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2ー5 忍び  

 

 変装を解いた小太郎が、鋭い眼光を宿したオッドアイで静かに考えを巡らせる。


「国外に逃れるとして、隣国の中ではベルシオン王国がお勧めだ」


「……ベルシオン?」


 イザベラは、その国の名に反射的に反応した。


「グランクラネル王国とは、親密というほどの関係ではない。身分が露見しても、おそらく突き返されることはないだろう」


 小太郎のぶっきらぼうな口調が、亡命の必要性を突きつけてくる。


 やっぱり、国外に逃げるしかない……


 そう分かってはいた。

 そして、逃げるならば、ベルシオン王国ーー


 麗子はイザベラの記憶をたぐり寄せ、ベルシオン王国に関する情報を引き出した。


 学園時代、社交の場で何度か会った人物がいる。


 ベルシオン王国第一王子、ルーク・ベルシオンーー


 ヘインズ・クラネルの婚約者として紹介された場で、彼と共に舞踏会のフロアを踊った記憶があった。


 彼は剣の腕も立ち、整った顔立ちを持つ美丈夫。

 小国の王子ながら、その隠れた人気は女子生徒の間で静かに囁かれていた。


 だが、ベルシオン王国はグランクラネル王国と複雑な外交関係にあり、誰もが積極的に近づこうとはしなかった。


「あの男の国……」


 窓の外を眺めながら、イザベラは静かに呟く。


 確かに、あの国ならば、政治の道具として突き出される可能性は低い。

 仮にグランクラネル王国が引き渡しを要求しても、そこまでして応じるほどの友好関係ではないはずだ。


 イザベラは小さく息を吐き、目を閉じた。


「……いいわ。ベルシオン王国へ行きましょう」


 次なる運命の舞台が、決まった。


 小太郎だけが頼りだった。記憶を確かめた限り、彼は信頼に足る男だった。


「今晩はここで夜を明かし、明日、国境を抜けよう。朝になったら馬車で迎えにくる。ここには誰も近づけないから、安心しろ」


 低く抑えられた声が静寂に溶けるように響く。次の瞬間、小太郎の姿は掻き消えた。まるで幻のように、そこにいたはずの影が一瞬にして霧散する。忍びの技なのだろう。記憶の中でも、彼は風のように現れ、そして消えた。


 イザベラは周囲を見渡した。窓には厚手のカーテンがかかり、隙間から差し込む月明かりだけが部屋を仄かに照らしている。壁際には、見慣れぬトランクがぽつんと置かれていた。蓋を開けると、中には平民の服が几帳面に畳まれている。上質な絹や金糸の刺繍が施されたドレスとは無縁の、粗い麻布のワンピースやシンプルなマント。それでも清潔に洗われ、干したての太陽の匂いが微かに残っているのが救いだった。


 イザベラはゆっくりとパーティードレスの留め金を外した。ふわりと床に落ちるドレスの生地は、夜の静寂の中でひっそりと音を立てる。くノ一から渡された部屋着に身を包むと、ようやく肩の力が抜けた。ベッドに腰掛け、そのまま柔らかな布団に体を沈める。


(ふかふか……転生前よりも寝心地がいいじゃない)


 予想外の快適さに驚きながらも、今日起こった出来事が次々と頭をよぎる。婚約破棄、処刑宣告、逃亡の手はず。急激な変化に脳が追いつかない。けれど、疲労の方が勝っていた。思考はやがて霞み、暗闇に溶けていく。


 ――そして、朝が来た。


 鳥のさえずりで目を覚ます。どこからか漂う朝露の匂いが、昨夜の混乱を夢の出来事だったかのように錯覚させた。


 イザベラは寝ぼけたまま身を起こし、傍らの庶民服を手に取る。姿見の前に立ち、それを体に当ててみる。


「どうかしら……平民に見えるかしら?」


 鏡に映るのは、転生前とは比べ物にならないほどの美貌。目の前の光景に、彼女は息をのんだ。


 ――これが私……鏡で見ると、凄いわね。


 思わず視線を巡らせる。腰のあたりまで伸びた、栗色のウェーブがかった髪は、朝の光を受けて艶やかに揺れる。エメラルドグリーンの瞳は宝石のように煌めき、真珠のように白く滑らかな肌にはほんのりとした血色が差している。豊満な胸、折れそうなほど華奢な腰、丸く形の良いお尻、すらりと伸びた四肢。そのすべてが、完璧な調和を成していた。


 ふと、悪戯心が湧く。イザベラは下着姿のまま、モデルのようにポーズを決めてみた。


 ――前世でもそこそこ自信はあったけれど……これはレベルが違うわね。


 美しい曲線が映し出されるたびに、思わずうっとりしてしまう。


(これで婚約者を奪われるなんて、信じられないわ)


 納得がいかず、唇を尖らせる。


「男って、大人しそうで、ちょっと見優しげな子が好きなのかしら……?」


 鏡に向かって、指で目尻を下げてみる。頼りなげで儚げな雰囲気を演出しようとするが、すぐに虚しくなった。ため息とともに手を下ろす。


 ――駄目ね、どうやっても漂う悪女感は消せないわ。


 それにしても、このままでは美しすぎて目立ってしまう。平民服を着たところで、誰の目にも異質に映ることは間違いない。


「変装が必要ね……」


 そう呟きながら、彼女は姿勢を正し、意を決して声をかけた。


「小太郎、いるんでしょう?」


 次の瞬間、空気が揺らぐ。


 シュッ、と風を切るような音とともに、小太郎が目の前に跪いた。まるで最初からそこにいたかのように。


 ――やっぱり、いたのね。


 一瞬で全身に血が上る。


(え、待って、私、今さっきまで下着姿でポーズ決めてたじゃない!?)


 羞恥心が爆発し、顔が一気に真っ赤に染まる。


(……え、まさか見てた? いやいや、そんなわけ……)


 ちらりと小太郎の顔を盗み見る。だが、彼の表情は微動だにしない。冷静沈着、まるで何事もなかったかのような無表情。


(くっ……! ちょっとくらい赤面するとか、視線を逸らすとかしなさいよ!)


 イザベラはぎりぎりと歯を噛みしめた。どうにも納得がいかない。このままでは、完全に「見られ損」ではないか。


 (くそっ……忍び相手にプライバシーなんてないのね……!)


 それでも、羞恥に震える彼女をよそに、小太郎は何事もなかったかのように口を開いた。


「支度は整ったか?」


 どこまでも平静な声。


 ……その余裕が、ますます癪に障った。



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