33ー1思いがけない一日 1
煌びやかな宮廷生活に慣れたイザベラだったが、その日は何かが違っていた。王城の窓から城下を見れば、胸の辺りがざわついた。
秘密の抜け道を使いあやめと一緒に城下に気晴らしに出かけることにしよう。
「たまには城の外にでて、息抜きをしたいのよ。この気持ち、あやめにもわかるでしょう」
「はい。理解いたします。お嬢様」
***
市場の通りを歩くうちに、ふと鼻をくすぐる甘く香ばしい匂いに足を止める。こんがり焼かれた焼き菓子が屋台の鉄板の上でジュウジュウと音を立て、たちまち彼女の食欲を刺激した。黄金色の表面がカリカリに焼き上がり、割れ目からとろりとした蜜が覗く。見た目だけでわかる。これは絶対に美味しい。
「……あら、これは」
気品を保たねば、そう思いつつも、イザベラは気づけば銀貨を差し出し、一つ買い求めていた。
一口。
カリッとした食感の後に広がる、優しい甘さと芳ばしさ。中の餡は熱々で、とろりと舌の上に広がる。
「なにこれ……! 外はカリカリ、中はとろり……! こんなに美味しいもの、貴族の晩餐会にもなかったわ!」
感嘆の声を上げると、通りを行き交う庶民たちが驚いたように足を止め、彼女を見つめていた。美しく洗練されたドレスをまとった貴族の令嬢が、屋台の菓子に夢中になっている。そんな光景を見たことがないのだろう。
「……お嬢様、お行儀が……」
付き添いの侍女・あやめが、小声で忠告する。しかし、イザベラはそんなことを気にしている場合ではなかった。もう一口、もう一口と手が止まらない。
すると、屋台の店主がニヤリと笑って声をかけてきた。
「お嬢さん、お口に合いましたかい? それなら、こっちの焼きリンゴもおすすめですよ」
「えっ……焼きリンゴ?」
誘われるままに一つ手に取ると、シナモンの香りがふわりと立ちのぼる。かじると、しっとりと煮詰められたリンゴの甘みがじゅわっと広がり、これまた絶品だった。
「ああ……これもすごく美味しい!」
イザベラの感動が伝わったのか、周囲の庶民たちがどっと笑い、次々と美味しい屋台を勧めてくる。
「お嬢さん、ここの肉串も絶品だぜ!」
「いやいや、あんた、この揚げパンを食べなきゃ損だよ!」
「スープも温まるぞ!」
庶民の活気ある声に囲まれ、イザベラは次々と勧められるままに食べ歩きを続けた。
ふと気づくと、あやめが呆れたようにため息をついていた。
「お嬢様……もう、いい加減にしていただけますか?」
イザベラは口元を拭いながら、くすりと微笑む。
「たまにはこういうのも、いいじゃない?」
気取らない美味しさと、庶民の温かさに触れたひととき。彼女の心に、小さな満足感が広がっていた。
イザベラは慌てて姿勢を正し、優雅な微笑を浮かべながら咳払いした。
「……少し、はしたなかったかしら」
そう言いながらも、指先に残る焼き菓子の余韻が忘れられない。表面のカリッとした食感と、中からとろりと溶け出す甘いクリーム。貴族の晩餐では味わえない、素朴でありながらも奥深い味だった。
しかし、周囲の庶民たちは驚きながらも、どこか嬉しそうに彼女を見つめている。
「あの……お嬢さん、ここのハーブ入りミートパイも美味しいですよ!」
イザベラの品のある佇まいと、先ほどの幸せそうな食べっぷりに親しみを感じたのか、次々とおすすめの屋台を紹介してくる。
「まぁ……そんなに美味しいのかしら?」
興味を惹かれたイザベラは、そっと差し出されたミートパイを受け取り、ひとくち齧った。
「……っ! これは……!」
サクサクとしたパイ生地の中から、ハーブの香り豊かな肉汁があふれ出す。じっくり煮込まれた肉の旨味が口の中いっぱいに広がり、ほんのり甘い香辛料の風味が後を引く。
「とても……美味しいわ!」
彼女が感激の声を上げると、屋台の主人は満面の笑みを浮かべた。
「へへっ、お嬢さん、見る目があるねぇ!」
「いやぁ、貴族の方がこんなに庶民の食べ物を喜んでくださるなんて、光栄だな!」
庶民たちが和やかに笑う中、イザベラはすっかり屋台の魅力に取り憑かれていた。
「……お嬢様、本当にそろそろ……」
あやめがそっと袖を引くが、その手にはしっかりと焼きリンゴが握られていた。
「……あなたも食べてるじゃないの」
「こ、これはその……せっかく勧めてくださったので……」
侍女としての矜持よりも、美味しそうな香りが勝ったのだろう。あやめが視線を逸らしながら小さく言い訳する。
そんな二人のやり取りに、庶民たちは笑い声を上げた。
「お嬢さん、次は屋台名物の串焼きなんかどうだい?香辛料が効いてて、酒のつまみにも最高なんだ!」
「まあ! それはぜひ──」
「イザベラ」
穏やかに名前を呼ぶ声が響いた。
その瞬間、屋台の賑わいがすっと静まる。
イザベラが振り向くと、そこには王宮の正装に身を包んだルーク・ベルシオン王が立っていた。どこか呆れたような笑みを浮かべ、腕を組んで彼女を見つめている。
「陛下……」
「ずいぶん楽しそうだな?」
ルークはゆっくりと歩み寄り、彼女の手元のミートパイに視線を落とす。
「君がここまで庶民の食に感動するとはな……これは、私も味見するべきか?」
庶民たちが驚きの表情を浮かべる中、イザベラはふっと笑った。
「陛下、貴族の品格を保つことを忘れてはなりませんよ?」
「それを言うなら、君もな」
ルークはイザベラの唇についたクリームの欠片を指先でそっと拭い、彼女の手からミートパイをひとくち齧った。
その瞬間、屋台の人々からどっと歓声が上がる。
「おおっ! 陛下も召し上がったぞ!」
「貴族の方々も、たまにはこういう食事を楽しまなきゃな!」
ルークは満足げに頷きながら、イザベラの目をじっと見つめた。
「悪くないな。こういう時間も……悪くない」
彼の言葉に、イザベラは苦笑しながらも同意せざるを得なかった。
その後も二人は連れ立って屋台を巡った。道端の焚火で焼かれた栗を分け合いながら、ほくほくとした甘さに思わず微笑み合う。湯気の立つスープを手に取ると、冷えた体がじんわりと温まった。
ルークは屋台の子供たちと短剣投げの腕を競い、見事な正確さで的の中心を射抜いた。子供たちは大歓声を上げ、王自らの参加に大喜びする。
「ほら、次は君の番だ」
「私が? こんな遊び、したことがないのだけれど……」
イザベラが渋ると、ルークは優しく手を添えて短剣の持ち方を教える。
「こう持って、力を入れすぎずに投げるんだ」
彼の手の温もりに戸惑いながらも、イザベラはそっと短剣を投げる。見事、的の端に突き刺さると、周囲から拍手が沸き起こった。
「お嬢さん、なかなかの腕前だ!」
「やったじゃないか、イザベラ」
「ふふ……悪くないわね」
さらに、くじ引きではイザベラが美しい装飾の髪飾りを引き当てた。
「おおっ、当たりだ! これは姫様にぴったりだな!」
ルークがその髪飾りを手に取り、イザベラの髪にそっと差し込む。
「……よく似合っている」
「ありがとう……」
まるで普通の恋人のようなひとときを過ごし、二人の距離はほんの少しだけ縮まった気がした。
こうして、庶民の屋台での時間は、いつまでも心に残る温かな一日となった。




