20-1 腹黒令嬢の策略
夜の帳が静かに降りる頃、冷たい風が窓辺をかすめた。城の中庭は深い闇に沈み、遠くで梟が低く鳴き、それもすぐに静寂へと溶けていく。揺らめく蝋燭の炎が壁に影を落とし、部屋の中はぼんやりとした橙色に染まっていた。イザベラは深く椅子にもたれ、指先でグラスの縁をなぞりながら静かに思索に耽っていた。ワインが僅かに揺れ、今にも溢れそうになる。その瞬間、扉がそっと叩かれた。
「お嬢様。ベルシオン軍が、カーネシアン王国を無事征服いたしました」
低く、けれどどこか柔らかい声が響く。黒髪をきちんと撫でつけた執事、セバスの姿をした男――だが、その瞳に宿る鋭さは紛れもなく、小太郎のものだった。彼の歩みは音もなく、まるで影が滑るように忍び寄る。黒衣は微動だにせず、まるで夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。
「本当なの、セバス?」
「はい。間違いございません。この目で見てまいりましたので」
小太郎は感情を一切交えず、まるで夜露が落ちるように淡々と戦況を語った。それはまさに、イザベラがルークに示した助言の成果でもあり、彼がその知恵をいかに活かし、あるいは逸したのかを如実に物語っていた。
「ふーん……思ったより早く決着がついたわね」
イザベラは唇を尖らせ、小さく息を吐いた。戦争に勝利したことは喜ばしい。多くの血が流れず、ベルシオン軍の損害も最小限に抑えられたのは、まさに理想的な結果だ。だが、その理想の実現が、かえって彼女の胸に重苦しい影を落とした。
これでは……またルークに結婚を迫られるじゃない
心の奥底にじわりと広がる憂鬱。カーネシアン王国征服を結婚の条件に掲げたのは自分だ。だが、これほど早く達成されるとは思ってもみなかった。予想以上の迅速な決着に、まるで自身の逃げ道が狭まったような心地がする。
「どうかされましたか? お嬢様」
セバスの姿をした小太郎が、僅かに口角を上げる。
「結婚の条件だったのよ……カーネシアン王国の征服が」
「それはそれは。おめでとうございます、お嬢様」
小太郎の声には、どこか含みのある響きが混じる。その口元には、まるでいたずらを仕掛ける子供のような意地悪な笑みが浮かんでいた。彼の眼差しにはわずかに愉快げな色さえ滲んでいる。
イザベラはキッと彼を睨みつける。
「……良いわけないでしょう。もっと時間がかかると思っていたのに、これではまたルークに結婚を迫られるじゃない。気が重いわ」
「仕方ありませんね。ルーク殿はあなたと結婚するために、必死で頑張ったのですから。もう諦めてしまえばよろしいのでは?」
「そうですよ、お嬢様。ルーク様は、容姿端麗で、国王で、しかもお嬢様を心から思っていらっしゃいますし……」
「あやめまで、そんなことを言うの? やめなさい、僭越ですよ」
「も、申し訳ございません……!」
イザベラにピシャリと制され、あやめは肩をすくめながら、慌てて数歩後ずさる。
「ですがお嬢様。ルーク様を袖にしてベルシオンを離れるとしたら……かなり遠方の国を目指さねばなりませんね」
「そ、そうなの……?」
イザベラの瞳が揺れる。頭の中で、小太郎に教えられた近隣諸国の情報が巡る。どの国も一癖も二癖もある国ばかりだ。隣国を抜け、さらにその先へ行かなければ、安全とは言えない。しかも、遠方の国ほど情報は少なく、不確実性が高まる……。
小太郎はそんな彼女の様子を見て、小さく溜息をついた。
「はぁ……何がそんなに不満なんです? ルーク殿はここらでは相当な優良物件ですよ」
「……セバス、喋りが小太郎になってるわよ」
ピクリ、と小太郎の肩がわずかに動く。彼の指先が無意識に短剣の柄を撫でていた。イザベラは彼とは幼少の頃からの付き合いだ。多少砕けた口調でも驚きはしない。だが、ここはベルシオン城。誰がどこで聞き耳を立てているかわからない。だからこそ、注意せざるを得なかった。
小太郎は少しだけ肩を竦め、形式的に頭を下げた。
「ふむ……ルーク様、ね……優良物件か……」
イザベラは腕を組み、考え込む。頬にうっすらと朱が差す。脳裏に浮かぶのは、彼の真っ直ぐな眼差し。何度も何度も、逃げる隙を与えぬほどに繰り返された求婚の言葉。
「カーネシアン戦を見るに、ルークは王としてかなりの器だと思うぞ。戦場では冷静沈着、決断力に優れ、必要な時には苛烈な判断も下せる。部下からの信頼も厚く、カリスマ性も抜群だ。俺はルークがこの先、大物になると思うね」
「あら、ずいぶん推すのね?」
「客観的な判断だと思うがね」
イザベラは長い睫毛を伏せ、小さく肩をすくめた。静寂の中、窓の外では、遠くベルシオンの王城に向けて新たな夜風が吹き抜けていた。イザベラはグラスの縁をなぞりながら、小さく呟いた。
「夜はまだ長いわね」




