2-3忍び
コツ、コツ、コツ…………
足音が近づいてくる。得体の知れない恐怖で、背筋に冷たい感覚が走り、心臓が早鐘を打つ。
ーー不意に、響き始めた足音が牢の前でピタリと止まった。
ゴクリーー
無意識に喉が鳴った。
鉄格子越しに、ぼんやりとした灯りに浮かび上がる影ーー。
静かに、ゆっくりと、そこに立っていた。
金髪。碧眼。
心臓が、一瞬、強く跳ねる。
(ヘインズ!?)
血が逆流するような感覚に襲われた。
冷え切った牢獄の空気が、一瞬にして凍りつく。
怖い。
いやだ。
さっきの痛みが、頬に生々しく蘇る。
拳の形が刻まれたような強力な痛み。
強化魔法で身体強化した情け容赦ない全力のパンチをくらった瞬間の衝撃が、今になっても脳裏に焼き付いていた。
また殴られる?
それとも今度こそーー
恐怖が喉元までせり上がり、息が詰まる。
どうすればいい?
逃げ場はどこにもない。
ここは牢の中。私は囚われの身。
ギリ、と痛みも忘れて奥歯を噛みしめた。
だがーー違う。
目の前の男から、あの皮肉な笑い声は聞こえてこなかった。
顔は同じなのに。
髪の色も、目の色も、輪郭すらもーーまるでそっくりなのに。
けれど、圧倒的に、何かが違う。
違和感。
違和感。
違和感ーー
まるで、同じ仮面をかぶった別人のような。
暗闇の中で、じっと私を見つめる視線。
冷たい。
刺すような鋭さがあるのに、ヘインズの持つ愚鈍な傲慢さがない。
静かすぎる気配。
殺気はない。
だが、まるで獣が闇に潜んでこちらを観察しているかのような、異質な存在感があった。
鉄格子越しに、その顔を凝視する。
すると、男はわずかに首を傾けた。
その動きに、心臓が跳ねた。
ーー知っている。
この仕草。
この視線。
頭の中で何かが弾ける。
ーーいや、そんなはずはない。
混乱する。
目の前にいるのは、王子ヘインズ・クラネルのはず。
だが、私の記憶の奥底から這い出てくるこの感覚はーー
(まさか……?)
心臓が激しく打ち鳴らされる。
張り詰めた空気の中、私は唇を震わせながら囁いた。
「……小太郎?」
言った瞬間、男の目がわずかに細められる。
鉄格子越しに、ゆっくりと一歩近づいた。
息が止まる。
喉が渇く。
次の瞬間、低く、静かな声が落ちた。
「イザベラ、報告だ」
その瞬間、雷に打たれたように全身が震えた。
間違いないーー
この男は、小太郎だーー!
「お前の死刑は決まった。逃げるぞ」
小太郎は躊躇なく鍵を取り出し、錆びついた鉄格子を静かに開く。
ギィ……と、かすかな軋みが響くが、彼の動きはあくまで素早く、淀みない。
まるで、この牢獄に初めから隙間などなかったかのように、するりと扉が開かれる。
続いて、私の手首と足首に巻かれた重たい鎖に手を伸ばし、器用な指先で素早く外す。
錠前が外れ、足枷が床に落ちる音が小さく響く。
次の瞬間ーー
ぐい、と腕を引かれた。
乱暴な手つき。
だけど、不思議なほど優しい。
引かれるままに立ち上がると、指先から伝わる体温がじんわりと肌に沁みた。
牢獄の冷たい空気の中で、その熱だけが、妙に鮮明に感じられる。
痛みはなかった。
むしろ、彼の手のひらから伝わる確かな温もりが、ひどく心地よかった。
どんな時も、彼は私のすぐ傍にいた。
私が泣く時も、笑う時も、怒る時もーー
影のように寄り添い、風のように支え続けていた。
「正面から出て、馬車に乗る。堂々と歩け。王子にエスコートされているようにな」
小太郎の声は、相変わらず低く静かだった。
それが、まるでこの牢獄の中ではなく、日常の何気ない会話のように聞こえてくる。
しかし、彼の言葉の意味を理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「まさか……強行突破!?」
小太郎は表情一つ変えずに頷いた。
静謐な空気。
心臓が、喉の奥まで飛び出しそうなほど高鳴る。
でも、やるしかない。
私は震えそうになる指先を押さえつけ、背筋を伸ばす。
どんなに恐怖が胸を締めつけようとも、表情には決して出せない。
ここで怯えた様子を見せれば、一瞬にしてすべてが瓦解する。
冷たい牢獄の石床を踏みしめながら、小太郎に手を引かれた。
まるで、舞踏会に向かう貴婦人のように。
だが、これは命がけの舞踏会だ。
もし、一歩でも踏み外せば、即座に死が待っている。
ーー牢獄の出口
長く薄暗い廊下を歩き、曲がり角に差し掛かったときだった。
「……っ」
小太郎が、一瞬だけ動きを止めた。
私も、反射的に足を止める。
視線を前へ向けると、二人の衛兵が廊下を歩いてくるのが見えた。
(まずい……!)
心臓が跳ねる。
背中にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
どうする? このまま進む?
それとも、方向を変えてやり過ごす?
しかし、小太郎は迷わなかった。
わずかに私の手を引き寄せ、何事もないようにそのまま前へ進む。
私は息を呑んだ。
ーー大丈夫なの?
逃げたい気持ちを必死に押し殺し、彼の歩調に合わせる。
衛兵が近づいてくる。
相手の視線が私たちの姿を捉えたのが分かった。
一瞬、何か言われるのではないかと身構える。
だが、衛兵たちは私たちをじろりと見た後、すぐに頭を下げた。
「殿下」
声が落ちる。
小太郎は軽く頷くだけで、まったく立ち止まらない。
まるで、何も問題などないというように。
私も、それにならって目線を前へ向けた。
(……通り過ぎた!?)
背中に当たる衛兵たちの視線が、じわじわと消えていくのを感じる。
ようやく、廊下の曲がり角を抜けた。
そこで初めて、小太郎が小さく息を吐いた。
私も、こっそりと肩の力を抜く。
たった今、私は王子の婚約者としてエスコートされる立場を演じきったのだ。
だがーー
(次は、正面門……!)
牢獄の出口を通るのとは、わけが違う。
見張りの兵士も、明かりも、すべてが桁違いに厳しい場所。
手のひらが、じっとりと湿っていた。
静まり返った夜の空気の中、私は必死に足を進める。
歩くたびに、足元から絡みつくような恐怖が這い上がってくるのを感じながら。
今さら引き返すことは、もうできないーー。
無限の時間を感じたごく短い時間……やっと馬車にたどりつく。