32 ー1 リチャードの疑い
スピネル王国の軍議の間には、沈黙が支配し、まるで嵐の前の静けさのような重苦しい緊張が漂っていた。空気は張り詰め、誰も無駄な動きをしない。緊迫感が肌にまとわりつくようだった。
巨大な戦略地図が広げられたテーブルの上には、細かく記された地図が置かれ、ベルシオン王国の地形が浮き彫りになっていた。要塞の位置、補給路、軍勢の動きが緻密に描かれ、駒は戦場に配置された兵士のように並び、冷たい光を反射している。
長椅子に腰掛けた貴族たちは、誰一人として気軽に動く者はなく、ネルソン・スカバル公爵の言葉をまるで裁定を待つ罪人のように固唾をのんで聞き入っていた。額には薄く汗が滲む者もいる。
今日の軍議は「ベルシオン王国への出兵計画」と称され、スピネル王国内の主要な貴族すべてに召集がかけられていた。しかし、それは表向きの理由。本当の狙いは、王の座を狙うジェームズと、その側近であるビンセントをおびき寄せることにあった
リチャード・スピネル王は豪奢な椅子にふんぞり返り、赤ら顔を険しく歪めていた。彼の周囲にはネルソン・スカバル公爵をはじめとする重臣たちが集まり、戦略について議論を交わしていた。武骨なビンセント・スプラス侯爵の席は空のままであり、ジェームズ・スピネル公爵の姿もなかった。
「……ジェームズとビンセントが来ておりませんな」
リチャードの隣で控えていたネルソン・スカバル公爵が、静かに呟いた。その顔に浮かぶのは、僅かな苛立ちと警戒心。
リチャードは鼻を鳴らし、不機嫌そうに呟いた。
「病だと? ふざけおって……」
ジェームズとビンセントは、それぞれ病を理由に欠席の意を伝えてきた。だが、ネルソンに言わせれば、それはあまりに都合が良すぎる話だ。
「奴らがただの病で休むとは思えませんな。こちらの意図を察し、警戒しているのでしょう」
リチャード王の口元が歪んだ。彼の短気な性格を知る者たちは、その目が怒りに燃え上がるのを見て緊張を走らせた。最初は表向きの冷静さを保っていたものの、次第に苛立ちが募っていく。彼の脳裏には、腹違いの兄の不遜な態度と、何かを企んでいるのではないかという疑念が渦巻いていた。
「まさか、軍議を欠席するとは……」
ネルソン・スカバル公爵が静かに口を開く。その声には冷静さが保たれていたが、微かな警戒心も滲んでいた。
「ヤツらが裏切るつもりではないだろうな?」
その言葉が発せられた瞬間、空気が凍りついた。誰もが息を止め、無言のまま視線を交わす。燭台の火がかすかに揺れ、長く伸びた影が壁に波打った。
リチャード王は面倒くさそうに椅子にもたれかかった。彼にとって、軍議の本来の目的はどうでもよかった。王としての威厳を示し、邪魔な兄を排除する口実があればよいのだ。
ネルソンは静かに頷き、慎重に言葉を選ぶ。
「いずれにせよ、ジェームズ派が強硬策に出るならば、今すぐ別の手を打たねばなりません」
王は鼻を鳴らし、苛立たしげに杯を乱暴に置いた。
「では、奴らの屋敷を取り囲み、無理やりでもここに連れてこい!」
だが、ネルソンは冷静だった。
「……陛下、それは得策ではありません。ジェームズとビンセントは、まだ正式に反乱を起こしたわけではないのです。無理に捕えようとすれば、かえって貴族たちの反発を招きましょう」
リチャードはしばし考えるように顎を撫でた後、面倒くさそうに肩をすくめた。
軍議が終わると、リチャード王とネルソン公爵は別室に入り、密かに言葉を交わした。
「やつら、何か企んでいるな?」
リチャード王の声には警戒心が滲んでいた。ネルソン公爵は静かに頷きながら、冷静な表情で言った。
「確証はありませんが、無視するにはあまりにも不自然な欠席です。何らかの動きを見せる可能性は十分にあります」
「放っておくわけにはいかん……兵を派遣して監視させるか?」
「軽率に動けば、かえって彼らに警戒心を与えるやもしれません。まずは内通者を使い、彼らの動向を探るのが先かと」
リチャード王はしばし考え込んだ。ジェームズとビンセントが反乱を企てているならば、速やかに対処しなければならない。しかし、ここで無闇に動いてしまえば、かえって彼らの動きを加速させる可能性もある。
「……よし。まずは内密に探れ。確証が得られ次第、即座に動くぞ」
ネルソン公爵は静かに頷き、密かに動き出す手配を始めた。リチャード王は椅子に深く腰掛け、天井を睨みつけながら、膨れ上がる不安を噛み殺した。
彼の王座を脅かす者がいるのならば、それを排除するのみだ。




