が唸りを上げ、次々と巨大な岩を放った。城壁に衝撃が走り、砕けた石が雨のように降り注ぎ、粉塵が視界を覆う。



 城門の前に盾を構えた兵たちは、次々と飛来する石弾の衝撃を受けながらも、必死に陣を立て直していた。血と汗が混じった泥が地面を染め、息を切らしながらも彼らは矛を握りしめる。後方では弓兵たちが次の矢を番え、敵の接近を阻止すべく、城壁の隙間から狙いを定めた。


「くそっ……! すぐに補修班を送れ!」


 ジェームズは怒号を飛ばしながら、崩れかけた壁の一部を見上げた。亀裂がさらに広がり、細かな瓦礫が次々と崩れ落ちていく。


「敵の攻撃が激しくなってきたな……」


 アーロン・フレミング侯爵は冷静に状況を観察しながら、部下に指示を出していた。彼の声には揺るぎない自信があり、その立ち姿はまるで戦場の柱のように揺るがなかった。


「今が耐えどきです。持ちこたえられれば、敵の隙が生まれるでしょう」


 ビンセントは薄く笑う。


「リチャード王は焦っている。奴が焦れば、どこかで無理をするはずだ」


 激戦が続く。

 轟音、絶叫、金属がぶつかる甲高い音。すべてが混ざり合い、戦場は地獄の如き様相を呈していた。

 だが、やがてその勢いが僅かに鈍る。

 一瞬の静寂。

 そして、次の攻撃が始まる——。


 オーガストは瓦礫に腰掛けながら、戦場の混沌を眺めていた。彼の目は、次々と崩れ落ちる城壁、叫びながら駆ける兵士たち、血に塗れた地面を余すことなく捉えていた。しかし、心は冷めきっていた。


「まだだ……まだ時ではない」


 彼は自らの裏切りの瞬間を、まるで熟した果実が落ちるのを待つかのように、じっと見極めていた。


 焦るリチャード、耐えるジェームズ軍。天秤はゆっくりと傾き始めていた。


 太陽が天頂へと昇る頃、戦場はますます激しさを増し、歴史の分岐点へと向かっていた——。




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