2-4 忍び
馬車の中ーー
窓から差し込む月明かりが、柔らかな光となって車内を淡く照らしていた。
黒いベルベットのカーテンが揺れるたび、光と影が交錯し、幻想的な陰影を生み出す。
遠ざかる王城を見つめながら、私は大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
肩の力が抜けると同時に、張り詰めていた緊張がどっと押し寄せる。
まるで、全身を締めつけていた鋼鉄の鎖が、一気に解き放たれたような感覚。
小太郎は向かいの座席に腰を下ろし、暗いオッドアイを細めた。
「隣国に向かった方が良い」
低く響く声が、沈黙を切り裂く。
「家に帰っても、あの女はお前を捕らえて突き出すだろう」
「あの女……」
それが、側妻を指していることはすぐに理解できた。
「嘘! お父様が助けてくれるわ」
反射的に言い返したが、その言葉はひどく空虚だった。
……そう、助けてくれるはず。
私は、公爵令嬢。公爵の娘。
父は、私を見捨てたりしないーー
「…………」
だが、小太郎は何も言わなかった。
その沈黙が、冷たい現実を突きつける。
ーー父は、何もできない。
思い返せば、これまでずっと、側妻の言いなりだったではないか。
ならば、今もーー
「……そうね。きっと、お父様は何もできないわ」
力なく笑いながら、拳を握りしめる。
いいわ。もう、期待はしない。
頼るべきは、“忍び”だけ。
小太郎だけーー
「任せるわ、小太郎」
静かに告げた瞬間、小太郎のオッドアイがわずかに光を宿す。
イザベラは一瞬、顔を歪めた。
だが、すぐにその弱さを振り払うように笑顔をつくる。
今は立ち止まっている場合ではない。
「……行きましょう」
決意を固め、細く白い指をぎゅっと握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが緊張を引き締めた。
***
二人を乗せた馬車は、王都の闇に紛れながら滑るように進んでいく。
しんと静まり返った街路、石畳を軽やかに叩く馬の蹄の音。
城門に差し掛かる頃には、周囲は夜の帳に包まれ、人影はまばらだった。
衛兵たちがちらりと馬車に視線を投げたが、誰も止める素振りは見せない。
貴族の馬車は、彼らにとっては見慣れたもの。
ましてや、その中に死刑囚が乗っているなど、思いもよらぬことだろう。
城門をくぐった後、しばらく進んだところで、馬車は静かに停まった。
黒塗りの豪奢な馬車から降りると、小太郎がすぐさま別の馬車を指し示す。
「追手を撒くため、ここで乗り換える」
元の馬車とは打って変わり、今度の馬車はどこにでもあるような、くたびれた木製のものだった。
貴族の装飾など一切なく、車輪は泥をかぶり、幌にはところどころ修繕の跡が見える。
だが、それこそが狙いーーこの馬車ならば、誰の目にも留まらぬだろう。
「分かったわ」
イザベラは頷き、新たな馬車に乗り込んだ。
車内は狭く、座席のクッションも硬い。
しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
途中、追っ手の気配を感じながらも、小太郎の周到な段取りのおかげで、馬車は難なく隣町の近くまで進んだ。
目立たぬ路地にひっそりと佇む一軒家の前で、馬車はようやく止まる。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、灯り一つ漏れていないが、確かに人の気配がある。
「ここで着替えて平民に成りすます」
小太郎が低く告げる。
「ええ、分かったわ」
人目につかぬことを確認すると、小太郎は手早く扉を開き、イザベラを家の中へと促した。
室内は静寂に包まれている。
しかし、その静けさの中に潜む殺気と研ぎ澄まされた気配が、ここがただの民家でないことを物語っていた。
すると、奥の暗がりから、すっと一人の女が現れる。
黒い忍び装束に身を包み、腰には短刀を携えた女ーーくノ一。
切れ長の瞳がじっとイザベラを見据え、無言のまま衣服を差し出してきた。
なんと手回しが良いこと……小太郎、やるわね!
受け取った布は、庶民の女が身につけるシンプルなワンピースとフード付きのマント。
これなら、貴族らしさは一切消える。
***
ここは、小太郎一族ーー『嵐雲党』のアジトの一つ。
御者も忍びの仲間であり、周囲に潜む影もまた、すべてが彼らの手の者だった。
忍びの一族は、国のあらゆる場所に『根の者』という情報員を潜ませている。
その網の目のような情報網は、王宮の動きさえ察知できるほど強固なものだった。
そして、その彼らを動かせるのは、もはやルードイッヒ公爵ではない。
代々公爵家に仕えてきた彼らだが、今では仕事を与えぬ公爵よりも、己を必要とする者に重きを置く。
すなわち、彼らにとって今の主は、公爵令嬢ーーイザベラ。
その証拠に、小太郎は長の息子でありながら、今や一族一の豪の者として頭角を現しつつあった。
彼こそが次の長となる存在。
そんな彼が、ただ一人忠誠を誓う相手がイザベラであることは、忍びの一族にとっても明白な事実だった。